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第2部1 斜陽の馬車、あるいは審判への序奏②

遠ざかるひづめの音を背に、カシウスは微動だにせず立ち尽くしていた。天幕に差し込む陽光が、彼の大きな背中に、剥き出しの岩場のような険しい影を落としている。

「……どうして、あの使者が兄様の客なの?」

ミリアムの声が、沈黙を切り裂いた。

「兄様はこの手紙の主を……本当は、はじめから知っているのでしょう?」

その問いは静かだが、真理を射抜く鑑定士の鋭さを秘めていた。彼女は見ていた。兄の横顔に刻まれたものが、長旅の疲労などではなく、もっと根深い、魂の奥底から滲み出すような「忌避」と、黒々と淀んだ「怨嗟」の影であることを。

「……無論、知っているさ。街であれだけ騒がれていれば、嫌でも耳に入る」

カシウスは背中を向けたまま、喉の奥から吐き捨てるように言った。

「洗礼者ヨカナンの弟子、ユダ様だろう? 噂ならいくらでも流れている。それほどのお偉い方が、ベツアレムを名指しでご指名だ。職人として、行かなければ失礼ってもんだろう」

カシウスは、まるで市場の端役と端銭はたぜにの取引でもするかのように、あえて軽薄な口調を装った。だが、振り向かないその瞳の奥には、二度と生きては帰らぬと決めた者が宿す、完成された死の色が静かに、冷たく淀んでいた。

ミリアムは一歩、逃げようとする兄の背中へ踏み込む。

「洗礼者ヨカナンの弟子……ええ、表向きはそうね。だけど、それだけじゃないはずよ」

彼女の声が、わずかに震えながらも確信を帯びて響く。

「あの人は、兄様のかつての師匠……」

そこで一度言葉を切り、ミリアムは己の血脈に流れる呪わしい真実を、力強く口にした。

「そして――私の、お父様だわ」

ミリアムはさらに言葉を重ねた。逃げようとする兄の魂を繋ぎ止めるように。

「昨晩……いいえ、最近ずっと泥にまみれて帰らなかったのは、この『招待状』を手引きさせ、あの男へと至る道を独りで奔走していたからなのでしょう?」

図星を突かれたカシウスの肩が、微かに跳ねた。ミリアムは逃さじと、鑑定士の瞳で兄の瞳の奥をじっと見据える。

「……私も行くわ」

小さく、けれど覚悟を秘めた凛とした声。それは鋭く天幕に響き渡り、澱んでいた熱い空気を鮮烈に切り裂いた。

カシウスは挑むような鋭い視線で妹を見返していたが、やがて重い唇をゆっくりと開いた。

「……駄目だ、ミリアム。お前はここにいろ」

「どうして? 私もベツアレムの一員よ。これは私自身の問題でもあるわ。兄様、マカイロス要塞で言ったわよね。いつか父様のことを、きちんと話してくれるって。……今が、その時よ」

ミリアムの必死の訴えに、カシウスは悲痛な歪みを顔に浮かべた。しばしの、そして永遠のようにも感じられる沈黙。やがて彼は、自らの内側に溜まった澱を吐き出すように口を開く。

「俺の後など追うな。お前のいるべき場所は、もっと暖かな場所だ。……ナタンの隣だ」

カシウスは食い下がるミリアムの両肩を、岩のような大きな手で包み込んだ。そして、その瞳の奥に宿る「明日を諦めた者の光」を、真っ向から彼女にぶつけた。

「いいか、ミリアム。……俺はこの日のためにあいつを、お前の夫として育ててきたんだ」

その言葉を聞いた瞬間、ミリアムの心には言いようのない悲しみが満ちあふれた。

あの黎明の丘で、ナタンと二人きり、一生共に歩もうと誓い合った約束。自分たちにとっては、魂を震わせるほど純粋な愛の決意だったものが、兄にとっては、復讐という奈落へ向かうための「駒の配置」に過ぎなかったというのか。

兄は、自分たちの愛を、独りで死地へ向かうための「都合の良い言い訳」として使おうとしていた。

カシウスの声は、静謐な祈りのようでもあり、同時に逃れられぬ呪いのようでもあった。

「俺が守るのは『ベツアレムの家』だ。だが……あいつ(ナタン)が守るのは、他でもない『お前』なのだ。だから、もう俺のことなど忘れろ。振り返らずに、自分の道を行け」

その言葉は、一言一言が逃れようのないくさびとなって、ミリアムの胸に深く打ち込まれていく。

それは兄としての慈しみなどではなかった。血の報復という大罪を独りで背負い、そのまま二度と戻らぬ場所へ消えていこうとする者の、あまりに切実な「遺言」にしか聞こえなかった。

カシウスは、ゲッセマネの館へ行って何をしようとしているのか。

答えは明白だった。かつての師を、そしてミリアムの実の父であるユダを、その手で殺めるつもりなのだ。

そして、その罪のすべてを独りで抱えたまま、自らも深い闇の彼方へ消え去るつもりなのか――。ミリアムの視界が、絶望に似た悲しみで歪んでいく。

(そんなことはさせない)

そう叫び、兄の行く手を阻もうとしたその瞬間、ミリアムの脳裏に再びヨカナンの言葉が蘇った。

 ――誰であろうと、己の考える幸福を他者に押し付けることはできないのだ。

(今、私が兄様に向けようとしている「愛」は、兄様の幸福を否定する「押し付け」ではないのか?)

その残酷な問いに心がひるんだ。わずかにミリアムが気圧されたその時、不意に傍らに気配を感じた。

いつの間に起きてきたのだろうか。サロメがそこに立っていた。

幼い少女は、兄と姉の激しい言い争いを怯えた瞳で見つめていた。ミリアムの視線に気づくと、その大きな瞳にはみるみるうちに涙が溜まっていく。

「……兄様、姉様、なんでケンカしてるの? こんなの、サロメ嫌だよぉ……」

堪えきれなくなったサロメが、わっと声を上げて泣き出した。

ミリアムは弾かれたように妹の元へ駆け寄り、その小さな身体を抱きとめ、震える背中を必死に撫でた。

カシウスは、泣きじゃくるサロメの姿に、身を切られるような悲痛な表情を浮かべた。一瞬、何かを言いかけようと唇を震わせたが、結局、何も言わずに背を向けた。

彼はそのまま、天幕の外、陽炎が揺れる灼熱の荒野へと逃げるように立ち去っていった。

あとに残されたのは、熱を帯びた天幕の下、いつまでも泣き続けるサロメと、それをただ抱きしめることしかできないミリアムだけだった。

遠ざかるカシウスの足音が、砂塵の中に消えていくのを、ミリアムは絶望に近い心地で聴いていた。

夕暮れは、周囲を滴る血のような朱色に染め上げていた。

ミリアムは、踏みしめている地面さえも不確かになるほどの無力感に包まれ、一人立ち尽くしていた。

(もし……あの復讐こそが兄様の本当の幸福だと言うのなら、もう、私には止めることさえ許されないのかしら)

かつて預言者ヨカナンと対峙した際、全身の血管を駆け巡っていたあの「万能感」は、今や見る影もなく萎み、霧散していた。目の前にあるのは、死を覚悟し、一族の絆さえも自ら断ち切ろうとする兄の頑なな背中。そして、暗闇の奥で口を開けて待つ「実の父」という名の、正体不明の怪物だ。

すべてを暴き、真理を射抜くはずの「鑑定士」の瞳。それは、あまりに巨大で残酷な運命の濁流を前にして、ただ沈黙を強いられていた。今の彼女には、兄の心さえ鑑定することができない。

(神様、天の御使いよ……どうか、私に答えを……)

ミリアムが魂を絞り出すように祈りを捧げた、その時だった。

天からの答えであるかのように、虚空から何かが音もなく落ちてきた。

反射的に両手で受け止めたそれは、夕陽の残光を跳ね返し、不気味なほど鮮やかに輝く一個の林檎だった。

「迷える子羊よ、それを食べなさい」

崩れかけた古びた石壁の上に、誰かが腰掛けていた。逆光の中でその輪郭は細く黄金色に縁取られ、まるで異界から舞い降りた使者のようにも見えた。

(……本当に、天の御使いが来てくださったの?)

ミリアムの胸の震えを見透かしたように、再び声が届く。

「それは、あらゆる願いを叶える禁断の林檎だ。一口食べれば、あなたの悩みなんて、影も形もなく消え去ってしまうだろう」

黄金の光を背負ったその人は、羽毛のような軽やかさで地面へと降り立った。ミリアムの目の前に立ったその瞳には、おどけた言葉とは裏腹に、彼女を案じる深い少年の温かさが宿っている。

ナタンだった。

彼は慈しみを湛えた瞳で、呆然と立ち尽くすミリアムを見つめた。

「姉様。……話してよ」

彼は、微かに震えるミリアムの肩に、そっと手を置いた。その掌の熱が、彼女を支配していた冷たい無力感を解かしていく。

「姉様の願いなら、どんなことでも……絶対に、僕が叶えてみせるから」

その言葉は、ナタンなりの精一杯の背伸びに過ぎなかったのかもしれない。けれど、その不器用なほど純粋な誠実さが、ミリアムの中で限界まで張り詰めていた心の糸を、ぷつりと切った。

彼女は見栄も、鑑定士としての矜持きょうじも、何もかもを投げ捨てて、ナタンの細い胸にすがり付いた。そして堰を切ったように、子供のように声を上げて泣いた。

「大丈夫だよ、姉様。大丈夫……」

不意の抱擁にナタンは一瞬身を固くしたが、すぐに優しく、この世で最も脆い壊れ物を扱うような手つきでミリアムを抱きしめ返した。

「泣かないで。僕の大事な、大好きな姉様。僕がいるよ。僕がずっと、ずっとそばにいるから」

ナタンは、ミリアムが泣き止むまで、何度も、何度も、その震える背中を優しく撫で続けた。

本来であれば、自分の出生にまつわる忌まわしい秘密も、カシウスが胸に秘めた凄絶な殺意の正体も、ナタンのような少年に打ち明けるべきではなかった。それは一族の暗部を流れるよどみであり、まだ汚れなき「未来」を歩むべき少年が背負うには、あまりに毒が強すぎる。

けれど、いま自分を抱きしめ、柔らかな光のような慈愛を見せているナタンを前にして、ミリアムの鉄の自制心は、砂の城のようにもろく崩れ去った。

ミリアムは、途切れ途切れに、けれど魂を吐き出すように、すべてを打ち明けた。

自分が誰の娘であるか。兄が何のためにゲッセマネへ向かおうとしているのか。

話し終えた後、二人を包んだのは重苦しい沈黙だった。

ナタンの小さな胸が、今聞いたばかりの巨大すぎる真実を必死に受け止めようと、激しく上下しているのが伝わってくる。少年の指先は微かに震え、その瞳は、逃れようのない物語の残酷さに耐えかねるように揺れていた。

(やはり、重すぎたのだ――)

これ以上、この子を運命の渦に引き込んではいけない。後悔に苛まれたミリアムが言葉を飲み込もうとしたその時、ナタンがポツリと、地を這うような決意を込めて言った。

「……僕、兄様を説得してみるよ」

燃えるような夕暮れの朱の中で、静かに、けれど誰よりも強く決心する少年の横顔。

カシウスが彼を「ミリアムを守る盾」として育ててきたことも知らず、自らの意志で光の方へ歩き出そうとするその姿を、ミリアムはただ呆然と見守ることしかできなかった。


表紙イラストをpixivに掲載しています。


朗読版はyoutubeにあります。

https://www.youtube.com/playlist?list=PL8BNa9czmG5HRY9yC-7O8NnwODXAXGjZe

【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。

※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。

※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。

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