第2部1 斜陽の馬車、あるいは審判への序奏
ゲッセマネの闇の中、その場所だけを冷たく鋭い銀の刃のような月光が、あたりを照らしていた。
その月光の下、彼は慟哭をしていた。
夜の中見上げる。十字架にかけられ息絶えたその男。
無残にえぐられた脇腹からは、今もなお命のなごりである血が、途切れることなく滴っている。
ポツリ、ポツリと石畳を叩くその音が、足元に広がる赤い血の溜まりを揺らし、静寂を切り裂いていた。
蒼白い月明かりにさらされたその体は、腰にわずかな布を巻いているだけだった。夜の冷気にさらされて透き通るようなその姿は、精巧に彫られた大理石像のようでもあり、死そのものが固まったかのようにも見える。
男の頭には鋭い刺の冠が深く食い込み、額の傷からは重々しく濁った血が流れ落ちて、生気を失った顔を赤黒く汚していた。
月光に照らされた男の顔には、もう魂の灯火は宿っていない。
その抜け殻を前にして、肺を絞り出すような、更に更に長く深い慟哭を上げた。
*
どうして、これほどの絶望にたどり着いてしまったのか。
どんな過ちが、この凄惨な結末を招いたのだろうか。
見渡せば、月下の景色はあまりに静かだった。夜風がオリーブの葉を揺らす音さえ途絶え、まるで神話の残酷な一場面を切り取ったような沈黙が支配している。
ここにいるのは、自分と、この蒼白い男だけだ。
呪わしい師の名――ユダを持つ、この男。
なぜ、この奈落の底へ行き着いてしまったのか。もはや答えは風の中にも見つからない。けれど、逃れようのない真実が、鋭い杭となって胸を貫く。
――この男を殺したのは、俺だ。俺がこの手で、確かに命を奪ったのだ。
まぶたを閉じれば、銀色の槍が男の脇腹を深く貫いた瞬間の光景が脳裏に浮かぶ。
溢れ出した熱い血が腕を濡らした。俺の執念が、積み重なった恨みが、その傷口から男の命を吸い上げたのだ。
かつての、幸せに満ちた日々が幻のように浮かぶ。
俺はようやく因縁の地、ゲッセマネへとたどり着いた。
それなのに、今、胸を満たしているのは虚しい風の音だけだ。
俺が来るべき場所は、本当にここだったのか?
俺が信じた復讐は、本当に正義だったのか?
問いかけても、十字架の男は二度と答えない。ただ、凍てつく月光の下で、かすかに微笑んでいるようにも見えた。まるで、自分のたどった数奇な運命に満足して逝ったかのように。
ユダから届けられた、一通の招待状。俺をこの場所――「ゲッセマネ」へと引きずり寄せた、あの運命の始まり。
その蒼き死を見つめながら、俺はあの日を回想していた。
* * *
その白銀の蝋で厳重に封印された書簡が、ミリアムの細い指先に握られていたのは、あの日――カシウスが、泥を浴びたように憔悴しきって帰還した、あの日のことだ。
一族の長として、常に不敵な笑みを湛え、岩のように揺るぎなかった彼が、精根尽き果てた姿で天幕の奥へ沈み込んだ、その正午のことであった。
*
天を焼く太陽が、ガリラヤの荒野を白茶けた沈黙に陥れていた。
地平の彼方まで続く砂礫の海からは、逃げ場のない熱気が陽炎となって立ち昇り、遠くの岩山を不気味に歪ませている。一滴の慈雨さえも拒絶するようなその光景は、命あるものを等しく乾かし、魂の水分までも奪い去っていくかのようだった。
風さえも熱を帯び、天幕の布地をパタパタと虚しく震わせる。
その天幕の中、ミリアムはかつてヨルダン川のほとりで交わした、聖ヨカナンとの対話を思い出していた。
夕暮れの赤が水面に刺す、ヨルダン川のほとり。
ヨカナンは絶え間なく流れる川面を見つめ、自分自身に言い聞かせるように、あるいは夜の神に祈るように、静かに言葉を紡いでいた。
――ミリアム。何が幸福であるか、それを決めるのは他人ではないのだ。自分でしか、決めることはできない。たとえ師であっても、親であっても、己の考える幸福を他者に押し付けることはできないのだよ
――襤褸を纏い、空腹に苦しもうとも、その魂が幸福だと思えば、その者は幸福なのだ。逆に、どれほど豪奢な生活を送り、多くの人にかしづかれようとも、その者の心の内が不幸であるならば、どこまでも不幸になるしかない。……覚えておきなさい。自身が『これこそが幸福だ』と思う道に乗ってのみ、人は初めて幸福になれるのだ
(自身がこれこそが幸福だ、と思う道)
今、かつて最愛の姉を殺めた義兄であり師でもあるユダへの復讐のため、死地へ旅立とうとしているカシウス。そして、呪われた鑑定士の「目」の精算のため、父であるその男との決着をつけようとしているミリアム。
その運命の時が、すぐ目の前まで迫っていることをミリアムは肌で感じていた。
ふと意識を現実に戻せば、正午の残酷な陽光が天幕の布地を焼き、停滞した空気が不気味な熱に震えていた。その歪んだ景色の向こう側、天幕の入り口に、一人の使者が音もなく立っていた。
その姿を目にした瞬間、ミリアムは確信した。
これこそが、ヨシュアが予言した『終わりの始まりを告げる合図』なのだと。
物言わぬ使者が差し出した書簡。ミリアムがそれを震える手で受け取ると、男は感情の読み取れない顔で恭しく一礼した。
封を切った刹那、立ち昇ったのは、あの「忘却の丘」で浴びたのと同じ、鼻腔を刺すような没薬の重苦しい芳香だった。本来、死者に供えられるはずのその香りは、天幕の中を一瞬にして、陽光の届かぬ冷え切った墓所の静寂へと変えた。
指先に残る、砕けた白銀の蝋。羊皮紙の上に踊る、冷徹にして迷いのない筆致。
ミリアムは、込み上げる戦慄を抑え込みながら、鑑定士の瞳でその言葉の一つ一つを凝視していた。
『ヨカナンの庭に住まう迷える羊より、ベツアレムの誉れ高き末裔たちへ。
かつて荒野にてモーセの言を承り、神の居所をその指先で形作った至高の職人の一族よ。我らは同じ聖火に照らされ、同じ砂塵を分かち合った同胞である。
今、私の手元には、人の知恵では解けぬ「神の宿題」が積まれている。一族に受け継がれし、真理を射抜く瞳。そして、幻影を現世に繋ぎ止める槌の技。それらを借り受け、欠けた真理を完成させたい義がある。
我が館、ゲツセマネにて待つ。ここは油を絞り、魂を精製する場所。
君たちが望む「未来」の重みを、共にこの地で鑑定しようではないか。』
書簡を読み終えた瞬間、ミリアムの心は氷結した。
(ユダ……。この男が、私の、本当の……)
喉まで出かかった言葉を、彼女は辛うじて飲み込んだ。これは単なる招待状ではない。自分たち一族を長きにわたって縛り続けてきた、あの忌まわしい沈黙を破る、開戦の狼煙なのだ。
ミリアムはゆっくりと羊皮紙を閉じ、激しく震える胸を抑えつけて、前を見据えた。
たとえその先に待つのが、すべてを絞り尽くす「ゲッセマネの搾り機」であったとしても。ナタンの手を離さず、光の射す方へ歩いていくと決めたのだから。
しかし、その決意を裂くように、頭上から声が降ってきた。
「ミリアム。そいつは、俺の客だ」
カシウスだった。いつの間にか背後に立っていた彼は、無造作に大きな手を伸ばすと、ミリアムの手から書簡をひったくるように奪い取った。
泥と汗に塗れたまま、彼はじっと羊皮紙を見つめる。どれほどの時間が流れただろうか。静止した時間の中、カシウスは顔を上げぬまま、使者へ向かって地を這うような低い声を放った。
「……十日後だ。十日後に、馬車をよこせ」
使者が何かを答えようと口を開くよりも早く、カシウスは拒絶するように言葉を被せる。
「お前の主の望み通り、ベツアレムの知恵を貸してやると伝えろ。……それまでは、二度とこの天幕に近づくな」
カシウスの全身から放たれる圧倒的な威圧感――それはもはや、隠しきれない剥き出しの殺気だった。洗練された教育を受けているはずの使者でさえ、その凄まじい気配に気圧され、本能的に身を引く。
だが、使者はすぐに熟練の優雅さを取り戻すと、冷ややかに微笑み、深く一礼した。
「……承知いたしました。必ずや、我が主にお伝えしましょう」
その言葉を残し、不吉な予感だけを天幕に残して、使者は去っていった。
表紙イラストをpixivに掲載しています。
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※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。




