第1部5 光の庭⑥
麦の粥の、どこか土の匂いが混じったような優しい香りに包まれながら、ミリアムはナタンとサロメを連れて家路を急いだ。
ヨルダン川のほとりでの、あの神聖な、あるいは不穏な空気は、隣を歩く二人の温もりによって、少しずつ日常の色に書き換えられていく。市場の喧騒を遠くに聞きながら歩く道すがら、ナタンはサロメが転ばぬようその小さな手を引き、時折ミリアムの顔を覗き込んでは、安心させるように微笑んだ。
しかし、家に戻るとそこにはあるはずの気配がなかった。工房の火は落ち、冷え切った金床が虚しく佇んでいる。やはりカシウスの姿はどこにもない。
「兄様、いつ帰って来るんだろうね?」
ナタンが首を傾げて、主を失ったまま静まり返る工房を不安げに見つめる。
「兄様には、兄様のお考えがあるのよ。心配することはないわ」
ミリアムは努めて穏やかに、聖母のような微笑みを浮かべて見せた。ミリアムが平然と振る舞うと、ナタンはそれ以上何も言わず、ただ少しだけ肩の力を抜いた。
やがて、三人は身を寄せ合うように寝床の準備を始めた。小さなサロメは、当然のような顔をして、最初からミリアムの右腕の中を陣取っている。ミリアムは空いた左側の腕をそっと広げ、隣で所在なげに立っていた少年に視線を向けた。
「ナタン、あなたもこっちにいらっしゃい」
「……嫌だよ。子供じゃあるまいし、恥ずかしい」
ナタンは妹の手前もあり、少しだけ顔を赤くしてそっぽを向いた。かつての幼い「弟」としての自分と、ミリアムを守る「男」になろうとする背伸びした自意識が、彼の中でせめぎ合っている。ミリアムは、そんな彼の青い矜持を優しく突き崩すように、少しだけ声を低くした。
「私が……そうしたいの。……だめ?」
少し甘えるような、それでいて寂しさを隠しきれないような、脆い声を出す。この「姉様」の不意の弱音に、可愛い弟が抗えないことを彼女は熟知していた。
「……だめじゃないよ」
降参したように小さく呟くと、ナタンはサロメを抱きしめるようにして、そのままミリアムの腕の中へとスッポリ納まった。
サロメの幼い寝息と、ナタンの少し早い鼓動。二人の体温が重なり、ミリアムの肌を通じて伝わってくる。その温かさは、先ほどヨカナンと一緒にいた時に感じた、腹の底がポカポカとするような感覚と同じだった。
(……ああ。これが、私の守りたい奇跡だわ)
ミリアムは二人を抱きしめ、暗い天井を凝視した。
腕の中で眠る少年、ナタン。かつて泥の中から救い出した小さな命は、今やミリアムを支える強さを持ち、いつか自分を妻にするという約束を背負っている。
ミリアムは少年の柔らかな髪に顔を寄せ、鼻腔をくすぐる体温に瞳を閉じながら、心の中で静かに、祈るような誓いを立てた。
(……待ってて、ナタン、私、必ず答えを見つけるから。この先もずっとあなたと一緒に歩き続けることができるよう)
ナタンの規則正しい寝息が、ミリアムの胸に心地よいリズムを刻んでいく。その穏やかな温もりに触れているだけで、外の世界の騒がしさも、将来への漠然とした不安も、今はすべてが遠い出来事のように感じられた。ただこの愛おしい少年の存在だけが、彼女のすべてを優しく満たしていく。
愛と執着、生存戦略と献身。その境界線が溶け合うような心地よいまどろみの中で、ミリアムもまた、深く、深い眠りへと落ちていく。
(その時までは、その輝かしい未来はこのまどろみの中に、閉じ込めておいていて。もう少しだけ、まだ私の可愛い弟でいて)
* * *
夜明けの薄明かりの中、カシウスは泥のように重い体を引きずり、族長の天幕へと向かっていた。
一歩進むごとに、傷ついた肉体が悲鳴を上げる。だが、その痛みさえも、胸の奥で燃え盛る執念を消すことはできなかった。ようやく、この時が訪れたのだ。あの日、あの男が自分のもとを去り、すべてが狂い始めたあの日から——。積年の願いが、今まさに手の届くところにある。
族長の天幕の前で、カシウスは砂地へ深く膝をついた。
「……カシウスです。おられますか、族長よ」
呼びかけは、冷え切った朝の空気に吸い込まれていく。返る声はない。
「入ります」
断りを入れ、幕を払って中へと踏み込む。天幕の内部は、外気よりもさらに鋭い冷気に満ちていた。主の気配はなく、ただ中央の祭壇の上に、鈍い光を放つ銀の盤が静かに鎮座している。
(千載一遇だ……)
カシウスの目的は、族長ではない。その盤——星見の盤だ。
未来を映し出すと言い伝えられる『忘却の聖櫃』。己がこれから成そうとすることが、一体どのような終焉を招くのか。それを確かめるために、彼は禁忌を冒してここへ来た。
カシウスは吸い寄せられるように、盤の前に立った。
最初、銀の円盤は死んだ魚の眼のように沈黙を保っていた。彼は迷うことなく腰のナイフを抜き、震える左の手のひらを深く切り裂く。
滴り落ちる鮮血が銀の面に触れた瞬間、盤が呼応した。
カタカタと、何かに怯えるような、あるいは歓喜するような硬質な音を立てて盤が震え始める。次の刹那、血を吸い込んだ円盤から眩い銀色の閃光が溢れ出し、虚空に「あり得べき未来」の光景を鮮烈に描き出した。
*
「……っ!」
そのすべてを見終えたとき、激しい動悸とともに、カシウスは弾かれたように盤から目を逸らした。
(……まさか、あんな未来が)
網膜に焼き付いた光景が、毒のように思考を侵食していく。天幕の隙間からは、白磁の刃のような冷たく鋭い陽光が差し込み、夜明けが残酷に始まろうとしていた。
ふと、入り口の遮光幕が揺れる。そこに、一人の少年が立っていた。
ナタンだ。
「……兄様?」
怪訝そうに自分を見つめる弟の姿に、カシウスは辛うじて声を絞り出す。
「……お前、なぜここに」
ナタンはまっすぐにカシウスを見据え、静かに答えた。
「兄様がここに入っていくのが見えたからだよ。一体何があったの?……みんな、心配していたんだ」
心から案じる、濁りのない声。その声に先ほどの盤の光景が急に白々しく思えてくる。
(やはり、ただの幻覚だったのか……?)
一瞬、救いのような甘い考えが脳裏をかすめる。だが、カシウスは即座にそれを叩き伏せた。
否。たとえあれが己の招く凄惨な未来であろうとも、止まることは許されない。成すべきことを果たすため、彼はこの深淵に足を踏み入れたのだ。
カシウスは鉛のように重い腕を上げ、震える拳をナタンの胸元に叩きつけるように押し当てた。
「……ナタン。あの約束は……忘れていないな」
その声は、もはや懇願ですらなかった。分かち合うことを強いる「呪い」の響き。
射抜くような眼光、その左目の奥に宿るどす黒い執念が、ナタンの存在を貫く。
だが、ナタンの瞳に迷いは微塵もなかった。
彼は自らも拳を握り、兄の震える拳に静かに、しかし力強く重ねた。
かつて軽口を叩き合いながら交わした温かな触れ合いは、そこにはない。互いの命を削り、一つの業を分かち合うような、重く切実な感触。
それを見届けると、カシウスの強張っていた輪郭がわずかに綻んだ。張り詰めていた糸が切れたように、彼はそのまま人形のごとく崩れ落ち、泥のような深い眠りへと沈んでいく。
ナタンは、もはや荒い呼吸を繰り返すだけとなった兄の背を、静寂の中で見つめていた。
拳に残る、現実の誓いの重み。
「……忘れてないよ、兄様。僕が、必ず姉様を守る。何があっても」
*
カシウスがその魂を焦がし続ける復讐の焔。ミリアムがいつか対峙すべき、父という名の避けられぬ因縁。ナタンの幼き双肩にのしかかる、一族の血脈という名の重圧。
そして、それらすべてを盤上の戯れとして見下ろす、ヨシュアの冷徹なる黄金の眼差し。
個々の運命は今や分かちがたく溶け合い、抗いようのない濁流となって、彼女たちのささやかな平穏を容赦なく飲み込み始めていく。
*
その日、天頂に達した太陽がすべてを灼き尽くさんばかりの熱を放ち、天幕を重苦しく包み込んだ。
ヨシュアの予言が成就するかのように、ミリアムの元に一人の使者が音もなく訪れた。
使者は言葉を排したまま、時の重みを孕んだ一通の古びた羊皮紙を差し出す。そこには、流麗かつ威圧的な筆致でこう記されていた。
『ヨカナンの庭に住まう迷える羊より、ベツアレムの誉れ高き末裔たちへ。
かつて荒野にてモーセの言を承り、神の居所をその指先で形作った至高の職人の一族よ。我らは同じ聖火に照らされ、同じ砂塵を分かち合った同胞である。
今、私の手元には、人の知恵では解けぬ「神の宿題」が積まれている。一族に受け継がれし、真理を射抜く瞳。そして、幻影を現世に繋ぎ止める槌の技。それらを借り受け、欠けた真理を完成させたい義がある。
我が館、ゲツセマネにて待つ。ここは油を絞り、魂を精製する場所。
君たちが望む「未来」の重みを、共にこの地で鑑定しようではないか。』
エルサレムの東、死の気配と祈りが交錯するケデロンの谷を望む地――。
それは、陰謀が渦巻くユダの館、「ゲッセマネ」への、抗いようのない招待状であった。
第1部5 光の庭 了
表紙イラストをpixivに掲載しています。
朗読版はyoutubeにあります。
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【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。
※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。
※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。




