第1部5 光の庭⑤
「かつての私は、己が持つ預言の力に奢っていた。自分は神の言葉を直に預かることのできる、選ばれた特別な存在であると信じて疑わなかったのだ。……しかし、ある時、その力が及ばず、愛する者を救えず、死なせてしまった」
ミリアムは息を呑んだ。聖者と呼ばれるこの人にも、拭い去れぬ後悔と無力感に打ちひしがれた夜があったのだ。
「私はその時、疑ったのだよ。私が預かっているこの『声』は、本当に神の言葉なのだろうか? 私や周囲が勝手にそう思い込み、聖なるものとして祭り上げていただけの、実は全く別の何かだったのではないかと。……私は絶望し、荒野を彷徨った。己の中にあるものの正体を、その『答え』を探し求めてね」
ヨカナンは一度言葉を切り、夜の静寂を慈しむように目を閉じた。
「そして、私は答えに出会った。……ヨシュアだ」
その名を口にした時、ヨカナンの顔に、先ほどのような悲痛な親心を超えた、ある種の「運命への得心」が浮かんだ。
「あの子に出会った時、私は確信したのだ。私が預かっていたものは、間違いなく神の言葉であったのだと。……私は、あの子に出会い、あの子を導くためだけに、長い年月、この言葉を預かり続けていたのだ。あの子という存在こそが、私のこれまで歩んできた全ての迷いに意味を与えてくれた。私の預言は、ヨシュアを完成させるために存在していたのだ」
「でも……ヨシュアは、あなたを完成させるために自分がいるのだと信じています。あなたこそが、この世界を救う救世主になられるお方なのだと」
ミリアムの震える声に、ヨカナンは声を立てて、屈託なく笑った。
「知っているよ。あの子もまた、自分の思う『幸福』を私に押し付けようとしている。全く、誰に似たのやら……本当に、似た者同士の師弟だよ」
その笑みはいたずらっ子の教え子に手を焼く、慈しみ深い師の顔だった。彼はどこか幸福そうに、夜の風をその身に受けていたが、やがて静かに表情を引き締めた。
「さて……私たちの話はこの位にしておこうか。少しばかり、感傷が過ぎたようだ」
*
ヨカナンは足を止め、ミリアムに向き直った。その瞳は、彼女の心の奥底に沈殿している、澱のような葛藤を優しく掬い上げる。
「君はどうだい? ミリアム」
唐突な問いだった。
「私ですか……」
そう答えながら、ミリアムは自分たちの歪な円環を思っていた。
ナタンは、たとえ自分の命が尽きようとも私を守り抜くことが幸福だと信じている。
カシウス兄様は、私の幸せを願いながらも、復讐という血の道を一人で行くために、私をナタンという安らぎに託そうとしている。
そして私は、そんな二人の隣に、ずっと、ずっといたいと願っている。
それぞれが相手を想いながら、それぞれが信じる「幸福」を、良かれと思って相手に押し付け合っている。
それは、先ほどヨカナンが口にした「似た者師弟」の姿と、何ら変わりはしなかった。他人を笑うことなど、到底できはしない。
「……私たちも、同じです。みんな、自分勝手な愛を……」
言いかけたミリアムの唇を、ヨカナンの穏やかな眼差しが制した。
「言わなくていいよ、ミリアム」
ヨカナンは、夜の静寂を壊さぬよう優しく囁いた。
「ただ、考えてごらん。今日ここで何があったか。そして、今まで君が歩んできた道の中で、何を得て、何を『本物』だと判定してきたのかを」
ヨカナンは、ミリアムの肩にそっと手を置いた。その手の温もりは、まるでこれまでの彼女の苦悩や、鑑定士としての孤独をすべて労うかのようだった。
ミリアムは夜の風を頬に受けながら、今日という一日の足跡を、鑑定士としての冷徹な記憶で辿り直していた。
今日、何があったか。
ヨシュアと再会し、バルバという男の「消失」という、不可能に思える謎の鑑定を依頼された。その足跡を追い、ロシュの証言から「偽金」という重罪の影を知り、人々の沈黙という「仕組み」に辿り着いた。そしてヨシュアの前で、それを「奇跡」だと鑑定した。
(……待って。私は今、何と言ったかしら)
ふと、心臓の鼓動が早まるのをミリアムは感じた。
奇跡。
私は今日、この事象を「奇跡」だと鑑定したのだ。
思えば、今までヨシュアが持ち込んできた不可解な依頼に対し、私は常にその裏にある泥臭い仕組みを暴き、冷たくトリックだと断定するばかりだった。光の屈折、毒草の幻覚、民衆の勘違い――。「それらは皆、奇跡ではない」と、鑑定士のプライドにかけて言い切ってきたはずだった。
それなのに、今日、私は初めて自らの意志でそれを「奇跡」だと認めた。
(……それは、なぜ?)
その問いが脳裏に閃いた瞬間、視界がパッと開けるような感覚に襲われた。
思考の霧が晴れ、これまでバラバラだった記憶の欠片が、猛烈な勢いで一つに収束していく。
(……そうだ。「心」だわ)
かつて、「忘却の丘」で感じたあの微かな震え。あの時、丘の上で何と言ったか。
『起こる事象そのものが奇跡なのではない。それによって救われる心があること、それこそが奇跡なのだ』
あの時の言葉が、今、確信という名の巨大な奔流となって彼女を貫いた。
物理的な消失など起きていない。事実は、人々が示し合わせて「嘘」をついただけだ。けれど、その嘘によって一人の男が火刑から救われ、絶望した魂が再び呼吸を始めた。
物質の重さを測るだけの天秤は、いつの間にか、目に見えない「祈り」の重さを量るための天秤へと進化していたのだ。
(ああ、そうか……答えは、最初から私の中にあったのね)
それに思い至った瞬間、ミリアムの目の前を覆っていた重い霧が、朝日を浴びたようにスッと晴れていくのを感じた。
(そうか……そうなのだわ。奇跡とは、物理的な事象の中にあるのではなく、人の心がどう捉えるかという事にある)
視界が劇的に開けていく。
鑑定士としての自分の目は、これまで自分とナタンの関係を「共依存による癒着」だと冷酷に切り捨てた。だが、それすらもまだ、表面をなぞっただけの浅い見方でしかなかったのだ。
(癒着という言葉で片付けるのではなく、その根底に流れる真実を……互いを欠けがえのないものとして求めるその純粋な渇望を突き詰めていけば、いつかその先に、本物の『愛』の正体を見極めることができるのかもしれない。私たちの間に流れるものが、決して偽りではないことを証明できるかもしれない)
今日、バルバの謎を追い、真実へと近づくたびに全身を駆け巡ったあの高揚感。指先が震えるほどの幸福感。それらを「業の深さ」として否定する必要などなかったのだ。
これを、進むべき道を照らす「光」にするのか、すべてを飲み込む「闇」にするのか。その秤を操作し、価値を決定するのは、他の誰でもない、ミリアム自身なのだから。
ふと、彼女の脳裏にあの男の姿が浮かんだ。
サウル。
自身の狭い世界の「法」だけを絶対の物差しとし、そこから外れるものすべてを否定しようとした男。
(私も同じだった。鑑定士という名の、私自身の狭い世界だけで、この巨大な世界のすべてを推し量ろうとしていたのだわ……)
私には、まだまだ知らないことが多すぎる。
この広い世界には、私の秤では測りきれない重みが、私の目では捉えきれない輝きが、いくらでもあるはずだ。
だからこそ、私は行かなければならない。もっと、もっと多くのことを知るために。
ヨカナンは、清流のような静かな眼差しで、覚醒したミリアムを見つめていた。そして、彼女の心に最後の一片を置くように、祈りにも似た声で告げた。
「ミリアムよ。相手が、自分の望む通りの幸福を掴み取ってくれないこと……それは確かに、たまらなく悲しいことなのかもしれない」
その言葉は、ナタンやカシウスを想い、その「押し付け合い」の愛に胸を痛めていた彼女の心に深く浸透していった。
「しかしね、大事なのは、相手を想い、その行き違いを『悲しい』と感じる、その心そのものなのだよ」
ヨカナンは夜空を見上げ、まるで見えない運命の糸を慈しむように手を差し伸べた。
「もう一度言おう。人は、自身が幸福だと思うことでしか幸福にはなれない。だからこそ、互いの想いが交差せず、心の有り様が食い違うことで、深い悲しみが生まれることもあるだろう。その悲しさゆえに、誰かを、あるいは自分自身を激しく責めてしまう夜が来るかもしれない。……それでもね、ミリアム」
ヨカナンは一歩、彼女の隣に並び、優しく、けれど力強く肩を叩いた。
「それでも、その痛みさえも、本当の幸福に至るための道すがらなのだということを、どうか忘れないでおくれ。悲しみを知らぬ幸福は、深みのない偽物の鑑定書と同じだ。葛藤し、傷つき、それでもなお相手の幸福を願い続けるその道の先にしか、本物の光は現れないのだから」
ミリアムはその言葉を、生涯消えぬ刻印のように胸に刻んだ。
「ヨカナン様、私、行きます」
その宣言は、もはや鑑定の依頼に対する承諾ではなく、自らの人生に対する誓いだった。
ヨカナンは深く、聖なる静寂を湛えた表情で頷く。
「行きなさい。君が信じ、君が選んだその道を」
ミリアムは走り出した。まだ微かに残光がたゆたうヨルダン川沿いの道を、一度も振り返ることなく。風を切るたびに、体の中に渦巻いていた迷いや澱が振り落とされ、心は研ぎ澄まされた宝石のように硬く、透明になっていく。
その道の先、川べりの岩に腰掛け、一人の少年が宵闇を纏って佇んでいた。
ヨシュアだった。
*
彼はミリアムの足音に顔を上げると、いつもの人を食ったような、けれどどこか寂しげな微笑を浮かべた。
「やあ。……迷いは晴れたかい?」
「ええ。おかげさまで」
ミリアムの迷いのない返答に、ヨシュアは一瞬だけ意外そうに目を見開いたが、すぐに満足げに目を細めた。
「そうかい。君がそう言うのなら、きっとそうなのだろうね。……ならば、君に最後の手向けだ」
ヨシュアは立ち上がり、銀色に光る川面を背にして、予言者のような重々しさで告げる。
「明日、君の元に、君の望むものが訪れるだろう。……それは、『終わりの始まりを告げる合図』だ」
ミリアムの背筋を、冷たい戦慄が駆け抜ける。ヨシュアの言葉は、常に残酷なまでに正確な未来を射抜くことを、彼女は知っている。
少年は、夜の闇に吸い込まれるように、音もなく姿を消した。そこに残されたのは、ただ夜風に揺れる葦の音と、川面の微かな煌めきだけだった。
そして、少年の愛を囁くような甘美な声が夜の中に響く。
「どうか最後まで、僕を楽しませておくれ。僕の愛しい、1001番目の瞳」
表紙イラストをpixivに掲載しています。
朗読版はyoutubeにあります。
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【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。
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