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第1部5 光の庭④

空気が震えていた。

ヨシュアの放つ言葉の重圧と、夕闇に溶けゆくその苛烈なまでの美貌。まるで、今この瞬間に本当にバルバが天へと消え去る奇跡が起こったかのような錯覚に、ミリアムは改めて戦慄しながら思う。

(……ああ。これこそが、あの日の真相だったのね)

口さがない者たちは、ヨカナンが保身のためにバルバをローマに売ったと囁いた。だが事実はまるで逆だったのだ。ヨカナンは、バルバをローマの追っ手から、そして無慈悲な死から守るために、彼がこの場で「天に召され消えた」ことにしたのだ。

罪は裁かれなくてはならない。

けれども、生きたまま焼かれる火刑、そして罪なき家族にまで及ぶ連座――。己の過ちを心から悔い、この地で「聖人」とまで呼ばれるほどに尽くしてきた男に対し、帝国の法が突きつける罰はあまりに過酷すぎた。

「あなたは火で死ぬのではなく、その手で、生きて罪を償い続けなさい」

ヨカナンは、バルバにそう宣告したのだ。彼を「消す」という最大の嘘を、神の名の下に肯定することで。

ヨシュアが、ゆっくりと右手を下ろし、射抜くような視線をミリアムに投げかけた。その口元には、試すような、それでいてすべてを肯定するような微笑が浮かんでいる。

「それで……これは奇跡かい? 鑑定士」

「こんなものは奇跡じゃない。ただ皆が口裏を合わせただけの、幼稚な叙述トリックよ」

喉元まで出かかったその言葉を、ミリアムは寸前で飲み込んだ。

冷徹な「鑑定士」の自分が、頭の中で激しく嘲笑っている。物理的な消失など起きていない。ただそこにいる人間を「いない」と定義した集団心理の産物。けれども…

ミリアムは一度目を閉じ、深く思考の海へ沈んだ。

――本当に、そうだろうか?

偽金犯として火刑に処されるはずだった男が、今、この夕闇の中で呼吸をしている。

帝国の法という、この世で最も強固な「現実」を塗り替え、一人の命を死の淵から引き揚げたのは何か。

それは精緻な手品でも、魔法でもない。ヨカナンの慈悲と、ロシュや街の人々が抱いた「この男を死なせたくない」という、あまりに切実で純粋な「人の心」だ。

数多の金銀、宝石、古文書を鑑定してきた彼女は知っている。物質の価値など、人の心が認めなければただの石ころに過ぎないことを。ならば、その逆もまた然り。

人の心が、死ぬべき運命を「救済」へと書き換えたのなら、それこそが真実の価値ではないのか。

ミリアムはゆっくりと目を開けた。

揺らぎは消え、その瞳には鑑定士としての新たな境地が宿っていた。彼女はヨシュアの瞳を真っ向から見据え、はっきりと言い放った。

「ええ、これは奇跡よ、ヨシュア」

迷いのない声だった。

「ヨカナン様の、そして街の人々全員の想いが、一人の人間を絶望から救い出した。……法が殺そうとした人間を、人の心が繋ぎ止めたの。これを奇跡と言わずして、一体何を奇跡と呼ぶのかしら」

ヨシュアは「……そうか」とだけ短く呟いた。その声には、ミリアムが「理」を捨てて「心」を拾い上げたことへの、深遠な満足感が滲んでいた。

彼はミリアムに背を向け、ゆっくりと歩き出す。

「なら、君に引き合わせたいお方がいる」

川岸の土手を上がりきったところで、ヨシュアは足を止めた。そして、これまでの不遜で尊大な態度からは微塵も想像できないほど、恭しくその場に跪き、地を這うようにして頭を垂れた。

「大変お待たせいたしました、我が師よ。……お望みの通り、真実を射抜く眼を持つ鑑定士の娘を、あなたの御元にお連れいたしました」

ミリアムの喉が、引き攣るように鳴った。

あの、世界を弄ぶような不敵な少年が、まるで一個のしもべのように、あるいは神を仰ぐ幼子のように、ただ一人に対してその全霊を捧げている。

「……ッ」

ミリアムが息を呑んだその時、川辺の向こうから、燃え盛る夕日を背に背負って一人の男が現れた。

逆光の中に浮かび上がるその輪郭は、あまりに強烈な光を放っており、まるで肉体そのものが輝いているかのように錯覚させる。

その男が歩むたび、騒がしかった周囲の虫の音さえもが、畏怖に打たれたように鳴り止んでいく。

長い髪と、荒野の風に晒された褐色の肌。その瞳は、ヨルダン川の底に沈むすべての真実を掬い上げるほどに深く、清らかで、そして恐ろしいほどに真っ直ぐだった。

そう、それは――洗礼者ヨカナン、この地に奇跡をもたらし、人々の魂を激震させている、時代の中心に立つその人だった。

* * *

ミリアムは動けなかった。ナタンも、サロメを抱いたロシュも、言葉を失ってその威容に釘付けになっている。

その人物を目にした瞬間、ミリアムの胸を真っ先に貫いた感想は、ただ一言「美しい」だった。

それは、ヨシュアが持つあの人を寄せ付けぬような、苛烈で暴力的な美貌とは全く質の異なるものだった。ヨカナンの顔には、荒野の陽光に焼かれ、峻烈な修行に身を投じてきたであろう年月の年輪が、深く、確かに刻まれている。造形だけを捉えれば、ちまたで言われるような「美貌」という言葉からは遠く及ばないかもしれない。

しかし、彼は「正しい」のだ。

この人は人間として、あるべき姿で、あまりにも正しく存在している。それゆえに、人間として、生命として、ただただ美しい。内側から溢れ出すその圧倒的な正しさが、肉体の衰えや傷跡さえも聖なる装飾へと変え、見る者の魂を浄化していく。

(……ああ。これが、皆が心酔する「光」の正体なのね)

ヨカナンは静かに歩み寄り、跪く少年の前で足を止めた。そして、慈しみに満ちた動作で、その金色の髪に大きな手を置いた。

「ヨシュア、顔を上げなさい。あの娘を連れてきてほしいという私の願いを、よく叶えてくれたね。……ありがとう」

その瞬間、ミリアムは自分の目を疑った。

傲慢で、不遜で、常に周囲に鋭利な氷の刃を撒き散らしているような、あの底の知れない少年。けれども、ヨカナンの掌の下にいる彼は、まるで別人のようだった。

ヨカナンに髪を撫でられるヨシュアの顔からは、一切の毒気が消え失せていた。彼は母親の手の中に抱かれる幼子のように、純粋で、無垢で、この世の何物にも代えがたい至福の微笑みを浮かべていたのだ。

ヨカナンは次に、ナタンとサロメの方へと視線を移した。

その眼差しは、慈愛に満ちた父親が愛し子を見るようでもあり、それでいて、微かな寂しさを湛えていた。

「……君たちの、大切でかけがえのない姉様を、私に少しだけ貸してもらえないだろうか?」

その言葉が落ちた瞬間、ナタンの身体が反射的に強張った。彼は無意識のうちにミリアムの前に半歩踏み出し、彼女を庇うようにしてヨカナンを鋭く見据えた。

しかし、ミリアムがそっとナタンの肩に手を置くより早く、ナタンは背後に立つロシュの顔を仰ぎ見た。

ロシュは、いつもの荒々しい冗談を封印し、岩のように重々しい表情で静かに頷いた。このヨカナンは、決してミリアムを傷つけるような真似はしない。と、その無言の頷きが語っていた。

「……わかりました」

ナタンは、握りしめていた拳をゆっくりと解いた。

「姉様をお願いします。……でも、すぐに返してくださいね」

その子供らしい、けれど必死な約束に、ヨカナンは「約束しよう」と優しく微笑んだ。

「ヨシュア、先にある幕屋(天幕)へ彼らをご案内しなさい。そこには温かい麦の粥と、乾いた衣が用意してある。そこでゆっくりと身体を休めるがいい」

ヨシュアが、まるで踊るのように正確な動作で彼らを先導し始める。夕日に金の髪を輝かせる彼はまるで天使のようだった。

ナタンは何度も振り返りながら、ヨシュアの後を付いていく。ロシュもまた、サロメを抱き直して夜の闇へと消えていった。

静寂が、ヨルダン川のほとりを包み込む。

残されたのは、燃え尽きようとする夕刻の残滓と、洗礼者ヨカナン、そしてミリアムの二人だけだった。

ミリアムとヨカナンは、紫色の闇が溶け込み始めた川辺を、ゆっくりとした足取りで歩く。

ヨカナンという人物の傍らにいると、不思議な感覚に包まれた。彼の放つ言葉、あるいは存在そのものから、腹の底がじんわりと温かくなるような、柔らかな陽だまりの中にいるような安らぎが生まれてくる。

(……ああ。これが、人の魂を惹きつける「光」なのね)

あの傲慢なヨシュアや、そして他者を拒絶して闇に消えたはずのユダさえもが、この人に心酔し、付き従った理由が、理屈ではなく肌で理解できた。

「ミリアム。私はね、ずっと君に会いたかったんだよ」

ヨカナンが穏やかに口を開く。

「私に、ですか……?」

「ああ。ヨシュアから、君の話は色々と聞いている。あの子がずいぶんと迷惑をかけただろう? すまなかったね」

ミリアムは思わず足を止めた。あの、街一つをてのひらの上で転がすような知性を持つ怪物を、この人は「あの子」と呼び、慈しむように謝罪して見せたのだ。

その時、ヨカナンがふと、深い悲しみを湛えた顔をした。

その表情を見た瞬間、ミリアムの胸の奥に強烈なデジャヴが走る。

(……待って。私、どこかでこの人に会ったことがある?)

遠い記憶の、陽炎のように揺れる景色の中に、この優しい悲しみの輪郭があった気がした。けれど、それがいつのことなのか、どうしても思い出せない。

「……あの子に悪気はまるでないのだよ。本当はとても、心の優しい子だ」

ヨカナンは夜の風を吸い込み、独り言のように続ける。

「けれども、あの子はあまりにも悲しい子でもある。あの子の持つ力――世界の因果、すべての結末を読み解いてしまうあの瞳は、あの子自身を不幸にした。あの子には、すべてが見えてしまうんだ。……この先の世に起こる悲劇も、そして、やがて来る自分自身の死さえもね」

ヨカナンの言葉が、夜の冷気を含んで重く響いた。

すべてを「鑑定」してしまう瞳。それは、ミリアム自身が呪いのように感じていたものと同じだった。

「ミリアム、君ならわかるだろう? 見たくない真実まで見えてしまう苦しみを。……ヨシュアはね、自分の死の宣告を抱えながら、その運命を愛してくれる『光』を、ずっと探し続けていたんだよ」

ヨカナンは立ち止まり、深く、深くミリアムの瞳を見つめた。

「ヨシュアはその『光』があなただと言いました。自分の死を、あなたが行う救済のために捧げるのだと……」

ミリアムの言葉に、ヨカナンは一層深く、苦悶を滲ませるように表情を曇らせた。その瞳は、愛弟子の献身を誇るどころか、耐え難い悲痛な親心に震えているようだった。

「……私は、そのようなことは望んでいない。あの子には『より良い死』などではなく、どこまでも『より良い生』を探してもらいたい。心から、そう願っている」

ヨカナンは川の流れを見つめ、自分自身に言い聞かせるように、あるいは夜の神に祈るように言葉を継いだ。

「けれどもね、ミリアム。何が幸福であるか、それを決めるのは他人ではないのだ。自分でしか、決めることはできない。たとえ師であっても、親であっても、己の考える幸福を他者に押し付けることはできないのだよ」

ヨカナンの声は、慈悲深く、けれど残酷なまでの心理を突いていた。

「ボロを纏い、空腹に苦しもうとも、その魂が幸福だと思えば、その者は幸福なのだ。逆に、どれほど豪奢な生活を送り、多くの人にかしづかれようとも、その者の心の内が不幸であるならば、どこまでも不幸になるしかない。……覚えておきなさい。自身が『これこそが幸福だ』と思う道に乗ってのみ、人は初めて幸福になれるのだ」

その憂い。すべてを慈しみ、すべてを赦すように向けられた、あまりにも深い寂寥を湛えた表情。

それを見た瞬間、ミリアムの脳裏に雷鳴のごとき衝撃が走った。

霧に包まれていた記憶の断片が、恐ろしい速さで結実していく。どこで見たのか。いつこの御顔を見たのか。

(……マカイロス)

あの、血と砂の匂いが染み付いたマカイロス要塞。その最奥に隠されていた禁忌の遺物「星見の盤」。盤の中に浮かび上がった、悍ましくも静謐な未来の断片。

少女が銀の盤の上に乗せて運んでいた、あの血の滴る「生首」。

あれは。

あの盤の上で、物言わぬ死となってなお気高く輝いていたのは、今、目の前で穏やかに自分を見つめている、このヨカナンその人だ。

(……そんな、嘘でしょう? 一体なぜ…?あの光景は一体なんなの?)

震えが止まらないミリアム。その瞳に浮かんだ恐怖を、ヨカナンはすべて察したようだった。

ヨカナンは逃げることも、動揺することもなく、ただ柔らかな月光のような笑みを浮かべた。

「……良いのだよ、ミリアム」

穏やかに言葉を紡いだ。その瞳は、はるか遠い荒野の記憶を辿っているようだった。

「どれほどあの子に、そして多くの民に慕われようと……私もまた、道に迷う一人の人間に過ぎないのだよ」


表紙イラストをpixivに掲載しています。


朗読版はyoutubeにあります。

https://www.youtube.com/playlist?list=PL8BNa9czmG5HRY9yC-7O8NnwODXAXGjZe

【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。

※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。

※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。

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