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第1部5 光の庭③

その男は、周囲の人々が涙を流して「聖人バルバ」の救済を称えているのを、どこか複雑そうな表情で見つめていた。ミリアムはナタンとサロメを連れて、その男の傍へと歩み寄った。

「失礼します。あなたも、バルバさんの洗礼を見ていたのですか?」

老いた漁師は、遠くの川面を見つめながら「あいつは罪人だよ」とポツリと言った。

「罪人……?」

驚くミリアムに、老人は枯れ木のような指で自分の耳を指した。

「あいつが酒場で酷く酔っている時に漏らしているのを聞いたんだ。『俺は罪人なのだ』とな」

「どのような罪を犯したのですか?」

ミリアムが問いかけるが、老人は首を振るだけだった。

「さあな。あいつがそう呟いていたこと以外は、何一つ語らなかった。ただ、その声だけは、この世の終わりでも見たかのように暗かったよ」

ミリアムとナタンは顔を見合わせた。とりあえず、バルバがよく出入りしていたという酒場へ足を運ぶことにした。

酒場へ入ると、熱気と安酒の匂い、そして今日の漁を終えてくだを巻く男たちの騒がしい声に包まれた。その喧騒の中に、ミリアムは見覚えのある大きな背中を見つけた。

ロシュだった。

ナタンとサロメが近づいていくと、彼は驚いたように目を丸くした。

「どうした、お前たち! こんな所で、久方ぶりだが元気だったか?」

「うん、元気だよ。ロシュおじさんこそ、元気だった?」

ナタンが答えると、ロシュはその広い背中をガハハと笑いながら、ナタンの肩をバンと叩いた。

「おじさんじゃねえ、にいさんと言え! にいさんとな!」

そうニカッと笑ってから、彼は足元で「かまって、かまって」と服の裾を引くサロメをひょいと持ち上げ、その太い首に肩車した。

マカイロスの一件――あの地獄のような窮地を共に潜り抜けて以来、ロシュはカシウスとちょくちょく飲みに行く仲になっていた。出会った当初の、あの最悪な空気からは想像もつかないほど、今の彼はミリアムたちにとって気安い「親戚の兄貴分」のような存在となっていた。

「で、こんな湿っぽい場所で何を嗅ぎ回ってるんだ? 鑑定士様がわざわざ来るなんて、また厄介事の匂いがするが」

肩車されたサロメの笑い声を背中で聞きながら、ロシュは少しだけ声を落としてミリアムに問いかけた。

「ええ、実は……」と事情をかいつまんで話すと、ロシュは途端に苦虫を噛み潰したような顔をした。

「お前、なんだってそんな話を……」

ロシュは周囲を警戒するように一度見回すと、「いいか、こっちに来い」と低く促した。サロメを肩車したまま、他の客に会話が漏れないようミリアムたちを酒場の暗い奥まった席へと誘導する。

「いいか、これは内密の話だぞ。あいつは数年前、エルサレムからこの街にふらりと流れてきた。だが、ただの移住じゃねえ。どうも、あっちにいた頃に特大の罪を犯して逃げてきたらしいんだ」

「どんな罪なの?」

ミリアムの問いに、ロシュは眉間に深い皺を寄せ、額に指を当てて記憶を掘り起こすように沈黙した。しばらくして、絞り出すような声で言った。

「……偽金だよ」

その言葉が落ちた瞬間、ミリアムの思考が凍りついた。

まさか、ここでまた「偽金」という言葉を聞くことになろうとは。

かつてロシュと出会い、カシウスが地獄のような窮地に立たされたあの最悪の事件。それもまた、偽金を巡る争いが発端だった。

忌まわしい過去の糸が、時を経て、再びこのヨルダン川のほとりで絡み合い始めている。

(……なにか、逃れられない因果のようなものを感じるわ)

「あいつは偽金に関わっていた。エルサレムを通じて、ローマ本国にまで偽金をばらまいていたんだ。それがついにローマ側にバレて、命からがら追われる身になったのさ」

「そんな事情があったなんて……」

ロシュの言葉を聞きながら、ミリアムは複雑な思いに囚われていた。

かつてナタンを理不尽に追い詰めたローマという巨大な権力。それを思えば、心情的にローマ側に肩入れなど到底できはしない。しかし…

ミリアムは小さく溜息をつき、自分自身に言い聞かせるように、そして鑑定士としての冷徹さを取り戻すように呟いた。

「……けれども、罪は罪だわ。どんな理由があろうと、犯した過ちには罰を受けなきゃいけない」

その言葉が口をついた瞬間、ミリアムは自分の物言いが、あまりにも「サウル」のようであることに気づいて、思わず自嘲気味な苦笑を漏らした。

ミリアムの言葉に、ロシュは困ったように大きな手で頭を抱えた。

「……理屈では、まあ、そうなんだがな。理屈ではな」

ロシュは、肩車されていたサロメをそっと床に下ろし、遠くを見るような目で続けた。

「お前も聞いただろう? バルバの評判をさ」

ロシュは空になった酒杯を見つめながら、重々しく言葉を継いだ。

「この地に来てからのあいつは、まるで己の罪を一つ一つ削り落とすみたいに、本当に聖人のような暮らしをしていたんだ。あいつに助けられたなんて奴は、この界隈にゃ山ほどいる。……あいつの過去の罪を知る者はごく僅かだ。だがな、その事実を知っている奴らでさえ、口々に言うんだよ。今のあいつを縛り首にだけはしたくない、ってな」

「縛り首」というロシュの言葉に、ミリアムは現実の残酷さが輪郭を持って迫ってくるのを感じた。

それはあくまで比喩だ。実際の法が偽金犯に突きつける末路は、そんな生温かいものではない。偽金作りに手を染めた者は、火刑に処される。偽りのかねで国の信用を焼き、経済を混乱させた報いとして、自らも炎に焼かれる――象徴的で、救いのない凄惨な刑罰だ。

しかも、その罪の連鎖は本人だけでは止まらない。家族までもが連座し、財産を没収され、どん底に突き落とされる過酷な仕組みになっている。

(……私は、なんて浅はかな言葉を吐いたのかしら)

「罪は罰せられなければならない」

自分では正論を口にしたつもりだったが、その一言が指し示す先には、赤黒い炎と、絶望に身をよじる人間の姿がある。

この街の人々は、バルバが積み上げてきた「聖人」としての慈悲を、その肌で知っている。飢えた時にパンを分け、病の時に手を握ってくれたのは、ローマの法でもなく、遠い聖都の祭司でもなく、あのバルバという男だった。彼らが、たとえ過去にどれほどの罪があろうとも「あいつが焼かれるのだけは見たくない」と願うのは、人としてあまりに当然の、そして尊い感情に思えた。

ミリアムは、自分の中にある「鑑定士の目」が、かつてなく苦く濁るのを感じていた。

「けれども相手はあのローマだ。口さがない奴はヨカナン先生がバンバをローマに売ったと言うやつもいる」

「ローマに売った、って……どういうこと?」

ミリアムの問いに、ロシュは苦い酒を飲み干し、声をさらに低めた。

「だから、あの『奇跡』の話だよ。本当は、ヨカナン先生が自分の立場を守るために、バルバの居場所をローマに売ったんじゃないかって邪推する奴がいるんだ。先生が保身のためにあいつを当局へ差し出し、その事実を隠すために『神の御許へ召された』なんて奇跡の話にすり替えて、民衆を煙に巻いた……ってな」

それを口にすれば、周囲の熱狂を冷ますどころか、激しい非難を浴びるであろうことは百も承知だった。けれど、ミリアムの冷徹な理性は、その「邪推」を否定できなかった。

(……なるほど。確かに筋は通っているわ)

ヨカナンが保身のために重罪人をローマに差し出し、その事実を宗教的な「奇跡」という輝かしい虚飾で覆い隠した。それは、今日耳にした数ある噂の中で、最も論理的で、最も説得力のある説だった。権威を守るための政治的取引、そして民衆を操るための物語プロパガンダ。その構図は、ミリアムがよく知る「裏側の世界」の論理そのものだ。あるいはヨシュアあたりならヨカナンを守るためならそんな事さえしかねない。

けれど。

鑑定士としてのミリアムの魂は、その説に「真実」の印を捺すことを拒んでいた。

(でも……一番大切なものが、足りていない)

「ねえ、ロシュさん。あなた自身はどう思っているの? あなたも、ヨカナン様がそんな――人を売るような真似をしたと思っているの?」

ミリアムの問いに、ロシュは間髪入れずに首を振った。その瞳には、一抹の迷いもなかった。

「そんな訳があるか。先生は絶対にそんなことはしねえ。あのお方は、自分の命と引き換えにしてでも人を守るような御仁だ」

「そう。……あなたがそう言うなら、きっとそうなのね」

ミリアムの口調は、どこかヨシュアをなぞるようでもあった。けれど、その言葉に込められた意味は、少年とは決定的に違っていた。今のミリアムの言葉は、ロシュという人間の「信頼」という重みを天秤に乗せた結果としての「確信」だった。

今のロシュの言葉が、最後のピースだった。

今までバラバラに散らばっていた、バルバの罪、火刑の恐怖、人々の祈り、ヨカナンの慈悲、そして川底の何もなさ。それらがミリアムの頭の中で、一つの鮮やかな絵として自然に浮かび上がってきた。

「ねえ、ナタン。協力して欲しいの。……それに、ロシュさんにも」

「俺もか?」

意外な指名に、ロシュが不思議そうな顔をして大きな眉を上げた。ミリアムはそんな彼に対し、鑑定士としての不敵な、それでいてどこか清々しい笑みを見せた。

* * *

ヨルダン川のほとりは、沈みゆく太陽の光を受け、川面が赤黒く、まるで焼けたあかがねのように波打っていた。

ヨシュアは、ミリアムたちが立ち去った時と全く同じ姿勢で、凪いだ川面を見つめていた。その背中は、この世の喧騒から切り離された一枚の絵画のようでもあり、あるいは全てを飲み込む深い淵のようでもあった。

「……お帰り、ミリアム」

ヨシュアがゆっくりと振り返る。その瞳には、夕闇を反射する金色の光が宿っていた。

「どうだい鑑定士。これが奇跡かどうか、鑑定は済んだのかい?」

そして、ヨシュアの視線がミリアムの背後に立つ大きな影へと移る。

「……おや。ロシュまで連れてきたのか。一体、僕に何を見せてくれるつもりなのかな?」

「再現よ。あの日、何があったか今ここで証明してあげるわ」

ミリアムの声が、静まり返った川辺に響く。

「バルバ役はナタン。そしてヨカナン様役は……そうね、ヨシュア。あなたにお願いするわ」

ヨシュアは一瞬、意外そうに目を細めたが、すぐに肩を揺らしてくっと喉の奥で笑った。

「僕がヨカナン先生の役を? 恐れ多いね。……けれど、鑑定士の演出だ。喜んで舞台に上がろうじゃないか」

燃えるような夕日が、二人の影を長く砂の上に引き伸ばす。

ヨシュアとナタンは、赤黒く光る水際へと歩を進め、互いに向かい合って立った。

ヨシュアはそれまでの不敵な笑みを消した。すっと背筋を伸ばし、その瞳に底知れない慈愛と厳格さを宿す。その姿は、本物のヨカナンが乗り移ったかのような、神々しいまでの威厳を放ち始めた。

「……さあ、自らの罪に背負われ、死の縁を彷徨う子よ。前へ」

ヨシュアの声が、いつもの軽やかさを捨てて、朗々と川面に響き渡る。ナタンは緊張に身を固めながら、ヨシュアの前に跪いた。

「この水は、単にあなたの体を濯ぐものではない。あなたの魂が、過去という名の牢獄から解き放たれるための門だ」

ヨシュアは、ナタンの頭上に優しく、けれど拒絶を許さぬ力強さで手を置いた。

「バルバ……あなたは火を恐れ、この地まで逃げ延びた。だが、今日ここであなたの『罪人としての名』を葬ろう。もはやこの世の法も、追い縋る業火も、あなたを捉えることはできない。神の国は、死してなお、真実の生を望む者のためにある」

夕日に照らされたヨシュアの金髪が、血のような赤に染まる。

「――入りなさい。この永遠の安らぎの中へ。そして、古いあなたをこの底に置いてくるがいい」

ヨシュアがナタンの肩を押し、川へと沈める。

水しぶきが夕陽を弾いて飛び散り、ナタンの体がゆっくりとヨルダン川の濁った水の中へと消えていった。

静寂が、重苦しく川辺を支配した。

ナタンは上がってこない。水面に広がった波紋はすでに消え、ただ赤黒い流れが延々と続いている。一刻、また一刻と時は過ぎるが、少年の姿はどこにもない。

(……本当に、消えてしまったのではないか)

燃えるような夕闇の中、ミリアムは一瞬、現実が足元から崩れるような錯覚さえ覚えた。

その時だった。

――ザブン!激しい音を立てて、ナタンが水面に姿を現した。

肺の中の空気をすべて入れ替えるように、激しく、求めるように肩で呼吸をする。全身から滴る水滴が、夕日を浴びて血のような飛沫となって散った。

ヨシュアは何も言わず、ただ、氷のような微笑を浮かべてその光景を見つめていた。

しばしの沈黙。

やがて、ミリアムが静かに、朗々と声を張り上げた。

「……消えたわ。バルバの姿が、完全に消えてしまった」

ミリアムは、目の前で必死に息を整えているナタンを真っ直ぐに見据えたまま、あたかもそこには虚無しかないかのように言い放った。

「どこにも見えない。一体、彼はどうなってしまったというの?」

その言葉に合わせるように、ロシュも芝居がかった仕草で周囲をキョロキョロと見回し、野太い声を上げた。

「全くだ! 俺の目にも、あいつの姿は見えねえ。忽然と消え失せやがった。あいつは一体、どこへ行っちまったんだ?」

「私にも見えなーい!」

ロシュの肩車の上で、サロメも教えられた通りに、無邪気な声を空へと放り投げた。

目の前にナタンという「実体」が存在しているにもかかわらず、その場の全員が、申し合わせたように「不在」を宣言する。

沈黙の肯定。慈悲深い黙殺。

それこそが、あの日、この川辺で起きたことの正体。

ヨシュアは夕日の中、射抜くような眼差しでミリアムを見た。

その瞳は、饒舌に問いかけていた。

(――これが君の答えか? 鑑定士)

ミリアムは逃げることなく、その視線を真っ向から受け止め、深く、静かに頷いてみせた。

夕闇が深まり、空と川の境界が溶け合う中で、ヨシュアの放つ存在感は神々しいまでの威圧感へと変質していった。

彼は微笑みを湛えたまま、儀式を司る大祭司のような荘厳さで、スっと右手を天にかざした。

「見よ! 衆生よ、刮目せよ!」

その声は、川風を鎮めるほどの重厚な響きを伴って、静寂を震わせた。

「心正しき者バルバは、神の慈悲という名の深淵に抱かれ、その御許へと召されたのだ。この濁った水は、彼の地上の苦しみを、その赤黒い過去さえもすべて飲み込み、代わりに一点の汚れなき光を天へと還した。もはや、彼を縛る法はこの世には存在せず、彼を焼く火もここには届かぬ」

ヨシュアの金色の髪が、最後の残光を浴びて燃えるように輝く。

「これこそが、主が示された究極の救済。我らの卑しき瞳を焼き、魂を震わせる奇跡の具現である! 彼は今、肉体という牢獄を脱ぎ捨て、聖なるお膝元にて永遠の呼吸を始めたのだ!」


表紙イラストをpixivに掲載しています。


朗読版はyoutubeにあります。

https://www.youtube.com/playlist?list=PL8BNa9czmG5HRY9yC-7O8NnwODXAXGjZe

【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。

※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。

※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。

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