第1部5 光の庭②
ミリアムの張り詰めた決意とは裏腹に、鑑定士としての職務は、朝から晩まで彼女の身を縛り付けた。
近隣の村から持ち込まれる、土にまみれた錆びた青銅の農具。巡礼者が「奇跡の証」と言い張る、真偽の怪しい聖遺物の数々。あるいはキャラバンの商人が差し出す香料の純度や、異国の織物の糸一本一本に宿る価値。
彼女はそれらを、かつてないほど冷徹に、そして機械的な迅速さで捌いていった。思考の空白を埋めるように、鑑定に没頭するしかなかったのだ。
「しばらく戻らないが、心配するな」
あの日の言葉を最後に、カシウスの不在は続いていた。
脳裏を離れないのは、影の中で死を飼いならしているかのような兄の異質な姿だ。
昨日まで信じていた「家族」という形が、指の間からこぼれ落ちる砂のように、音もなく、さらさらと崩れ去っていく。その耐え難い喪失の予感に、ミリアムは時折、激しい眩暈を覚えた。
彼女は家事の合間を縫い、あるいは鑑定の仕事で市場へ赴くたび、鋭い眼光を群衆の隙間に走らせた。
マクダラへと続く石畳の路地。かつて奇跡が行われたという伝説の残る広場。
あの金色の髪の少年が現れそうな場所を、祈るような心地で探し回った。
カシウスよりも先に父と決着をつける、その鍵を握るのはあの少年しかいない。
そして、ある日のこと。
*
市の日、ガリラヤの街は朝から押し寄せる人の波と熱気に包まれていた。
ミリアムは、ナタンとサロメを連れてその雑踏の中を歩いていた。行き交う家畜の鳴き声、鼻を突く香辛料の匂い。喧騒の中で、ナタンはサロメが人混みにはぐれぬよう、その小さな手をしっかりと握りしめている。
サロメが露店の粗末な木彫り人形を指差して歓声を上げると、ナタンは足を止め、彼女と同じ目線まで腰を落として笑いかけた。その光景は、この世界のどこにでもある、ありふれた幸福な兄妹の姿そのものだった。
(……きっと、自分と兄様も、昔はあんなふうだった)
「タルタロスの林檎」を巡る、あの悪夢のような出来事から数日が経っていたが、ナタンの態度は変わらなかった。
あの朝、丘の上で互いの想いを言葉にした瞬間——。震えるような朝日の輝きの中で交わした誓いは、ミリアムにとって人生を塗り替えるほどの決定的な転換点だった。けれど、今隣を歩くナタンの涼やかな横顔を見ていると、彼はただ、ごく当たり前のことを口にしただけなのだという気がしてくる。
彼にとってミリアムを慈しむことは、血を吐くような決意などではなく、日々の呼吸と同じように自然で、疑いようのない日常の一部なのだろう。
その事実に、ミリアムの心はじわじわと解かされていく。凍りついていた何かが少しだけ軽くなるのを、彼女は確かに感じていた。
その時だった。
「——ヨルダン川で、奇跡が起こったそうだ」
喧騒の隙間から、誰かのそんな囁きが滑り込んできた。
(……もしかして)
胸の鼓動が速まる。ミリアムはナタンとサロメの手を引き、市の活気を背にして、吸い寄せられるようにヨルダン川のほとりへと足を向けた。
*
川沿いに近づくにつれ、空気はしっとりと潤いを帯び、乾いた砂の匂いは、草の香りと冷ややかな水の気配に書き換えられていく。川面は午後の陽光を拾って、無数の銀の鱗のようにきらめいていた。ゆったりとうねりながら流れる水は、この地の数多の悲劇も祈りも、すべてを等しく飲み込んでどこまでも静かだ。
川辺には背の高い葦が密生し、風が吹くたびに、さらさらと囁き合うような音を立てる。その風景はあまりに穏やかで、まるでここだけが世界の理から切り離された聖域のようだった。
その水際の、光が最も強く降り注ぐ場所に、一人の少年が立っていた。
ヨシュアだった。
彼がゆっくりと振り向く。金色の髪は水面の照り返しを吸い込み、透き通るような輝きを放っている。
「やあ、待っていたよ。僕の1001番目の瞳。……それに、ナタンも。また君と、この世界の瑞々しい光を分かち合えることを、密かに祝わせてもらうよ」
ヨシュアは、まるで昨日の続きを話すかのような、気負いのない声で言った。
かつてミリアムと交わした契約の破棄も、ナタンをあの地獄のような窮地へ追いやったことも、彼にとっては過ぎ去った風の一吹きに過ぎないのだろう。そのあまりにも自然な振る舞いは、かえってこの世のものとは思えない異質さを際立たせていた。
ミリアムはサロメの手を握る力を、無意識のうちに少しだけ強めた。ナタンは黙ったまま、けれど確かな足取りでヨシュアの視線を受け止めている。
「……ここで何をしているの?」
ミリアムの問いに、ヨシュアは悪戯っぽく、しかしどこか慈しむような仕草で川面を指差した。
「この場所で、神様がちょっとした悪戯をしたと、誰もが噂しているよ。一人の男の運命が、まるで書きかけの羊皮紙を破り捨てるように、鮮やかに塗り替えられた……とね」
波紋ひとつなく、ただ深い碧色が広がっている。
「ねえ、鑑定士、君たちに、その『奇跡』の鑑定ができるかい? この濁った水の底に、一体何が沈み、何が浮かび上がったのかを」
ヨシュアの瞳には、川の流れと同じ、底知れない静寂が宿っていた。
ミリアムは、自分の中の「鑑定士の目」が、その穏やかな水面を透かし見ようとして、鋭く研ぎ澄まされていくのを感じていた。
ヨシュアの言葉が、ヨルダン川の静かな水面に波紋を広げるように響いた。
「洗礼者ヨカナン……。あのお方は、この濁りきった現世に唯一残された清流。人々の魂にこびりついた汚れを濯ぎ、その原罪さえも無へと還す尊き聖者。……けれどね、その奇跡の最中に、美しくも不可解な『事件』という名の波紋が広がったんだ。一人の男が川底へ潜ったまま、ついに、一滴の飛沫さえ上げずに姿を消してしまった」
ヨシュアは、まるで舞台の幕を開ける道化のような足取りで、川辺を歩く。
「人々が動揺し、騒ぎ立てる中で……ヨカナン様だけは、天の静寂をその身に宿したかのような平穏を保っておられた。あのお方はただ、迷える者たちを包み込む慈愛に満ちた声で、こう告げられたそうだよ。『見なさい。これこそが救済だ。彼の魂は浄化され、神の御許へと導かれたのだ』とね。
その声は、さざ波立つ人々の心を瞬く間に鎮める、聖なる調べのようだったという。人々はその尊き言葉に魂を震わせ、今、自分たちの目の前で至高の奇跡が成されたのだと確信した。誰もが跪き、こぞって地面に額を擦りつけた……。ああ、ミリアム。それは、この世の何よりも清らかで、気高い祈りの光景だったはずだよ」
ヨシュアはこれが奇跡かどうかを鑑定せよというのか?ミリアムの背筋をかすめたのは冷たい不信だった。
(……おかしいわ。何かが、決定的に)
ミリアムは知っている。この金色の髪をした少年が、師である洗礼者ヨカナンをどれほど狂信的に崇拝しているかを。
ヨカナンの言葉に感情をむき出しにし、その足跡にさえ額を擦りつけんばかりのヨシュアの姿を、彼女は幾度も見てきた。その光景は、信心というよりは「呪縛」に近く、見ているこちらが胸を締め付けられるほどに痛々しいものだった。
そのヨシュアが、師の起こした「奇跡」を疑うはずがない。
天地がひっくり返っても、彼はヨカナンの言葉を「理屈」で量ろうなどとは考えないはずだ。
けれど、ふと、こうも思う。もしかしたら、それさえも自分の鑑定士の目が見誤っていただけなのではないか、と。
彼にとってのヨカナンという存在は、もっとずっと深い場所にある、決して侵してはならない信奉の対象なのかもしれない。目の前で起きている奇跡の種明かしなど、その鋭すぎるほどに明晰な頭脳で、きっとすべて気が付いているはずだ。それでもなお、彼は崇拝せずにはいられない。理屈を超えた、切実な「なにか」に突き動かされている。その矛盾した横顔を見ていると、ミリアムの胸には言いようのないざわめきが広がった。
けれど、どちらにしても今の自分にできるのは、この依頼を引き受けることだけだった。
自分の心に秘めた、たった一つの要求。それを彼に突きつけ、約束を確かなものにするために。ミリアムは静かに、その一歩を踏み出した。
* * *
「ねえ、姉様。川に沈んだ人が消えるなんてこと、本当にあると思う?」
川岸で遊ぶサロメが水に近づきすぎないよう、その小さな手を取りながら、ナタンが不安げに問いかけてきた。
「その時は大勢の人が周りにいたっていう話だよね。もしこれが意図的なものだとしたら、そんな衆人監視の中で人を消し去るなんて、あまりに困難なはずだもの……」
ナタンの言葉を受け、ミリアムは鋭く研ぎ澄まされた眼で川面を凝視した。
「ええ。奇跡でなければ、物理的な脱出口がどこかにあるはずだわ。たとえば、川底のどこかに別の場所へ通じる抜け道のようなものがね」
ミリアムが導き出した推論に、ナタンは力強く頷いた。
「なるほど……。姉様、僕が調べてみるよ。サロメをお願いね」
幼い妹の手をミリアムに預けると、ナタンは躊躇うことなく川へと潜っていった。
水面に広がった波紋が消え、しばらくの時間が流れる。けれど、ナタンは一向に上がってこない。
「……兄様、出てこないね」
サロメが、幼い声で淡々と事実を指摘する。
ミリアムの胸に、冷たい不安がせり上がってきた。あの子に何かあったのではあるまいか。最悪の想像が頭をよぎり、気が気ではなくなったその時。
ざぶんと大きな音を立てて、ナタンが水面に姿を現した。
ナタンの無事な姿を見て、ミリアムはほっと胸を撫で下ろした。
「どうだった?」
問いかけるミリアムに、ナタンは濡れた髪を拭いながら、力なく首を振った。
「ダメだよ、姉様。なんにもない。人が入っていけそうな抜け道なんて、どこにも見当たらないよ」
ミリアムが立てた「物理的な抜け道」という線は、どうやら外れのようだった。
(……見誤ったかしら。それとも、もっと別の仕掛けがあるの?)
ミリアムは気持ちを切り替えるように、ナタンの肩にかけた手へと力を込めた。
「とりあえず、消えたその人がどういう人だったのか調べてみましょう。奇跡の正体は、仕掛け(トリック)ではなく、消えた人間そのものの中に隠されているかもしれないから」
*
ミリアムはナタンとサロメを促し、再び人々の熱狂が渦巻く洗礼場へと歩き出した。消えた男の、生きた足跡を鑑定するために。
調べていくと、消えたのはバルバという名の男だった。
バルバはしばらく前にふらりとこの街にやってきた余所者だったが、人々の口から語られるその人物像は、驚くほど光り輝いていた。皆の噂によれば、彼は類いまれなほど高潔な人物だったようだ。
困っている人がいれば、自分の着ている最後の一枚の衣を迷わず脱いで与え、飢えた子供を見かければ、自分の数日分の糧食をすべて差し出したという。病人の枕元で夜通し祈りを捧げ、誰からも疎まれる異邦人の足を自ら洗う。そんな彼の献身を目の当たりにし、彼を「聖人」と呼ぶ者さえいた。
バルバの話を聞いていくうちに、純粋なナタンは感嘆の息を吐いた。
「すごいね、姉様。本当にバルバさんは、神様の御心に沿う人だったんだね。……ひょっとして、本当にその高潔な人柄が神様に認められて、お膝元に呼ばれたなんてことはないのかな」
目を輝かせるナタンの横顔を見ながら、ミリアムは小さく唇を噛んだ。
ミリアムにとって、ナタンの放つ純粋な言葉は直視できないほどに眩しかった。けれど、それと同時に彼女の奥底にある「鑑定士の目」が、冷徹な警笛を鳴らしている。
(そんなことは、絶対にありえない……)
神に召された、などという美しい物語を信じたい気持ちはある。けれど、調べれば調べるほどに、何らかの精緻なトリックがあるはずだという疑念が深まっていく。そんな風に、人々の善意や聖人の高潔さに疑いの目を向ける自分を、ミリアムはどこかで浅ましく、恥ずかしく思っていた。
けれど、一度回り始めた頭脳を止めることはできない。彼女の脳内では、ものすごい勢いで思考の奔流が駆け巡っていた。
本当にそんな高潔なだけの人物なんて、この世にいるのだろうか。
もし、それほどまでの人物なら、今ごろヨカナンのように人々の崇拝を一身に集める対象になっているはずではないか。あるいは、これは崇高な人物を天に導いてみせることで、ヨカナンの権威を高めようとした、誰かの巧妙なプロパガンダなのではないだろうか。
噂を流し、大衆の熱狂を煽ることで、ヨカナンの聖性を補強しようとした黒幕。そんなことを仕掛けるのは一体誰だ。ヨカナン本人か。あるいは、あの底の知れないヨシュアか。それとも……すべてを裏で操るユダなのか。
思考は次から次へと負の連鎖を生み、ミリアムは出口のない袋小路へと迷い込んでいく。
「……姉様、大丈夫?」
心配そうなナタンの声に、ハッとして顔を上げた。隣ではサロメも、不安そうにミリアムの顔を覗き込んでいる。二人の純粋な眼差し。
「大丈夫よ、なんでもないわ。ちょっと考えごとをしていただけ」
「聖人の消失」という舞台装置。人々の証言。自分の立てた仮説。
そのどれもが、真実の端っこを掠めているような感覚はある。けれど、それは決して求めている「答え」そのものではなかった。
今、ミリアムは、自分でも驚くほど胸の高鳴りを覚えていた。
ここ数日、重苦しい「予感」や血の記憶に苛まれてきたけれど、今は違う。目の前にある謎の皮膜を一枚ずつ剥ぎ取り、その奥にある真実を暴いていくこの感覚。震えるほどの高揚感に、彼女の魂は痺れていた。
(ああ、やっぱり……これが私の本質なのだわ)
どれほど目を背けようとしても、どれほどただの「姉様」でありたいと願っても、この冷徹で飽くなき探求心は、変えようのない自分の一部なのだ。
けれど、もし今のようにナタンやサロメが傍にいて、この業の深い性質と共に生きていけるのなら、それはなんて素晴らしいことだろう。
真実を暴き立てる自分の鋭い瞳を、ナタンやサロメ、そしてカシウス兄様がずっとずっと支えてくれるなら、付き合って行けるそんな道はないのだろうか?
ミリアムはサロメを抱きしめる腕に力を込めた、その時、ミリアムの視界の端に、ある小さな「不自然さ」が飛び込んできた。
それは、バルバの噂に熱狂する群衆の中にあって、ただ一人、祈ることも叫ぶこともせず、静かにヨルダン川の土を弄んでいる老人の姿だった。
表紙イラストをpixivに掲載しています。
朗読版はyoutubeにあります。
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【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。
※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。
※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。




