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第1部5 光の庭①

イスカリオテ。

その名はヘブライ語において「イシュ・ケリヨト」――ケリヨトの男を意味する。

荒野の入り口に佇む死の街、ケリヨト。かつて軍事の要衝として栄えたその地は、今や役目を終えた巨獣のむくろのように、白茶けた石と土埃の中にひっそりと沈んでいた。

馬車が止まり、誰かが砂塵の中に降り立つ。彼を出迎えたのは、驚くほど美しい、しかし獲物を誘う獣のような冷徹さを湛えた少女であった。

「ようこそ。血の契約が結ばれし、聖なる揺り籠へ」

少女の瞳は、光を吸い込む黒曜石のような深淵の色をしていた。『彼』がは思わず息を呑み、問いかける。

「……誰だ?」

「私は案内人。さあ、こちらへ。あなたが知るべき『世界の裏地』へお連れしましょう」

岩肌に醜く口を開けた暗い洞穴。その奥へと続く螺旋階段を、少女に導かれ降りていく。一段下るごとに地上の陽光は死に絶え、代わりに数千年前から滞留しているような、湿り気を帯びた石の冷気が肌にまとわりつく。

「ここは……一体、何なんだ?」

『彼』の呟きに、少女はくすくすと鈴を転がすように笑った。その響きが、巨大な円柱が並ぶ石壁に反響し、幾重もの亡霊の囁きとなって返ってくる。

「ここは、ソロモン王が栄華の極みにあった時代に築かれた、第一神殿の地下遺構。地上のすべてが焼き払われた災厄の際、神に見捨てられたこの階層だけが難を免れ、古のことわりを閉じ込めたまま沈んでいたのです」

松明の火に照らし出されたのは、人間という存在を嘲笑うかのような巨石の回廊だ。

「そんなものが……歴史の底に、残っていたのか」

「ええ。ですが、人がその一生で知りうる知識など、砂粒一つに過ぎません。特に、私たちのような『選ばれた業』を背負う者にとってはね」

少女は再びくすくすと喉を鳴らし、『彼』の耳元へ熱い吐息を寄せた。

「ねえ、私と契約いたしましょう? 互いの血を混ぜ合わせ、魂を分かち合う秘めやかな誓約を。そうすれば、手とり足とり教えて差し上げますわ。この世界の裏側に潜む、昏い真実のすべてをね」

少女はその耳朶に唇を寄せ、甘い毒を含んだ声で囁きを重ねる。

「あなたは言ってみれば、にえですわ。長老ラビたちに捧げられた、愛らしい供物」

さらに湿り気を帯びた声が、思考を麻痺させていく。

「……贄?」

「ええ。飢えた怪物の住まう迷宮に放り込まれた、哀れな子羊。あなたはその怪物のあぎとに、今まさに自ら頭を差し入れようとしているの。そう……こんな風に」

少女はその柔らかな耳たぶを、逃さぬよう鋭く、それでいて愛おしげに噛んだ。

「怪物に食い散らかされるくらいなら、私に食べられた方がずっと幸せでしょう?」

「……やめろ!」

咄嗟に彼女を突き放した『彼』の鮮烈な表情を見て、少女は弾けるような愉悦の声をあげた。

「お可愛いこと……」

少女は己の唇を指先でそっとなぞり、満足げに一つ溜息を吐き出す。

「このまま、夜が明けるまであなたと戯れていたいけれど……残念。私の役目はここまでですわ」

気がつけば、目の前には威圧的な巨石の扉が、沈黙の番人のごとく冷然と鎮座していた。

「私が案内できるのは、この檻の境界まで。……また、奈落の底でお会いしましょう。私たちが真に一つに結ばれる、その瞬間に」

少女は一歩下がり、闇に溶け込むような優雅な所作で深く一礼した。

その刹那、彼女の姿は最初から実体のない幻影であったかのように、音もなく夜の底へと掻き消えていった。

入れ替わるようにして、目の前の巨石が重苦しい地鳴りを立て、左右へと分かたれていく。開かれたのは、奈落へと続くさらなる深淵の入り口だった。

奥に広がっていたのは、かつて数千人の祈りと絶望を飲み込んだであろう、天を突く大広間。最奥の祭壇には、太古の沈黙を湛えた「法器コンテナ」が鎮座している。

だが、その静寂の中心には、異様な殺気を放つ死の円環があった。

石の円卓を囲むのは、白磁の仮面を被った九人の男たち。漆黒の法衣に施された鮮血のごとき赤刺繍が、石像のように座す彼らの不気味な静寂を際立たせていた。

十あるはずの席。その一つだけが、ぽっかりと黒い穴のように空いている。

中央に座る男が、『彼』の姿を認めると、ゆっくりと立ち上がった。

白磁の仮面で素顔を隠しているというのに、その男が放つ威圧感は空間そのものを歪ませ、呼吸を拒絶する。男は天を仰ぐように、その大きく枯れた手を広げた。

「待ちわびたぞ、兄弟よ。今よりお前に、至高の試練を授けよう。これを果たした時、お前は『十番目の月』として、この深淵に迎え入れられることになる」

九つの白磁の仮面から、温度のない無機質な視線が一斉に『彼』へと注がれた。石壁に反射する彼らの声は、まるで地底から響く呪詛じゅそのように重く、逃れようのない粘り気を持って鼓膜にへばりつく。

そして悟った。あの少女が言った通り、自分はもう、怪物の喉笛まで頭を突っ込んでしまったのだ。もはや退路など、砂漠の陽炎かげろうよりも頼りない。

己の願いを叶えるためにはこの道しかもうないのだ。

『彼』はその場に、静かに跪いた。

「……偉大なる長老たちよ。いかなる試練でも、謹んでお受けいたします」

その静謐な、しかしすべての未練を断ち切った声だけが、地下神殿の冷たい石壁にどこまでも反響する。。

そして、暗がりに響くその宣告は、一振りの鋭利な刃となって、『彼』の平穏な未来を無残に切り裂いた。

「彼の者を殺せ。必ずやその命を、王の元へと捧げるのだ」

* * *

それはミリアムが十二歳になったばかりの頃の、忘れられない午後の記憶だった。

工房の奥、熱を帯びた空気の中で、兄カシウスが作業の手を止め、厳かに口を開いた。天幕の入り口から差し込む逆光を背負って立つ兄の体躯は、まるで動かぬ岩山のように、少女の足元に巨大な影を落としている。

「ミリアム、こっちへ来い」

カシウスの低く太い声に呼び寄せられ、ミリアムは兄の前に背筋を伸ばして立った。「はい、兄様」と答える彼女の頬には、まだ幼児の柔らかな面影が残っている。しかし、兄の眼差しは妹を慈しむ肉親のものではなく、一族の行く末を見据える「家長」のそれであった。

「明日、一人の少年をここに連れてくる。名はナタンという。親を亡くし、路頭に迷っていたところを族長が拾い、俺が受け入れた。明日からは、その子が俺の弟子となり、お前の弟となる」

「弟……。私が、お姉様になるのですね?」

新しい家族が増える予感に、ミリアムの胸には花が咲くような高揚感が芽生えた。孤独な境遇であろうその子を一生懸命支えよう、そう決意して弾んだ声で答えた。

「そうだ、可愛がってやれ。……だがミリアム、取り違えるな。これは単なる情けではない」

カシウスの瞳は笑っていなかった。彼は妹の細い肩に、ずしりと重い手を置いた。

「お前は十二だ。もうわかるはずだ。ベツアレムの火を絶やさぬためには、正当なる継承者が必要だ。……よく覚えておけ。俺が連れてくるその少年は、将来、お前の夫となり、この家を、そしてお前自身を支える柱となる男だ。俺はそのためにあいつを育てるんだ」

ミリアムの身体が、氷を当てられたように微かに強張った。

「夫」という言葉が持つ、生々しくも絶対的な響き。それは将来の約束などという生易しいものではなく、家長カシウスが下した「決定」であった。自分と、そしてまだ見ぬ少年の人生は、今この瞬間、会うことさえ叶わぬうちから兄の手によって「家を守るための歯車」として噛み合わされたのだと、ミリアムは理解した。

カシウスは、混乱と覚悟が混ざり合った妹の瞳を真っ直ぐに見つめ、念を押すように低く告げた。

「お前たちが血を交え、この家を継ぐ。それが、わが一族の動かせぬ定議さだめだ。……いいな、ミリアム」

* * *

砂漠の夜は、生けるものすべてを拒絶するように冷たく、深い。

結局、あの不穏な言葉を残したまま、兄様が戻ってくることはなかった。

夜の帳が降り、家事を終えて天幕に戻ると、ナタンが作業机に突っ伏して深い眠りに落ちていた。彫金作業の途中で力尽きたのだろう。その指先には星屑をまぶしたような銀の粉が、ランプの残光を浴びて淡く光っている。

私はそっと隣に腰を下ろし、重たくなった彼の頭を、壊れものを扱うような手つきで自分の膝へと招き寄せた。

「ねえ、ナタン。本当に、私をお嫁さんにしてくれるのね」

眠る少年の柔らかな髪に指を通しながら、祈るような吐息をもらした。脳裏を掠めるのは、あの真珠色の黎明だ。

ずっと姉弟として寄り添い、心の奥底でその熱に気づきながらも、今の関係を壊さぬよう避けてきた「恋」という名の情念。それをあの朝、ようやく「約束」という形あるものへ変えることができたのだ。

『わかってる。姉様が一生、僕の作品だけを鑑定し続けられるように、世界一の職人になってみせる。だから……他の誰かに、姉様の目を預けたりしないで』

一生離れないと誓ってくれた、愛しい半身。

兄様だって、こうなることを望んでくれていたはずだ。ナタンをこの家に連れてきたあの日から、私たちの行く末を穏やかに見守り、いつか来る約束を宝箱にしまうように大切にしてくれていた。

そう、信じていた。

だがその瞬間、胸を刺し貫くような鋭い痛みが走った。

もし、私たちの結びつきが、兄様にとって全く別の意味を持つものだったとしたら。

『これで、もう俺がいなくても大丈夫だな』

あれは、祝福などではない。冷徹なまでの「離別の宣告」だ。

私たちが勇気を出して言葉にしたばかりの柔らかな約束を、兄様は「自分が去るための免罪符」として受け取ったのだ。

脳裏に、かつての兄様の凍てつく声が蘇る。

『……あいつはお前の母親を殺したんだ。一族の誇りにかけ、この手で必ず――』

兄様は、この日が来るのをずっと待っていたのだ。

急に、膝の上にあるナタンの温もりが、ひどく遠いものに感じられた。

最初から、兄様は自分たちが結ばれる祝宴に座る姿など想像していなかった。ナタンをこの家に迎えたあの日から、自分に代わって私を守る「盾」として彼を完璧に育て上げ、すべてを託せるこの瞬間を、ただじっと見定めていたのだ。

自分が裁くべき男を見つけたとき、後ろ髪を引かれることなく死地へと旅立てるように。

眩暈めまいを覚えるほどの推論が、確信へと変わる。

(兄様……あなたはもう、見つけてしまったのですね。あなたが断罪すべき、あの男を)

かつて兄様が限りない敬愛を捧げた師であり、義兄。そして私の母を殺し、幼い私たちを捨てて消えた、実の父。

今や洗礼者ヨカナンの高弟として暗躍し、歴史の闇を蠢くあの男。

敬愛は逃れられぬ殺意へと変貌し、復讐へ向かう兄の背中には、かつて私たちを捨てた父の重苦しい影が重なって見える。

震える手で、ナタンの肩を抱き寄せる。

その光に縋るように、人生を共にすると誓った少年の、無防備な寝顔を見つめる。膝の上で眠る柔らかな頬。そこへ慈しみのすべてを込めた口づけを落とそうとして――あとわずかというところで、凍りついたように動きを止めた。

熱に浮かされる自分を、どこか遠くから冷めた目で見つめている「もう一人の自分」に気がついたからだ。

『ミリアム、これは……ただの共依存よ』

脳裏に、氷の礫のような声が響く。「今日この日のために生まれてきた」と確信できるほどの幸福に満たされていたはずなのに、彼女の中に住まう「鑑定士の目」が、その情熱を無慈悲に分析し始める。

(何、これは……? 私、どうしてこんなことを考えているの……?)

死の淵から救われたナタンは、生きる理由を求めてミリアムに全てを捧げた。そしてミリアムもまた、自分の中の底知れぬ空洞を埋めるために、この少年の盲目的な愛情を必要としたに過ぎない。

足元に広がる絶望の深淵を見ないように、ただ必死に、お互いの瞳だけを見つめ合っている。引き剥がすことができないほどに癒着した心。それが自分たちの「純愛」と呼び習わした執着の正体なのだと、鑑定士の理性が告げている。

己の瞳に愕然とした。

(……私はどうして、こんなことまで見抜いてしまうの?)

もっとただの「姉」として、一人の恋する娘として、この子の温もりに酔いしれていたいだけなのに。なのに、私のこの瞳が、この子の体温を『ただの生存に必要な熱量』として測り始めてしまう。

今この瞬間の、震えるような愛着。それを鑑定士としての冷徹な理性が、「生存本能による癒着」という味気ない値札をつけて処理しようとしている。

その時、思考の中に鋭い戦慄が走った。

もし。もし父が、同じような瞳を持っていたのだとしたら?

母という『かけがえのない宝』を、機能しなくなった瞬間にただの『ガラクタ』として鑑定し、捨て去ったのだとしたら。愛という人間らしい重しを軽々と跳ね除け、真実という名の空虚を優先してしまったのだとしたら――。

(いつか私も、この子を『棄却』してしまうかもしれない……)

背筋を伝うのは、底冷えのするような恐怖だ。

ナタンを愛すれば愛するほど、自分の中に流れる「父の血」が、いつかこの幸せさえも計算式の一部として処理し、切り捨ててしまうのではないかという予感がしてならない。

ミリアムはようやく、その真実に辿り着いた。ユダを巡る血塗られた宿命――それは、もはや兄だけの問題ではない。

(私もまた、過去と向き合い、あの深い闇の底に潜む男……父様と決着をつけなければならないのだわ)

逃れられぬ血筋を断ち切るために、自分に何ができるのか。

その問いに対し、脳裏に浮かび上がるのは、底知れぬ黄金の眼差しを持った一人の少年の姿だった。

(ヨシュア……あなたは、最初から 私の胸に穿たれた欠落の正体を知りながら、あの日、私と契約を結んだというの?)

安ワインの底に偽りのコインが沈んでいた、あの運命の夜。

少年は今日という日が訪れることを予見していたのだろうか。その真意を測る術は、鑑定士の眼をもってしても見当たらない。しかし、父という名の深淵へと至る道筋を照らせるのは、もはや彼をおいて他にいない。

(私は彼と、さらなる取引をしなければならない。たとえその代償として、この瞳だけでなく、魂のすべてを差し出すことになったとしても)


表紙イラストをpixivに掲載しています。


朗読版はyoutubeにあります。

https://www.youtube.com/playlist?list=PL8BNa9czmG5HRY9yC-7O8NnwODXAXGjZe

【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。

※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。

※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。

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