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第1部4 タルタロスの林檎⑧

ミリアムたちの姿が夜の帳に溶け、完全に見えなくなった頃。

それまで古オリーブの歪な影に同化していたアンドレが、極上の喜劇を観賞した後のように、狂おしく手を叩きながら哄笑こうしょうをあげた。

「……素晴らしい」

それから、這いつくばるような仕草で、ヨシュアの足元へ無様にひれ伏した。その瞳には、信仰と狂気が混ざり合った卑屈な熱が宿っている。

「ヨシュア様……。これまでの、この愚か者の非礼の数々、どうか、どうかお許しください。今この時、私は確信いたしました。私が真に魂を捧げ、お仕えすべき主は、貴方様以外にあり得ない……。どうぞ、この犬めが御傍にはべることをお許しください!」

ヨシュアは地を這う男に視線を落とすことさえせず、ただ虚空を、冷徹に射抜いたまま問い返す。

「……ユダは、もう良いのかい?」

「勿論ですとも! 貴方様は、ユダ様などという矮小な存在……いえ、あるいは洗礼者ヨカナン様をも、遥かに超える――」

「そこまでだ」

ヨシュアの言葉が、死の宣告のように空間を凍らせた。

その瞳に宿ったのは、燃え盛る黒い太陽のような、あまりにも苛烈な拒絶の光。その剥き出しの怒気に、アンドレは心臓を握り潰されたかのように息を呑み、言葉ごと喉を凍りつかせた。

「それ以上は口にしないでおくれ。……僕を、これ以上に失望させたくないのならね」

完全な沈黙が、墓場のように場を支配する。

しかし、程なくしてヨシュアは、すべての感情を削ぎ落とした、あまりにも無機質な声で続けた。

「……もし。今のような愚かなおもねりを捨て、ヨカナン様への変わらぬ忠誠を誓い続けるというのなら、好きにするがいい」

そしてヨシュアは、不意に、何かに耐えるように寂しげに睫毛まつげを伏せた。

「僕も彼に振られてしまって、寂しいところだったんだ。……君は、僕を慰めてくれるかい?」

ヨシュアは翻り、月光を切り裂くような足取りで歩き出す。その背中は、もはや少年という小さな器には収まりきらぬほど、巨大な闇を背負っていた。

「おいで、アンドレ」

主従となった二人の影が、月明かりの砂漠へと伸びていく。それは寄り添う二人というより、一つの巨大な怪物の足跡のように、不気味に長く歪んでいた。

* * *

ヨシュアの放つ不穏な瘴気に満ちた森を抜けると、二人はどちらからともなく、幼子のようにぎゅっと手を繋ぎ直した。掌から伝わる互いの脈動――その一定のリズムだけが、今この場所が地獄の淵でも、ましてや白昼夢でもないことを証明している。

一度安堵が広がると、張り詰めていた緊張は、静かな熱を帯びた高揚へと姿を変えていった。

夜明け前の深く、濃密な静寂の中。二人の足音と衣が擦れる音だけが、密やかな愛のリズムを刻んでいる。

その時、足元のつるに足を取られ、ミリアムが小さくよろめいた。

「おっと……」

ナタンはすかさずその腰に手を回して支えると、顔を覗き込んで、少し得意げに口角を上げた。

「重心からあと二歩、ってところかな」

それは、いつもナタンがカシウスから耳にタコができるほど言われている忠告だった。思わずミリアムは吹き出し、そのまま吸い寄せられるように、ナタンの胸へそっと頭を預けた。

「姉様、どうしたの? どこか痛む?」

覗き込んでくるナタンの瞳が、あまりに近くて。ミリアムは胸の高鳴りを隠すように、さらに深く彼の胸に顔を埋める。

「……ううん、違うの。もう少しだけ、このままでいさせて。まだ、誰にも邪魔されたくない。この静寂さえも、二人だけのものにしておきたいの……」

ナタンは少しどぎまぎした様子で、けれどその腕には隠しきれない力強さを込めて、ミリアムの細い肩をぎゅっと抱き寄せた。

二人は寄り添い、互いの体温を分け合いながら、祈りを捧げるような敬虔さで「日常の計画」を語り合った。市へ行って、サロメに新しいリボンを買おう。カシウスが驚くような、美味しいスープを作ろう。

その何気ない会話の一つ一つが、先ほどまで彼らを誘惑していた黄金の魔実まみよりも、ずっと重く、確かな価値を持ってミリアムの胸に溜まっていく。

静まり返った空気の中、ナタンは喉元まで出かかっていた言葉を、大切に、大切に絞り出すようにしてポツリと溢した。

「ねえ、姉様。……ずっと待っててくれたっていうのは、本当?」

少しだけ赤くなった頬を隠すことも忘れて、その瞳は吸い込まれそうなほど真剣にミリアムを見つめている。

その表情に、遠い日の記憶が蘇る。庭先ではにかみ、「お嫁さんにしてあげる」と笑ったあの天使のような顔。

その瞬間、予感は音を立てて確信に変わった。

(やっぱり。あれが、私の初恋だったのね)

一人取り残された私の元へ舞い降りてくれた天使。幼い約束をくれた、たった一人の男の子。

(今日まで……ずっと、ずっと。私はこの子に恋をしていたんだ)

せり上がる愛おしさに胸を締め付けられながら、ミリアムは逃さぬよう、その細い手を優しく、けれど強く握りしめた。

「……もちろん、本当よ。嘘なわけないじゃない。私はずっと、ずっと……こうなるのを待っていたんだから。……だから、早く私を支えられるくらいの一人前になってね。……私だけの彫金師さん」

ミリアムはわざといたずらっぽく、はにかむ自身の照れ隠しを隠すように微笑むと、少しだけ潤んだ瞳でナタンを真っ直ぐに見つめ返した。

「覚悟してね。私の鑑定眼は、身内には誰より厳しいのだから。あなたが造る金の輝きも、銀の純度も、私が一番近くで、ぜんぶ見極めてあげる」

挑発するような、けれど「一生そばにいる」とはにかむような言葉に、ナタンは呼吸を詰める。そして、繋いだ手をぐいと引き、ミリアムを自分の方へ強く引き寄せた。

不意に縮まった距離。吐息が触れ合うほどの近さに、ミリアムの思考が白く染まる。

「わかってる。姉様が一生、僕の作品だけを鑑定し続けられるように、世界一の職人になってみせる。だから……」

ナタンの声が、耳元で低く、切実に響く。

「……他の誰かに、姉様の目を預けたりしないで。姉様が視るべき『真実』は、僕がこの手で造り出すものだけでいい」

幼い将来の約束。あまりにも他愛なく、そしてあまりにも可愛らしい誓い。

けれど、今はこれでいい。ここから先は二人でゆっくり作って行けばいい。やがて、地平の向こうから真珠色の光が差し込み、二人の影を地面に深く、一続きの境界線のように照らし出した。

二人の影は、昇りゆく朝日に溶け合い、砂の上に長く、一つの確かな形を描き出していた。

真珠色の黎明れいめいが、新しく始まる二人の道筋を、どこまでも白く、清らかに照らし出していた。

繋いだ手に力を込め、二人は歩き出す。

まだ夜の名残が色濃く残る家に戻ると、天幕の中はしんと静まり返り、サロメだけが一人、安らかな寝息を立てていた。カシウスの夜具はすでに畳まれ、主の姿はない。彼はもう、どこかへと、音もなく出かけてしまったようだった。

ミリアムとナタンは、外の冷気を追い払うようにして、互いの体温を分け合いながらそれぞれの夜具に潜り込んだ。

薄闇の中で、ナタンがミリアムの手をぎゅっと握りしめる。その指先には、まだ丘で浴びたあの真珠色の余韻が残っているようだった。

「綺麗だったね、姉様」

「ええ……。世界には、ああやって幾つもの光が用意されているのね」

ナタンが、不純物のない澄んだ瞳でミリアムを射抜くように見つめた。その真っ直ぐな眼差しに、彼女の胸の奥が熱く疼く。

「姉様、本当にありがとう。……僕に、世界の光を見せてくれて」

ミリアムは優しく微笑み、ナタンの手をさらに強く握り返した。言葉には出さず、胸の中でそっと呟く。

(違うのよ、ナタン。世界の光を見つけたのは、私の方……。あの泥濘ぬかるみの中で、私を待っていてくれたあなたこそが、私の絶望を照らす唯一の光だったのよ)

かつて母を亡くし、父さえも去り、救いのない闇を虚しくいていたその指先。

けれど今、彼女の指先は、ナタンの掌から伝わる柔らかな熱の中に、この地上でたった一つの――金貨にも宝石にも換算することのできない、絶対的な「真実」を感じ取っていた。

世界は依然として残酷で、不条理に満ちている。けれど、この腕の中に確かな鼓動がある限り。共に「幸せ」の数を数えるための指がある限り。自分が未来への希望を見失うことは、もう二度とないだろう。

――これからは二人で歩いていく。

呪われた血脈も、暗い運命も、すべてを焼き尽くすほど眩しい、私たちの「光の射す方」へ。

* * *

それから、どれほどの時が流れただろう。

没薬もつやくの重く乾いた芳香が、鼻腔をかすめた気がした。

意識の底から緩やかに浮上するミリアムの耳に、最初に届いたのは天幕を低く叩く風の音だった。

瞼を持ち上げると、そこには見慣れた天井があった。傍らではサロメが安らかな寝息を立て、少し離れた場所ではナタンが、悪夢を振り切ったかのような静謐の中で眠りに落ちている。

脳裏に蘇るのは、数刻前に見た真珠色の丘の光景。天幕の隙間から零れる光の粒子には、ナタンと共に浴びた黎明の輝きが、今も微かに混じり合っているように見えた。

(あの光の中で交わした約束は、夢じゃなかったのね)

ミリアムはそっと、自身の掌を見つめた。肌には今も、ナタンの指先と分かち合った熱の残滓ざんしがこびりついている。あの静寂の中で誓った「一生の約束」。その感触を慈しむように、彼女は幸福の余韻に身を委ね、うっとりと目を細めた。

その時、分厚い布の仕切りが、誰かが触れたかのように小さく揺れた。

「……戻っているのか、ミリアム」

カシウスの声だった。

仕切りの向こうに、兄の姿は見えない。暗がりの向こうから、衣擦れの音と共に重苦しい問いが投げかけられる。

「一体、どこへ行っていた。ナタンも、一緒だったのか?」

胸の奥に宿る幸福が、熱を帯びて跳ねる。気恥ずかしさよりも、この輝きを今すぐに誰かに——何より、この兄に伝えたくて堪らなくなった。ミリアムは高揚感に突き動かされるまま、弾むような声で告げた。

「はい。朝日を見に、丘へ。……そして、二人で決めたんです。これからずっと、一緒に歩いていこうと。ナタンと私、二人で支え合って生きていくって、約束したんです」

誇らしげなその言葉に、仕切りの向こうで僅かに息を呑む気配がした。

数秒の、深い沈黙。天幕を叩く乾いた風の音だけが、その空白を埋める。やがて、カシウスから短く、削り出されたような言葉が返ってきた。

「……そうか。それは良かった」

兄も喜んでくれた。そう確信したミリアムは、未来への希望に胸を膨らませ、安堵の溜息を吐いた。

仕切りの向こうでは、何か重い荷を持ち上げるような音が響く。そして、天幕の入り口が開き、外へ出ていく乾いた足音がひとつ、ふたつと遠ざかっていった。

「兄様、どこへ行くの?」

不意の胸騒ぎに、厚い布を押し開ける。

眩いばかりの朝日が、誰もいない床を無慈悲に、白々と照らしていた。カシウスはすでに背を向け、迷いのない足取りで歩き出している。

背を向けたまま、彼は言った。

「しばらく戻らないが、心配するな」

そして、砂漠の風にさらわれるような、微かな呟きが聞こえた。

「ミリアム、お前は昔から寂しがり屋だったからな。……これで、もう俺がいなくても大丈夫だな」

* * *

ケデロンの谷を望む地――ゲッセマネ。

月の光さえ拒絶する深い谷底の、さらに奥深く。ねじくれた黒々としたオリーブの古木が呪詛のようにざわめく中、その豪奢な屋敷だけが、異様な磁場を放って沈黙していた。

屋敷の最奥。幾重にも垂らされた、血の色を吸って黒ずんだような豪奢な御簾みす。その向こう側は、外界のことわりが通用しない、静謐にして苛烈な聖域であった。

部屋を満たす濃厚な没薬の香りと、音もなく跪く数多の使用人たち。その中心に君臨するあるじの姿は、漆黒の御簾に遮られ、闇そのものに溶け込んでいる。

その「聖域」の境界に、一つの影がひれ伏した。

「……アンドレにございます。家令殿、あるじへお引合わせしたい客人をお連れいたしました」

その報告を冷たく遮るように、一歩、踏み出された足があった。

音はなかった。だが、アンドレは心臓を冷たい氷の楔で固定されたような戦慄に陥る。

パレスチナでは珍しい、折り目正しい上質なリネンのチュニック。腰には、館の全区画を支配する証である「銀の鍵の束」が、歩くたびにカチリ、カチリと事務的な音を立てる。ただそこに佇むだけで、空間の密度を物理的に変質させてしまうような男。

「……困りますな、アンドレ殿」

地の底から響くような、重厚なバリトン。ユダの家令オイコノモスは、ひれ伏すアンドレを見下ろしたまま、表情一つ変えずに告げた。

「主人の『微睡み』を誰に分け与えるかは、家令である私が決めること。貴殿の独断で、この場に招かれざる者を連れ込むことは許されません」

家令が視線を落とすだけで、熟練の配下であるはずのアンドレの肩が、目に見えて震えた。しかし、その張り詰めた空気の中を、一人の影が陽炎のようにゆらりと、しかし確かな異物感を持って滑り込んできた。

ヨシュア。

この死の気配に満ちた広間にあって、彼だけが法も倫理も届かぬ異界の住人のような、不気味なほど澄んだ微笑を浮かべている。

「へえ。君が新しいユダの『家の鍵』を預かる男なのかい? 」

ヨシュアが、高価な硝子細工の強度を確かめるような、冷徹で無垢な瞳で家令を見上げる。家令の眼光が、獲物を屠る直前の猛禽のごとく鋭く窄まった。だが、少年はその殺気を春のそよ風であるかのように無造作に受け流し、言葉を継ぐ。

「ユダの耳に入れておきたいことがあってね。まあ、君のような有能な番犬なら、もう嗅ぎつけている『つまらない話』かもしれないけれど」

ヨシュアは一度、静かに目を伏せて見せたが、再び瞼を開いたとき、その瞳からは一切の光が消えていた。

「……ユダを殺そうとしている者がいるよ」

その一言が放たれた瞬間、広間の空気が、キィィィィンと悲鳴を上げるように凍りついた。

家令の指が、いつでもこの不遜な少年の首を折れる位置へと僅かに動く。同時に、御簾の奥で、主の呼吸がわずかに止まった。

「それは、濁りなき信念という名の砥石で磨かれた、恐ろしく純粋な殺意だ。その牙は、君という『鉄の防壁』さえ容易く貫き、主の喉元に届き得るだろう。……彼もようやく、鏡の裏側に隠された君たちの『真名まな』に、指をかけた頃合いじゃないかな?」

ヨシュアは、家令の放つ凄まじい威圧を背に流し、その先にある黒い御簾へと真っ直ぐに視線を投げた。

「忘却の丘で、僕たちは約束したね。……ユダ、君には僕の『ささやかな願い』を叶えて貰わなければならない。何、ほんの無邪気なお願いさ」

ヨシュアの声は、もはや人の発するそれではなく、闇そのものが囁いているかのようだった。

「契約しよう、ユダ。君が焦がれ続けた『救済という名の絶望』と、僕が夢見た『破壊による完成』――その二つが重なる、本当の幸せのために」

夜の静寂の中、その囁きは豪奢な屋敷の壁を透過し、ゲッセマネの闇をどこまでも侵食していく。

家令は、主の返答を待つ間、微動だにせずヨシュアを睨み据えていた。御簾の向こう側、沈黙を守る「主」の気配が、より深く、より重く変質していく。

ユダの居城、ゲッセマネの闇の奥、運命の歯車は、もはや誰にも止められぬ速度で回り始めていた。


第1部4 タルタロスの林檎 了


表紙イラストをpixivに掲載しています。


朗読版はyoutubeにあります。

https://www.youtube.com/playlist?list=PL8BNa9czmG5HRY9yC-7O8NnwODXAXGjZe

【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。

※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。

※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。

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