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第1部4 タルタロスの林檎⑦

月の下、静かに佇む少年。

「……ナタン……」

その名を呟いたミリアムの声だけが、ただ静かに響き渡る。心は、もはや制御不能な濁流に飲み込まれていた。

目の前に立つナタンの無事な姿を目にした安堵、壊れ物を扱うような愛しさ、そしてサウルが狂乱の果てに去っていった先ほどまでの恐怖。それらすべてが、鑑定士としての冷徹な観察眼と激しく衝突し、喉元まで出かかった言葉を形にできず、ただ唇を震わせる。

そんなミリアムの混迷を、静かに凪いだ海のような瞳で見つめ返し、ナタンがゆっくりと唇を開いた。

「ねえ、姉様……覚えている? 僕たちが出会った、あの頃のことを」

その声は、かつて忘却の丘で見せた怯えも、死に物狂いの形相もなく、ただ遠い日の思い出を辿るような、不自然なほど穏やかな響きを持って夜の静寂しじまに溶けていった。

「あの日、無くなった林檎を盗んだのは僕だと、大人たちは皆疑った。僕が不吉な、呪われた子供だからって……。でも、姉様だけは僕を信じて、泥の中にいた僕を助けてくれた。それがどれほど嬉しかったか、きっと姉様には想像もできないだろうね」

「当たり前よ。ナタンがそんなこと、するはずないもの」

ミリアムは震える声で即座に返した。その言葉は、自分自身に言い聞かせるような必死さを孕んでいた。しかし、ナタンは喜びを見せるどころか、少し悲しそうな顔で、力なく自嘲気味に笑った。

「そうだね、あの日僕はタルタロスの林檎を盗んでいない。……でもね、姉様。本当は盗まなかったんじゃない。盗めなかったんだ。僕の手が届く前に、あのカラスが持っていってしまったから」

「え……?」

ミリアムの胸に、拭い去れない冷たい暗雲が立ち込める。彼女が「真実」だと信じていたあの日、あの子を救ったと思っていた「無実」の正体が、今、音を立てて崩れ去っていく。

「何故、あんな馬鹿げたおとぎ話を……願いを叶える林檎なんて話を信じているの?」ミリアムが言うと、ナタンは寂しそうに笑った。

「姉様の瞳には、僕の心の醜いおりは映っていなかったんだね」

ミリアムの視界で、今のナタンの姿に、かつてローマを激しく憎んでいた少年の影が重なる。ナタンの心の奥深くには、ミリアムが気づけなかったほどの深い憎しみと闇が、絶望という名の根を張っていたのか。

ナタンが静かに言葉を継ぐ。その告白は、月光にさらされた傷口のように生々しい。

「幼かったあのころ、それが命を奪う毒だということを、知っていたんだ。だからこそ、あれは僕にとって『願いを叶える林檎』だったんだよ」

ミリアムの胸が、激しくざわめき始める。かつて彼が、復讐の炎を瞳に宿して叫ぶ直前に漏らした、あまりに切実な願い。

『父さんと母さんともう一度会いたい』

「まさかナタン、あなた……」

「この汚れた世界から消えて、父さんと母さんのところへ行ける。毒こそが、僕にとって唯一の救済だったんだ。そう。あの日、僕はあの林檎を盗んで、サロメと一緒に死ぬつもりだったんだよ。」

月明かりの下、ナタンの告白が冷たく響いた。ミリアムの全身から血の気が引いていく。自分があの日救ったのは、未来への希望を持った少年ではなく、死への逃避を邪魔された絶望の塊だったのか。

ミリアムは、自分自身を激しく恥じた。

あの日、大人たちが寄ってたかってナタンを疑い、責め立てた本当の理由を、今日まで「偏見」だと思い込んでいた。だが、大人たちは、この子が両親を慕うあまりに自ら死を選んでしまうほどの絶望の淵にいることに、気がついていたのだ。

自分こそがナタンのいちばんの理解者であり、理想の「姉様」だと思っていた。それなのに、彼を縛り付けていた死神の存在に、自分だけが気づけなかった。

「でも、死ぬことはできなかった」

「私のせい?私が……邪魔をしたから?」ミリアムの震える問いに、ナタンは微かに、聖母を見上げるような慈しみを込めた笑みを浮かべた。

「そうだね、姉様のせいだね。でも、それは死の邪魔をされたからじゃない」

そして、本当に愛おしいものを見るかのように微笑んだ。

「……あの日、姉様が僕に光をくれたからだよ」

ナタンの声が、夜の静寂を震わせた。

泥濘ぬかるみの底で息絶えようとしていた僕に、姉様は『幸せを数えて』と仰った。この世界には、まだ慈しむべき美しいものが溢れているのだと。……姉様は自分を小さな灯火ともしびだと仰ったけれど、違う。僕にとって、姉様はこの世界の光そのものになったんだ」

その告白は、いかなる琥珀色の毒よりも鮮烈にミリアムの胸を貫いた。ナタンの双眸から、一筋の光が零れ落ち、乾いた土に吸い込まれていく。

「姉様は、僕が生きる理由そのものになった。だからあの日、僕は決めたんだ。この命を盾にして、姉様を守り抜くのだと。たとえこの魂が泥に汚れようとも、姉様の歩む道を阻む暗闇を、僕がすべて飲み込もうと誓ったんだ。……だから、僕はここへ来た」

ナタンは手の中にある「目に見えぬ刃」を、己の拳を砕かんばかりに握りしめた。その瞳に、底知れない虚無の闇を宿しながら。

(……どういう意味なの、ナタン。あなたは、一体何を――)

ガリラヤの夜。月光がオリーブの葉を銀色に透かし、対峙する者たちの影を、処刑台の刻印のように地面へ深く刻んでいる。

「ヨシュア様が、教えてくださったんだ。世に溢れる偽物の林檎などではない、本物の『願いを叶える実』は存在するのだと。僕が望むなら、その紛い物の代わりに、真実の救いを与えようと」

ナタンの声は、夜露に濡れたように静謐で、それでいて熱病のような温度を孕んでいた。その瞳は、眼前の怪物にすべてを捧げる巡礼者のような、あまりにも危うい無垢さを湛えている。

ヨシュアは、蛇が獲物の喉元を検分するように、至近距離からナタンを射抜いた。

「だから僕は、ここに来た。その本物の果実を手に入れるために」

ナタンがヨシュアの視線を真っ向から受け止める。二人の吐息が白く混ざり合い、静寂の中に、どこか冷たい没薬の香気が立ち込めた。

「……ヨシュア様。本当に、あの『本物の林檎』を僕に授けてくださるのですね? 僕の願いは、ただひとつ……」

ナタンの声には、幼さに似合わぬほどの静かな決意が宿っていた。それを見下ろすヨシュアは、満足げな、どこか陶酔を孕んだ笑みを浮かべる。

「ああ、分かっているよ。君の姉を蝕むあの悩みを消し去り、彼女を幸せにすること。そうだね?」

ヨシュアの言葉を追認するように、ナタンは迷うことなく頷いた。その潔いまでの肯定を突きつけられ、ミリアムはその場に崩れ落ちそうになる。

(ああ……なんてこと。この子は、私の浅ましい葛藤をすべて見抜いていたというの?)

ミリアムを襲ったのは、救いではなく、身の毛もよだつような戦慄だった。自分の内に潜む鑑定士の業、そして逃れようのないユダの血。それらが自分を苛んでいることを、この幼い弟は残酷なまでに正確に察知し、その上で自分を救おうとしていたのだ。

ナタンの瞳には、一欠片の迷いも、己を案じる恐怖もなかった。その無垢な献身を見届けたヨシュアは、薄い唇の端をわずかに吊り上げ、残酷なまでに清澄な微笑を浮かべた。

「ああ、もちろんだとも。誓ったはずだよ、僕たちは魂の深淵を分かち合う『友人とも』だと。……友を欺くなどという真似を、この僕がすると思うかい?」

ヨシュアが白皙はくせきの指先で差し出したのは、周囲の闇をことごとく貪り食い、それ自体が冒涜的な鼓動を打って明滅する、黄金の果実であった。あの琥珀色の偽物が、まるで泥にまみれた石礫いしつぶてに見えるほど。それは神々しく、同時に見る者の理性を逆撫でし、発狂させるほどの禍々しい美を放っていた。

「さあ、お食べ。これはね、かつて僕がその瑞々(みずみず)しい皮を噛み破った『知恵の実』。君たちが失楽園の物語でしか知らぬ、真実の望みを叶える林檎だよ」

ヨシュアは林檎を、ナタンの震える唇のすぐ先へと捧げ持った。その誘惑は、耳元で毒蜜が滴るような、残酷なほどに甘い囁きとなって届けられる。

「これを一口齧かじれば、君の視界には千の瞳が開き、万物の因果に指をかけることができる。過去という名の古傷を書き換え、未来という不確かな砂上の楼閣を、君の望む通りに再構築できるんだ。……そう。君が愛してやまない、あの哀れな姉様を。彼女を縛り付けるすべての苦悶から、永遠に解き放ってあげられる」

ナタンはその言葉を魂に吸い込むように、恍惚とした眼差しで黄金の光を見つめた。だが、ヨシュアはそこで不意に言葉を切った。

「……ただし、一口。それを飲み込んだ瞬間、君は――」

夜風が死に絶え、世界から色彩が消える。ヨシュアはナタンの唇に触れそうなほど顔を寄せ、その完成された美貌に、見る者の正気を奪うような「空白の微笑」を浮かべた。

「人としての安寧を、すべて失う。二度と、誰とも温もりを分かち合えず。二度と、愛という震えに胸を焦がすこともない」

ヨシュアの指先が、ナタンの頬を冷たくなぞる。

「君を待つのは、果てしない神の孤独だ。喜びも、悲しみも、君にとってはただの『事象』へと成り果てる。愛する姉を救うために――君は、君という『人間』を、ここで殺すんだ」

ヨシュアの、底の知れない金色の瞳が、ナタンの魂の最深部を冷酷に射抜く。

「……でも、ナタン。君なら、喜んで差し出すだろう?君が愛してやまない、あの光を。……君自身という、最後の供物を」

ミリアムは喉をかきむしるような悲鳴を上げようとしたが、声は形をなさず、ただの震えとなって消えた。

ヨシュアが提示したのは、救いなどではない。

それは、人間としての生を辞め、神という名の果てしない虚無に堕ちるための、あまりにも美しい「処刑宣告」であった。

「……僕はね。長い、長い間。この灼けるような孤独の中にいたんだ」

ヨシュアの囁きは、夜風に溶け、ナタンの鼓膜を氷の針で刺すように冷たく震わせた。

彼はナタンのうなじを引き寄せ、その瞳に宿る純粋な破滅の決意を、至上の芸術品でも愛でるように細めた。

「ずっと、僕と同じ地平を見ることのできる『誰か』を……。この色のない世界を分かち合える『半身』を、探していたんだよ。さあ、お食べ。僕たちは今日から、この永遠の静寂を分け合う、たった二人の共犯者ともとなるんだ」

ヨシュアが差し出した黄金の実が、月光の下で、まるで生き物の心臓のように不気味に脈動を繰り返す。

それは楽園を追われた知恵の残滓か。あるいは「救世主」という名の怪物が吐き出した、世界を滅ぼすための毒薬か。

ナタンの手が、抗いがたい磁力に吸い寄せられるように、ゆっくりと、確実にとその実へ伸びていく。

指先が黄金の皮をかすめるたび、ナタンの瞳から、人間らしい揺らぎが一つ、また一つと零れ落ち、無機質な硝子へと変質していく。

(……ああ、あの日、彼が言った通りだわ)

ミリアムの脳裏を、かつてヨシュアが告げた呪いのような予言が支配した。

――「姉を無上の愛で守り続けるなら、彼は必ず非業の死を遂げるだろう」

幾度も彼女を苛んだあの悪夢。重い足取りで処刑の丘を登っていくナタンの後ろ姿。

それらすべての悲劇の断片が、今、この黄金の果実へと指が触れる「その時」に向かって収束していく。この実を噛み砕くことこそが、ナタンにとっての「人間としての死」であり、逃れられぬ運命の終着点なのだ。

ミリアムの身体は、絶望という名の重圧に凍りつき、指一本動かすことすら叶わなかった。

指先が、触れる。

触れれば、すべてが終わる――。

しかしその刹那、脳裏で鮮烈な光が弾けた。それは鑑定士の知識でも、目の前の凄惨な現実でもない、あまりに幼く、ひどく暖かな記憶の断片。

「――僕ね、姉様のこと、本当に大好きなんだ」

毒も、知恵も、呪われた因果も、忌まわしい血筋も関係なかった。ナタンという存在がただ自分だけの弟であり、自分もまた彼のために在った、蜜のように甘美な日々。ただ「愛」という名の拍動だけが支配していた、清らかな記憶。

記憶の中のナタンが、ふわりとスカートの裾を掴んで微笑む。

「だから僕、大きくなったら、姉様をお嫁さんにしてあげるね」

――ナタン、私の大事なナタン。柔らかく、愛おしい、たった一人の私の片割れ。

その体温の記憶が、凍結した魂を内側から焼き溶かしていく。

絶対に駄目だ。行かせない。死なせたりなんて、絶対にしない。

気がつけばミリアムは、弾かれたように夜の闇を蹴って飛び出していた。

微かに歪むヨシュアのかお

ミリアムはなりふり構わず両手を伸ばし、深淵の淵からナタンを力任せに奪い去った。その細い身体を、壊れ物を慈しむように、けれど二度と離さぬという狂おしい執念で抱きしめる。

腕の中で驚愕に身を固くするナタンを、ミリアムは射抜くような眼差しで睨みつけた。

「勝手に決めないで! ナタン……あなたに、私の幸せの何がわかるっていうのよ!」

涙に濡れながらも、その声は鋼のような凛とした強さを帯びていた。彼女は己の心臓の鼓動を叩きつけるように、言葉を重ねる。

「私の苦しみが何かなんて、あなたはこれっぽっちも分かっていない! よく聞いて、私の幸せは……ただ、あなたがいること。ただそれだけ。それだけが、私の世界のすべてなの! 私にとっての本当の地獄はね、あなたがいなくなることよ! あなたがいなければ、私の明日は……砂漠の砂と、何ら変わりはないのよ!」

世界の価値を測り続けてきた鑑定士が、今、自分にとっての「唯一絶対」を、皮を剥いだ剥き出しの心で叫んでいた。

そして不意に、震える声でナタンの耳元に唇を寄せる。

「大きくなったら、私をお嫁さんにしてくれるんでしょう……? 私、ずっと、ずっと待っているんだから。……まだ、約束の途中でしょう?」

ミリアムはナタンの顔を覗き込み、かつての無邪気な約束を、今この瞬間の命を繋ぎ止めるための、血塗られた「くさび」として深く打ち込んだ。

「だから、それまではどこにも行かせない。私を置いて、そんな冷たい場所へ……一人で行かせたりしない。私が愛しているのは、神様のようなあなたじゃない。私を救ってくれる万能の誰かでもない。ただの……私の、生意気で、優しくて、愚かな弟のナタンなの!」

黄金の実を掴もうとしていたナタンの指先から、ふっと力が抜ける。

姉の狂おしい体温と、なりふり構わぬ愛の慟哭。それが、魔実に魅入られかけていた少年の魂を、冷たい深淵の底から現世へと強引に引き戻していった。

「……姉様……」

ナタンの瞳から、堪えていた大粒の涙が溢れ出した。

彼は黄金の実を拒絶するように放り出し、ミリアムの衣を掴んで、迷子の子供のようにその胸へと顔を埋め、激しく泣きじゃくった。

ミリアムの腕の中で慟哭どうこくを漏らしていたナタンが、ようやく顔を上げた。

その瞳を支配していた、知恵の実への冒涜的な渇望はすでに消え去り、そこにあるのは、長い悪夢から覚めたばかりの少年の、ひどく頼りなげな光だけだった。

「……帰りましょう。私たちの、あの家へ」

ミリアムの静かな、けれど断絶を許さない揺るぎない誘いに、ナタンは深く、深く頷いた。

二人は一度も後ろを振り返ることなく、神話の断片が転がる古のオリーブの樹を後にする。

歩き出す刹那。

ミリアムは衝動に突き動かされるように、一度だけ、ヨシュアを見やった。

いつもは神の如き傲慢さと不遜さを纏い、万物の因果を見通しているはずのあの少年が。

その刹那だけ、夜風に取り残された迷子のような、ひどく痛々しい「孤独」を瞳に宿していた――ミリアムには、そんな気がした。

ヨシュアは声をかけることもなく、ましてや追ってくることもなかった。

ただ、夜の闇に吸い込まれていくミリアムの背を、そして自分から「人間」を奪い返していったその力強さを。

音もなく降り積もる月光の下で、ただじっと、いつまでも、見送っていた。


表紙イラストをpixivに掲載しています。


朗読版はyoutubeにあります。

https://www.youtube.com/playlist?list=PL8BNa9czmG5HRY9yC-7O8NnwODXAXGjZe

【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。

※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。

※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。

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