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第1部4 タルタロスの林檎⑥

サウルは、自身の精神を侵食しようとする薬物の奔流を、その強靭すぎる「法への信仰」という一点のみでせき止め、無理やり正気を保っている。その光景は、鑑定士であるミリアムの目から見ても異常だった。普通の人間なら、一口食べた瞬間に理性を失い、快楽の奴隷となるはずの毒。それをサウルは、己の意志の力だけで「観察対象」へとねじ伏せている。

ニコデモは、そのあまりに危うい、鋼の如き狂信を、苦悶の表情で見つめている。

「さあ……正体はわかった。もはや一刻の猶予もない。……あなた達、この一帯をすべて焼き払うのだ」

サウルの断罪の声が、夜の森に響き渡る。ミリアムは心臓が止まるかと思った。

「バカ言わないで! そんなことをしたら、どれだけの民家が巻き込まれると思っているの? この森の近くには、住処を追われた貧しい人々や、行き場のない子供たちが身を寄せ合って生きているのよ!」

「何を言うか!」

サウルが吠えた。琥珀色の果汁が、彼の唇から火の粉のように散る。

「その程度の犠牲がなんだという?この実が世に溢れ、数千、数万の民の心が蝕まれる大罪に比べれば、ここにある命など塵芥に等しい! 何をしている、早くやるのだ!」

しかし、いつもなら機械のように従う護衛たちに、明らかな動揺が広がっている。

先ほどの浮浪児の指を砕こうとした時でさえ、彼らの心には抵抗があった。そして今、サウルが命じているのは、無辜の民を焼き殺すという、あまりにも凄惨な大虐殺だ。

一人の護衛が、震える手で松明を握ったまま、一歩後退りをした。

「あなた達……! あなた達の神への信仰はその程度か? 法の執行を恐れる者は、その者自身が裁かれる覚悟をせよ!」

サウルは激高し、まるで悪魔に憑かれたかのような素早さで、戸惑う護衛の手から松明をもぎ取る。その炎が、サウルの琥珀色の瞳を不気味に照らし出した。

「私がやる。私がこの不浄を焼き尽くし、神の法を完成させてみせる!」

ミリアムは腕の中の子供を、闇の向こうへと力強く押し出した。

「走って! 二度と振り返らずに!」

小さな背中が夜陰に消えるのを見届け、彼女は燃え盛る松明を掲げるサウルへと向き直る。その光景は、狂気と法悦が混ざり合った地獄の絵図のようだった。

「もうやめて、サウル! それは正義じゃない、ただの虐殺よ!」

叫ぶミリアムに対し、サウルは怒るのではなく、ひどく悲しそうに顔を歪めた。その瞳からは琥珀色の涙がこぼれ落ちている。

「どうして……どうして分かってくれないのだ、ミリアム。私たちは、こんなにも似ているのに。神の瞳を持つ君なら、この不浄を絶たねばならぬ義務が分かるはずだろう、我が身を持ってもう一度君にそれを伝えよう」

サウルは、自身の精神が麻薬の奔流に削り取られていくのを感じながら、その絶望を分かち合うように、もう一度その実を口へ運ぼうとした。その時だった。

ミリアムの脳裏に、あの忌まわしくも忘れがたい「没薬の声」が、地を這う霧のように響き渡った。

『……ベラドンナという実がある。それは強烈な麻薬の効果があり、人にとてつもない快楽を与える。……しかしね、それは一面の姿でしかないんだ、ミリアム』

(この声は――)

ミリアムの鼓動が激しく跳ねる。

一族を裏切り、母と自分を捨て、彼を誰よりも敬愛したカシウスさえも裏切って闇へと逃げ去った男。

イスカリオテの深淵に棲み、御簾の奥から世界を呪う闇の住人。

彼女の父の声。

(どうして……?)

その声は冷たく、裏切りと孤独の匂いがするはずだった。だというのに、どうしてこれほどまでに。

ミリアムの胸の奥から、せき止めていたはずの激しい感情が溢れ出す。声が伝える禁忌の知識。その響きに、感じるのは惜しみのない愛情、魂を震わせる懐かしさ、そして深い深い慈愛。

(どうして私は、この声を愛おしくてたまらないと思ってしまうの……?)

ミリアムの脳裏で、バラバラに散らばっていた過去の記憶と知識のピースが、凄まじい速度でひとつの恐ろしい真実へと組み上がっていく。

あの日、幼い自分の目の前で起きた光景。何故、あんなにも優しかった村の大人たちが、あんなにも酷く、狂ったような形相で幼いナタンを責め立てたのか。

何故、この実が「願いを叶える」などという甘美な名で呼ばれながら、同時に「タルタロス(地獄)」の名を冠し、禁忌として歴史の闇に葬られてきたのか。

そして今、サウルの瞳に宿る異常な輝き。

「よしなさい、サウル! これ以上食べたら死ぬわよ!それは命を奪う毒よ」

ミリアムの悲痛な叫びが、夜の静寂を切り裂く。

「……毒……だと?」

サウルが低く、掠れた声で呟いた。

「その実の正体はベラドンナ……。ごく微量であれば、人の心に陶酔をもたらす薬にもなる。けれど、一定量を超えれば心臓を止め、脳を焼き切る猛毒よ。しかも、その死に様はあまりに自然で、何者にも死因を特定できない……。鑑定士の一族が密かに恐れてきた、『死神の実』なのよ」

サウルが掴んだままの松明が、微かに震える。彼の瞳孔は開ききり、網膜は松明の炎を異常なまでに膨張させて映し出している。

「望みを叶える木の実……、それは自分が食べて幸せになるためのものじゃない。自分にとって不都合な『誰か』に食べさせ、その命を音もなく奪い去ることで、自分の歪んだ欲望を叶えるものだったのよ」

その瞬間、夜の森の空気が一変した。

サウルが大きくよろめき、持っていた松明が地面に落ちて激しく火花を散らした。

「毒……? まさか、この私が……。正しくこの世界の真実を暴くことができなかったというのか? この私が、見誤ったというのか……!」

サウルは血走った眼を見開き、自らの喉を掻きむしるようにして呻いた。法という絶対のはかりを持ち、世界の真贋を完璧に峻別してきたはずの彼にとって、その認識の敗北は、死よりも受け入れがたい屈辱だった。毒がもたらす万能感と、ミリアムが突きつけた絶望的な真実の間で、サウルの精神は未曾有の歪みを上げ始める。

その時だった。

「……さすがだね、鑑定士」

夜の静寂を切り裂き、場に似つかわしくないほど涼やかな、透明感のある「金の声」が響いた。

サウルが、そしてミリアムが、その声の出どころを見て息を呑んだ。

声は、先ほどまで泰然自若としていたはずの老人、ガマリエルのローブの中から発せられていた。

「だ……誰だ貴様!?」

サウルは混乱し、焦点の定まらない目で師を睨みつけた。

「お前は……我が師ではないな! 貴様、何者だ!」

「いや、君の師匠だよ。僕の顔を見忘れたのかい、パウロ(小さきもの)」

そう言うと、老人の姿をしていた「ガマリエル」は、被っていた深いフードと重厚なローブを、脱ぎ捨てるようにして一気に解いた。

中から現れたのは、夜の闇さえも味方につけるような、不敵なまでの美貌を湛えた一人の少年。

月の光をその身に集め、傲慢なまでに美しく微笑むその姿を、ミリアムが忘れるはずもなかった。

そこに立っていたのは、タルタロスの林檎を巡る罪人として獄に繋がれていたはずの男――ヨシュアだった。

サウルは毒の影響で焦点の定まらない瞳を彷徨わせ、震える声で絞り出した。

「あなたなど……あなたなど、私は知らない。」

「そう、君がそう言うならそうなのだろうね。あるいはこれから知るのかもしれないね」

ヨシュアは、突き放すような冷たさと、慈しむような柔らかさが同居する声で微笑む。

「それでどうだい、鑑定士。……君の目には、これは奇跡に見えるかい?」

ヨシュアに相対しミリアムはどんな顔をして良いかわからなかった。

「こんなもの……こんなもの、奇跡ではないわ。人の体の中で起こるただの化学反応よ」

アンドレは先ほどまでの不敵さを完全に失っていた。彼は、そこに実在するヨシュアの姿を、何か神々しい異界の神格でも見るかのような、驚愕と陶酔の入り混じった顔で凝視している。

その重苦しい沈黙を破ったのは、ニコデモだった。

彼は意を決したように、毒に侵され崩れ落ちそうなサウルへと歩み寄り、その肩に手を置いた。

「サウルよ……私は、お前に謝罪しなければならない」

サウルは、唯一信じていた権威の象徴であるニコデモの震える声に、弱々しく顔を上げる。

「私はお前に……私が薬を持って、洗礼者ヨカナンに神の愛を説くと伝えた。純粋なお前は、私がその正しき言葉ロゴスをもって、あの異端者を打ちのめし、改心させるのだと思っただろうね」

ニコデモの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

「しかし、法の下に裁くことすら恐れた臆病な権力者たちが選んだのは、彼を闇に葬ることだった。……最高法院サンヘドリンから下された真の命は、ヨカナンの『毒殺』だったのだよ。」

「……なんですって?」

サウルの瞳に、信じられないものを見るような絶望が走る。彼が命を賭して守り、絶対の正義だと信じていた「法」の総本山が、実は自らの手を汚さぬ暗殺を命じていたという事実。

「……嘘だ。あなた様のような、崇高なるお方が……何故。何故、そのような法を犯すような真似を! 法は、法こそがこの世界を支えているのではないのですか」

サウルの叫びは、夜の森に虚しく響く。そんなサウルにニコデモは静かに首を振る。

「それが真実なのだ、サウルよ。けれどもね、私には……とうとうできなかった。どうしても、できなかったんだよ」

ニコデモの声は、悔恨に震えている。その視線は、静かに佇むヨシュアへと向けられる。二人の間に、何らかの「対話」があったのかもしれない。

「私が毒を盛れなかったと見てとると、最高法院の大祭司カヤパ様はより確実で、より完璧な毒を手に入れるよう命じられた。それが、この『タルタロスの林檎』だ。サウル、彼らは次の刺客としてお前を選び、命じるつもりだったのだよ。その実を使ってヨカナンを討てとね」

サウルは、背後から串刺しにされたかのような衝撃を受け、その場に激しくよろめいた。

大祭司カヤパは、ガマリエル率いるパリサイ派の温情主義を嫌う、サドカイ派の首領格であった。最高法院の権力を握る彼は、「大を救うために小を切り捨てる」冷徹な実利主義者である。その目的達成のためにはいかなる卑劣な手段も辞さない男として、広く知られていた。

「しかし! それが法なら……。法の最高権力者である最高法院が、カヤパ様がそれを『正義』と断ずるなら、私は……私は……」

「サウル!」

これまでの穏やかさが嘘のように、ニコデモの鋭い声が鞭のようにサウルを打ち据えた。

「最高法院が言う法がすべてか? そのすべてが正しいと言い切れるのか? ……考えるのだ、サウル。そして、外側に掲げられた文字ではなく、おのれ自身の内側にある『法』にのみ従いなさい」

その言葉は、サウルがこれまで依り代としてきた「組織としての正義」を真っ向から否定するものだった。サウルは力なく肩を落とし、まるで糸の切れた人形のように項垂れた。彼の中にあった巨大な伽藍が、跡形もなく瓦礫と化した。

「……さあ、もう行こう。本物のガマリエル様がお待ちだ」

ニコデモはヨシュアに向き直り、深く、敬意を込めて一礼する。

「あなたには世話になった。……おかげで私は、自分の正義を見失わずに済んだ。いつか、このお返しはしよう。この命に代えても」

ヨシュアは、不敵な微笑を浮かべてそれを受け流す。

「ああ、楽しみにしているよ」

サウルは、ふらつく足取りでニコデモに促されながらも、最後に一度だけ、全霊の憎悪を込めてヨシュアを睨みつけた。

「……私は、また一からやり直しだ。だが、次に会った時には、必ずあなたを……この手で裁いてみせる」

しかし、ヨシュアはその言葉を聞き、今日一番の、ひどく悲しそうな顔をして首を振った。

「……『小さきパウロ』よ。それはないんだ。僕たちが会うことは、もう二度とない。……永遠にね」

その予言めいた言葉。ニコデモとサウル、そして護衛の一団は、重い沈黙を連れて夜の街道へと消えていく。サウルの背中は、かつての傲慢な輝きを失い、ただ夜の闇に吸い込まれていく一人の迷い子のようだった。

辺りに沈黙が広がる。やがて、アンドレが這いつくばるようにして、震える声で尋ねた。

「ヨシュア様……あなたは、ガマリエルに捕縛されたのではなかったのですか? 獄に繋がれていたはずでは……」

「僕が? 何故だい?」

ヨシュアは、まるで退屈な冗談でも聞いたかのように肩をすくめた。

「ガマリエルは確かに老獪な賢者だが、彼には捨てきれない『美学』があってね。たとえ敵対する相手であっても、毒を盛るような卑劣な真似を心底嫌っているんだ。彼は、自分の愛する弟子たちの手を汚したくなかった。……だから僕らは、ある一点で折り合いをつけたのさ」

それに、とヨシュアが密やかな笑みを深めて付け加えた。

「僕としても、彼の思いは分からなくもない。……同じ『弟子を持つ者』としてね」

アンドレはその言っている真意がよくわからなかったがそれが故に自身の矮小さを思い知らされ打ちひしがれた。

しかし、ミリアムにとってヨシュアの正体やそのような話はどうでもよかった

「ヨシュア……教えて、ナタンは……ナタンはどこなの!?」

ミリアムは叫んだ。

「あの子は……あの子は、もし本当に願いの叶う木の実を見つけたのだとしたら、一体何を願うつもりだったの?」

ヨシュアは、まるで不可解な数式を見るような、冷ややかな瞳をミリアムに向けた。

「何故、それを僕に聞くんだい?」

彼は、静かにオリーブの樹の根元を指差した。

「そんなことは、本人に聞けばいい」

「……えっ」

ミリアムは息を呑み、弾かれたように後ろを振り向いた。

巨大なオリーブの古木が落とす、底知れぬ影。その闇を割るようにして、一人の少年がふらりと姿を現した。

月光に曝されたその相貌は、まるで血の通わぬ死者のように青白く、生気を失い果てている。だが、その瞳だけは濁りなく、暗闇の中でぞっとするほど澄み渡っていた。

ーーそれは、彼女が狂おしいほどに探し求めていた最愛の弟、ナタンであった。


表紙イラストをpixivに掲載しています。


朗読版はyoutubeにあります。

https://www.youtube.com/playlist?list=PL8BNa9czmG5HRY9yC-7O8NnwODXAXGjZe

【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。

※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。

※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。

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