第1部4 タルタロスの林檎⑤
サウルがミリアムを「同族」と認め、法への狂熱を共有しようとしたその刹那、沈黙を保っていた護衛の一人が、茂みの奥から一人の少年を引きずり出す。それは、空腹からか、あるいは好奇心からか、この物々しい一団の跡をこっそりとつけていた、街の浮浪児だった。
少年の震える手の中には、先ほどサウルが切り株に置いたままにしていた、あの「偽物の金の鍵」が握られている。
「サウル様、この小鼠が貴方様の置かれた品を盗み出そうとしておりました」
ミリアムは息を呑む。それは、ほんのいたずらか、あるいはあまりの煌びやかさに魔が差しただけの、幼い子供の浅はかな行動に過ぎない。しかし、サウルの瞳から先ほどの歓喜が消え、代わりに絶対零度の「法」が宿るのを彼女は見逃さなかった。
「……ミリアム、見ていなさい。これが『法』を乱す不純物に対する、正しい処置だ」
サウルは少年の前に立つと、慈悲の欠片もない冷徹な声で宣告する。
「神の掟において、盗みは魂の腐敗を意味する。この鍵がたとえ偽物であろうと、それを盗もうとした意志は本物の『悪』だ。法は、その対象が大人であろうと子供であろうと、例外を認めない。例外を認めれば、それはもはや法ではなくなるからだ」
「お待ちください、サウル様!」
ミリアムが思わず声を上げた。
「その子はまだ幼いのです。ただの無知ゆえの過ちではありませんか。鍵も戻りましたし、厳重な注意だけで……」
サウルはゆっくりと首を振った。その瞳には、ミリアムを教え諭すような、狂気的な「正しさ」が湛えられている。
「ミリアム、君はまだ甘い。鑑定士としての目は持っているが、法の番人としての覚悟が足りないようだ。……いいかね、腐ったリンゴを一つ残せば、樽の中のすべてが腐る。この小さな綻びを許せば、エルサレムの秩序は内側から崩壊するのだ」
サウルは護衛の腰から、短く重い刑具を取り出す。
「右手の指をすべて砕け。二度と他人の物に触れぬよう、神の愛をもって刻み込むのだ」
(違う……)
ミリアムは激しい吐き気と戦いながら、確信した。
サウルの振り上げた刑具が少年の指を砕こうとしたその刹那、ミリアムの身体は理性を超えて動いていた。彼女は泥にまみれたその小さな身体を奪い取るように抱きしめ、自らの背中でサウルの威圧から遮った。
その子は、サロメとさほど変わらぬ年頃だった。震える小さな肩がミリアムの胸に押し付けられ、彼女の心臓を激しく叩く。
「違うわ……! このような、世界に見捨てられた幼い子……その子すら救えないのなら、一体何のための法なの?」
ミリアムは顔を上げ、サウルの冷徹な瞳を真っ向から見据えた。その瞳には、もはや鑑定士としての冷徹な観察眼ではなく、一人の女性としての、そして姉としての激しい義憤が燃え上がっていた。
「そんなもの、本当の神様の愛なんかじゃない! 神様の本当の愛はもっと、もっと世界に満ちているはずのものだわ。凍りついた文字の中にではなく、この子の震えを止める温もりの中にこそあるはずよ!」
ガタガタと震える子供の泥だらけの頭を、ミリアムは壊れ物を扱うように優しく撫でる。その瞬間、サウルの顔から先ほどの狂喜が潮が引くように消え、みるみると深い、救いようのない失望の色が浮かんでいった。
「……何故だ、ミリアム。それほど正しく世界を見ることのできる目を持ちながら、何故こんな簡単なことが分からないのだ」
サウルの声は、愛する者に裏切られた悲劇の主人公のように震えていた。
「あなたの行為は、神を裏切る万死に値するものだ。……しかし、ここであなたを殺すには、あまりにも惜しい。私があなたを正しい道に導いてあげよう。最初は私を激しく憎むかもしれない。けれど、すぐに分かるよ。あなたは涙を流し、私に感謝をすることだろう。私自らが、本物の神の愛を注いであげよう」
サウルがゆっくりと、救済という名の捕縛のために手を伸ばす。
その背後で、アンドレが影のように身を翻した。
「残念ですが、もうここまでですね……」
彼はミリアムを見捨て、この混乱に乗じて闇へ消える算段を整えていた。
*
しかし、その時だった。
夜の静寂を切り裂く、低く、威厳に満ちた声が響き渡った。
「――何をしているのだ、サウル?」
その声が届いた瞬間、サウルは雷に打たれたように硬直した。そして、あんなに傲慢だった法の番人が、まるで主人の前に這いつくばる犬のように、その場に深くひれ伏したのだ。
暗闇から現れたのは、数人の護衛に守られ、深くフードを被った老人。そして、その隣には、豪奢な法衣を纏いながらも、その瞳に複雑な苦悩の色を湛えた人物が立っていた。
「……ガ、ガマリエル師! それに、ニコデモ様も……!」
サウルの声は震えていた。
エルサレムで最も高潔な賢者として知られるガマリエル。そして、最高法院の権威であるニコデモ。
「サウルよ、我らのいない間に何があったのか。答えよ」
老いた司祭、ガマリエルの声は、決して張り上げられたものではなかったが、夜の森の空気を一瞬で凍りつかせるほどの威厳に満ちていた。サウルは地面に額を擦りつけるようにして、震える声で答えた。
「はっ……! 先ほど、この浮浪児が我らの神聖なる金の鍵を盗み出そうとしたのです。これは神への反逆であり、法に照らして裁かれるべき明白な罪。だというのに、このミリアムという娘がその罪人を抱きかかえ、庇い立てをしたのです。私は……私は、彼女に罪の深さを教え、正しい道へと導こうとしたのです」
「罪を庇う者は、神の愛を疑うもの、神の慈悲たる死を与えるべき。……それがお前の揺るぎない考えであったな、サウル?」
ガマリエルの静かな問いに、サウルは深く頷く。「左様です。法は平等であり、例外は許されません」
「だというのに、お前は何故それをなさなかった?」
その言葉に、サウルは弾かれたように顔を上げた。戸惑いと混乱がその鋭い瞳に走る。
「……師よ、私は……」
「違うのだ、サウル。私はお前を叱っているのではない。むしろその逆だ。嬉しいのだよ」
ガマリエルはフードの奥で、慈父のような、けれど底の知れない微笑を浮かべた。
「お前が神を、そして法を愛する心が真実であることは、この私が一番よく分かっている。しかし、お前のやり方はあまりに苛烈に過ぎた。救おうとする者の魂まで壊してしまうお前の危うさを、私は幾度となく忠告してきたはずだ。だがお前は、私の言葉にさえ耳を貸そうとはしなかった。……それほどの男が、何故だ?」
ガマリエルはそこで一度言葉を切り、サウルの瞳の奥にある、決して拭えぬ「揺らぎ」を射抜くように続けた。
「何故お前は、お前自身が信奉するはずの『絶対の法』に身を委ねず、あえて法を侵したこの娘に、これほどまでの執着を――『特別な愛』という名の独善を注ごうとしたのだ、サウル」
その声は低く、地を這うような響きを持ってサウルの鼓膜を震わせた。
「罪人を即座に断罪の火に焼かず、自らの手で導こうなどという甘さを、お前はいったいいつ覚えたというのか。峻烈なる法こそがお前の魂であったはずだ。……その整合性が崩れた理由を、私はひどく知りたいのだよ」
ガマリエルはそこで言葉を切り、弟子の青白い横顔を射抜くように見つめた。
「まさか、お前ほどの理知を備えた者が、この娘の儚き美しさに目が眩み、惑わされたわけでもあるまいな?」
それはあまりにも世俗的で、それでいてサウルの潔癖な自尊心を鋭く、深く切り裂く毒矢であった。
「……滅相もございません! 断じて、そのような卑俗なる情愛ではございません!」
サウルは激昂を押し殺した、しかし裂帛の響きを伴う声で顔を上げ、師の問いを真っ向から否定した。その表情は、至聖所を汚された信徒のような屈辱と、己の正義を疑われたことへの悲痛な怒りに染まっていた。
「目……目でございます、師よ! この娘の目は、私と等しく、世界の真実をありのままに見通せるのです。まやかしを剥ぎ取り、物質の真贋を冷徹に射抜くその才……。私はその目をおしめばこそ、彼女を神の秩序の側へと引き入れようとしたのです!」
サウルは必死だった。自分の行動は私欲ではなく、あくまで「法」と「真理」への献身に基づいたものだと証明したかった。だが、ガマリエルは、その必死ささえも慈しむような、残酷なまでの静寂で返した。
「……だからこそ、己の中の法を曲げたのだね、サウル?」
その一言が、サウルの喉を、そして思考を完全に凍りつかせた。
「良いのだ。迷うが良い。それがお前たち若者の特権だ」
ガマリエルの声は、慈愛に満ちた祖父のようでありながら、その実、逃げ場をすべて塞ぐ監獄の壁のように冷徹だった。彼は、打ちのめされ項垂れるサウルの肩に、細く、けれど重い手を置く。
「しかしサウルよ、これはお前が始めた物語だ。お前が幕を閉じなさい」
サウルは、師の言葉を一滴も漏らさぬよう、縋るような思いで聞き入る。ガマリエルは、古のオリーブの樹を指さす。
「あそこに『タルタロスの林檎』がある。サウル、その真実をあの娘に見せてやりなさい。……お前が、そして彼女が持つその『目』が、どれほど神の愛と世界の秩序のために選ばれたものか、その身を以て分からせるのだ。それが今、お前に課せられた『浄化』の始まりなのだから」
サウルの瞳に、再び鋭い光が灯る。それは先ほどの熱狂的な狂気とは異なり、師から与えられた「聖務」を遂行せんとする、静かで、より研ぎ澄まされた殺気にも似た決意だった。
「……御心のままに、ガマリエル様。来なさい、ミリアム」
* * *
ガマリエルの声は、まるで運命の舵を握っているかのような絶対的な自信に満ちている。しかし、その傍らに立つニコデモは、先ほどから一言も発せず。その青白い顔には、不安そうな表情が浮かび、この事態を見守っていた
オリーブの古木の幹に、血管のように太い蔓が絡まりつき、その先に琥珀色の「タルタロスの林檎」が垂れ下がっていいる。月光を吸い込み、内側から脈打つように発光するその果実は、この世の調和を乱す不協和音そのものだった。
サウルは、その実をしばらくの間、無言で凝視していた。鑑定士のように細部を観察しているのか、あるいは、自らの中にある「法」と照らし合わせているのか。
やがて、サウルは小さく、けれど確信に満ちた声で呟く。
「……そうか。そういう事か」
次の瞬間、周囲の誰もが予想だにしなかった行動に出た。
サウルは、その禍々しい実を荒っぽくもぎ取ると、あろうことか、躊躇なくその果肉へと勢いよく食らいついた。
「――っ!?」
静寂が、凍りついたような悲鳴に変わる。
今まで石のように沈黙を保っていたニコデモが、裏返った声を上げて叫んだ。
「一体何をしているのですか、サウル! 止しなさい!」
ニコデモが駆け寄ろうとするが、ガマリエルの杖がそれを静かに遮る。
サウルの口元からは、どろりとした、黄金色の果汁が溢れ出している。それは蜜のようでもあり、あるいは凝固しかけた古い血のようでもあった。
サウルは、実を噛み砕く音を周囲に響かせながら、虚空を見つめている。
ミリアムは、その光景に激しい眩暈を覚えた。鑑定士として「観察」すべき対象を、サウルは自らの肉体という檻の中に取り込んでしまったのだ。
「……ああ……」
サウルの口から、獣のような、あるいは法悦に浸る聖者のような溜息が漏れる。彼の瞳の色が、急速に変化して行く。サウルは、果汁で汚れた口元を法衣の袖で拭うこともせず、奇妙に震える声で笑う。
「ニコデモ様、大丈夫です。……ご覧ください、私のこの瞳を」
サウルの声は、陶酔しきった甘さと、氷のような理性が同居する、極めて歪な響きを持っている。白目は充血し、瞳孔は見たこともないほどに散大し、そこに映る月光が琥珀色に歪んでいる。
「私の中に今、何が満ちているかお分かりかな……。凄まじい高揚、底知れぬ満足、そして、全宇宙をこの掌中に収めたかのような万能感だ。あらゆる願いが叶うという忌まわしき噂――その正体は、この一時的な『全能という錯覚』に過ぎない」
男の独白を突きつけられ、深い沈黙が降りた。やがて、絞り出すような戦慄の声がその静寂を破る。
「……なんと恐ろしい。これほど容易く、人の魂を偽りの神へと仕立て上げる果実が世に出回るなど、考えただけで背筋が凍ります。ガマリエル様、これは、聖なる奇跡などではない。……ただの『麻薬』です」
表紙イラストをpixivに掲載しています。
朗読版はyoutubeにあります。
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【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。
※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。
※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。




