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第1部4 タルタロスの林檎④

(ヨシュアが……獄の中に?)

ミリアムの視界が、一瞬、激しい眩暈に襲われた。あの、世界の理を指先で弄ぶかのような余裕を湛えていた少年。人知を超えた奇跡を平然と演じてみせた彼が、人間の造った冷たい牢獄に繋がれているなどということが、果たしてあり得るのだろうか。

サウルの瞳には、揺るぎない確信が宿っている。彼にとって「法」とは、いかなる超常の力をも封じ込める、神から与えられた無敵の檻なのだ。

あまりにも現実離れした言葉に、ミリアムの思考は激しく千々に乱れた。あの底知れぬ魔性が、人間の造った石壁と鉄格子の前に屈するなど、どうしても信じられなかった。

しかし、立ち止まる猶予などサウルは与えない。彼は冷徹な審判者の眼差しを二人へ向け、問うた。

「あなたの名は、何と言う?」

「アンドレにございます」

傍らで、アンドレが這いつくばるような卑屈さと、獲物を狙う猛禽の鋭さを同時に孕んだ声で答える。

「……そして、こちらの娘はミリアムと申します」

「そうか。アンドレにミリアム。あなたたちは私のために、いや、神の崇高なる愛のために、どのような役に立てると言うのだ? この地を覆う魔術の霧を晴らすために、何を差し出す?」

サウルの問いは、答えを誤ればその場で断罪される、鋭利な刃のようだった。その緊張を切り裂くように、アンドレが口角を歪ませて告げる。

「この娘の『目』にございます、サウル様。このミリアムは、類い稀なる鑑定士の目を持っております。……それは、今まで数多くの『奇跡』という名のまやかしを暴いてきた、あなた様と同じ目にございます。その目は、必ずや神の御心のお役に立ちましょう」

ミリアムは息を呑んだ。

「私と同じ目だと?」

サウルが、意外な響きにわずかに眉を動かした。直後、彼の唇に浮かんだのは、冷たくも確信に満ちた、凍てつくような「笑み」だった。

「何と心強いことか。法の真理を理解するには、現象の真贋を見極める冷徹な目が必要だ。まやかしの奇跡に惑わされる者どもとは違う、光を見分ける選ばれた目……」

サウルの瞳が、月光を反射して青白く燃える。彼は一歩、ミリアムとの距離を詰め、その鋭利な視線で彼女の魂を剥き出しにしようとした。

「いいだろう。疑うわけではない。だが、見せてくれ、証明して見せるのだ。君のその目の力を。……ミリアム、君が本当に『法』の味方であるという証拠を」

サウルは、護衛が掲げる松明を一つ、自らの手で受け取った。赤黒い炎が、彼とミリアムの顔を交互に照らし出す。

サウルの背中を追う護衛兵たちの鎧が、歩みに合わせてカチャカチャと不気味な乾いた音を立てる。松明の赤黒い光が、行く手を阻むオリーブの捻じれた枝を、まるで苦悶する亡者の腕のように浮かび上がらせていた。

ミリアムは周囲の鋭い視線を警戒しながら、隣を歩くアンドレに声を潜めて詰め寄った。その声は怒りと混乱で、砂を噛むように掠れていた。

「アンドレ……あなた、一体どういうつもり? それに、あのヨシュアが捕まったなんて、そんなことが本当にあり得るの? マカイロスの一件を忘れたわけじゃないでしょう。あなたにとって彼は、煮え湯を飲まされた仇敵のはずよ」

アンドレは前を向いたまま、表情ひとつ変えずに応えた。その双眸は、闇の中でも獲物を捉える猛禽のように冷たく光っている。

「私の個人的な感情など、砂漠の砂一粒ほどの価値もありません。ヨカナン様が望まれた――それ以上の理由など、この世に必要ないのです」

アンドレの言葉は、盲目的な狂信に近い響きを持って、ミリアムの鼓動を早めさせた。

「……近頃、教会の動きに奇妙な歪みが生じていました。最高法院の司祭ニコデモが、ヨカナン様に面会を申し込んだのです。ヨシュア様はそれを『魂を削る毒の誘い』だと断じ、激しく反対されました。しかし、その警告がヨカナン様に届くことはありませんでした」

アンドレの口調が、一段と低く、重くなる。

「サウルの師、ガマリエル自らが動いたのです。ヨシュア様を『タルタロスの林檎の噂を流布し、民衆の理性を狂わせた罪人』として告発し、捕らえた。あの方がどのような策略に嵌まったのか……それはわかりません。しかし、たしかにヨシュア様は我々の前から姿を消した」

「そんな……。あなた達の先生は、そのことを知っているの?」

「ニコデモとの謁見を終えられた後、ヨカナン様は貴方が不在であるとの報を聞き、たいそう嘆かれました。そして、ユダ様を通じ、私に密命を下されたのです……。迷えるヨシュア様を、泥濘ぬかるみの底からお救いせよ、と」

アンドレは一度言葉を切り、自嘲気味に鼻で笑った。

「たしかに前回、私は貴方にいいように弄ばれ、無残な敗北を喫しました。しかし、それが何だというのでしょう。預言者ヨカナン様のお言葉の前では、過去の因縁など塵に等しい。……それに」

アンドレの口角が、月光の下でわずかに、そして不気味に吊り上がった。

「実のところ、私自身もあの方には興味があるのです。法という檻に閉じ込められた金の鳥が、いかにしてその翼を再び羽ばたかせるのか。あるいは、檻の中で美しく朽ち果てるのかをね」

その言葉の裏にある、歪んだ執着。ミリアムはアンドレという男の底知れぬ深淵を垣間見て、背筋に戦慄が走った。

「あなたの方はどうなのです?……まあ、良い。答えずとも分かりますよ。どうせ『タルタロスの林檎』という究極の真贋、その甘美な誘惑に、あなたの呪われた鑑定士の血が引き寄せられた――おおかた、そんな所なのでしょう?」

アンドレの言葉は、まるで鋭利なメスでミリアムの胸を切り開くかのように無遠慮だった。

ミリアムは唇を噛み締めた。否定したかったが、自分の内側で疼く、あの「暴きたい」という渇望を完全には否定しきれなかった。言葉は続く。

「問題なのは、あなたがあのサウルに目をつけられたということです。彼は法の化身だ。一度ターゲットに定めれば、その魂が白か黒か判明するまで、骨の髄まで暴き立てる。あなたは今、断罪の崖っぷちに立っているのですよ」

サウルの背中が数歩先にある。護衛の兵が放つ冷たい殺気が、夜気と共にミリアムの肌を刺す。アンドレは、まるで獲物を共有しようと持ちかける獣のように、彼女の耳元に言葉を滑り込ませた。

その瞳に、月光が冷たく宿る。

「ここは協力しようじゃありませんか。お互いの利益のためにね」

* * *

「止まれ」

サウルの鋭い声が、二人の密談を断ち切った。そこには1つの切り株があった。

サウルは、腰に下げた革袋から、手のひらほどの大きさがある三つの青銅製の鍵を取り出し、オリーブの切り株の上に無造作に放り出す。

一本は、緑青ろくしょうに覆われ、今にも朽ち果てて崩れそうな「銅の鍵」。

一本は、細緻な細工が施され、月光を傲慢に跳ね返す「金の鍵」。

そしてもう一本は、過度な装飾もなく、静かに佇む何の変哲もない「銀の鍵」だった。

「この中に、エルサレムの厳格な門を守り、数多の歴史を潜り抜けてきた『真実の鍵』がある。ミリアム、それがどれなのか、君にはわかるだろうか?」

サウルの問いかけに、護衛たちの松明が揺れる。沈黙が場を支配する中、アンドレが影のようにミリアムの耳元へ口を寄せ、毒を含んだ声で囁いた。

「……あからさまですね。俗物なら、彼らの権威を象徴するようなあの豪華な金の鍵を選びたくなる。だが、歴史の重みを尊ぶ賢者を装うなら、この朽ちかけた銅の鍵こそが本物、と言いたいところだ。違いますか?」

アンドレの推測は、一般的で論理的な「鑑定」の筋道だった。しかし、ミリアムの瞳は、それらの誘惑や憶測を冷徹に通り過ぎ、ただ一つの物質的真理を射抜いていた。

彼女は、アンドレの囁きを拒絶するように小さく首を振ると、迷いのない足取りで切り株へ進み出た。

「サウル様。……真実の鍵は、この『銀の鍵』です」

周囲に動揺が走る。アンドレの瞳に微かな驚愕が走り、サウルは眉一つ動かさず、ただその冷徹な視線に鋭さを増させた。

「ほう。……それは何故かな? 権威ある金でもなく、歴史を感じさせる銅でもない。ただの銀の鍵が『真実』だと言う根拠を、聞かせてもらおう」

ミリアムは銀の鍵を手に取り、その冷たい感触を指先で確かめながら、静かに、けれど淀みない声で鑑定を始めた。

「まず、その『銅の鍵』ですが、これは鑑定するまでもありません。表面の緑青は不自然に均一で、奥まった箇所に人工的な腐食液の跡が残っています。古く見せかけるために、短期間で酸に晒された『作られた古色』です。歴史を語るには、あまりに底が浅い、おそらく近年の詐欺師が酸で錆びつかせ、古色を装ったそんなところでしょう」

彼女の指先が、次に『金の鍵』を指す。

「そして、この『金の鍵』。これはエルサレムの門を一度も守ったことはないでしょう。金は展性に富み、柔らかすぎる金属です。実際に巨大な門のかんぬきを回せば、一度の使用でその歯は歪み、使い物にならなくなる。これは権力者が自らの富を誇示するために造らせた、実用の伴わない『飾り』に過ぎません。それをある男が『神の啓示により、空から降ってきた』と主張し、熱狂的な信者たちが宝物として拝んでいた、そんな『迷信の遺物』をあなたがたが押収したのではありませんか?」

ミリアムは、最後に手に持った銀の鍵をサウルへと差し出した。

「対して、この銀の鍵。一見して地味ですが、歯の先端には、長年の摩擦によって生じる特有の『鈍い光沢』があります。銀に適切な割合で銅を混ぜた合金は、硬度とねばり強さを兼ね備え、実用に最も適している。そして何より――」

ミリアムは鍵の首元にある、肉眼では辛うじて見えるほどの微細な刻印を指し示した。

「ここにある摩耗の跡は、エルサレムの城門特有の『二段式の軸受け』に差し込まれた際に付く、特有の傷です。偽物にはこの傷がない。飾り物にはこの『戦い』の跡がない。法を守り、歴史を支えてきたのは、いつだって華美な幻想ではなく、こうした冷徹な『実益』なのです。……違いますか、サウル様」

沈黙が流れた。

サウルはミリアムを見つめたまま、一歩、彼女との距離を詰めた。その瞳に宿っているのは、もはや疑惑ではない。自分と同じ「本質」を見抜く者を見つけた、猟犬のような、あるいは同志を見つけたような、狂気的なまでの悦びであった。

「……完璧だ、ミリアム。君は今、感情ではなく、物質が語る『法』の声を正しく聴き取った」

サウルは、まるで魂の奥底に眠っていた火種を吹き込まれたかのように、陶酔に満ちた声を上げた。

「素晴らしい、素晴らしいよミリアム! 私はあなたのような方を、どれほど待ちわびていたことか!」

彼は一歩、また一歩とミリアムに歩み寄り、その肩を抱かんばかりの勢いで身を乗り出した。その瞳に宿る光は、もはや敬虔な司祭のそれではなく、自らの孤独な正義が肯定されたことへの狂熱に染まっている。

「私と等しく、正しい世界を認識できる目の持ち主……。ああ、そうだ、我々は同類だ。人々が奇跡や物語という名の甘い泥に塗れている中で、我々だけが『物質』と『法』という冷徹な骨組みを見抜くことができる。私はあなたを心から歓迎しよう。さあ、共にこの不浄な闇を払い、神の真実なる愛を証明しようではないか!」

サウルと、自分が同じ――?

ミリアムは、自分を「同族」と呼ぶ彼の熱烈な眼差しを受け、胸の奥が激しく脈打つのを感じた。

たしかに、否定はできなかった。

サウルの「奇跡や情緒に惑わされず、世界をありのままに認識しようとする姿勢」。それは鑑定士として生きてきたミリアムにとって、最も馴染み深く、そして何よりも信頼をおいてきた価値観そのものだった。

人々が「神の導き」と呼ぶものを「物理的現象」として解体し、真贋を見極める瞬間の、あの氷のように冴えわたる全能感。それをサウルもまた、共有しているのだという確信。

暗闇の中で、同じ言葉ロゴスを操る者を見つけたという禁断の喜びが、彼女の毒のように甘く全身を駆け巡った。

しかし。

サウルの歓喜に満ちた声が鼓膜を震わせるたびに、ミリアムの心臓は、それとは正反対の拒絶反応を示していた。

(……何かが違う。私とこの男は、決定的に、根本的なところが違う)

ミリアムは、サウルに差し出された手のひらを見つめ、そこに自分の手を重ねることを躊躇した。


表紙イラストをpixivに掲載しています。


朗読版はyoutubeにあります。

https://www.youtube.com/playlist?list=PL8BNa9czmG5HRY9yC-7O8NnwODXAXGjZe

【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。

※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。

※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。

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