第1部4 タルタロスの林檎③
最高法院、それはユダヤ教の律法を司る最高機関。神の法を汚す「異端」を裁くためなら、死罪さえも辞さぬ厳格な宗教権力の行使であった。
その先頭に立つのは、パリサイ派の若き精鋭、サウル。
彼は、民衆を惑わす「奇跡」や「予言」をすべて、唯一神への信仰を揺るがす忌まわしき魔術として断罪し、最高法院の権威を盾に徹底的な弾圧を行ってきた男だ。彼らにとって、ヨカナンやヨシュアの説く「救い」は、教会の秩序を根底から破壊する毒に他ならなかった。
その背後には、思慮深い知恵者として知られる師のガマリエル、そして最高法院の議員ニコデモの姿もあるという。
あの冷徹な司祭たちは、街で囁かれる噂を、治安を乱す許し難い罰としてことごとく捌下そう。ましてや実に触れた者は、どのような目に遭わされるか。
強い興味を抱きながらも、手を出すことは愚か者か、あるいは余程強い願いを持つものだけ。それが多くの者の見解だった。
*
ミリアムは自らの想像に、吐き気を催すほどの恐怖を抱いていた。
あの日、小さな花を指さし「幸せを数えて」と諭した時、ナタンの瞳に宿っていた燃えるような憎しみは確かに消えたはずだった。それからの歳月、彼はただ穏やかで、献身的に姉を慕う少年として成長した。自分のために命を捨てるとまで言い切る、あの優しいナタンの中に、あんな恐ろしい火がまだ残っているなどとは到底思えない。
けれど、もし。
その胸の奥底で眠っていた熾火に、誰かが再び息を吹きかけたのだとしたら?
ミリアムの背筋を、氷の刃で撫でられたような寒気が走り抜けた。
(ヨシュア……)
ミリアムが契約を破棄し、目の前から消えたあの金色の少年。しかし、もしあの夜、少年がナタンに何かを囁いていたのだとしたら。あの抗いがたい「美しい毒」を、今度はナタンの魂に投げかけているのだとしたら。
目眩がした。
だが、その目眩を突き抜けてきたのは、純粋な恐怖だけではなかった。心の深淵で、自身でも制御不能なほどの激しい「ときめき」が跳ねている。
(……私は、またあの少年に出会えることを、期待しているの?)
すべてを狂わせる「奇跡」を、鑑定士としてもう一度この目で見極めたい。彼の投げかける謎を、真贋の境界すら踏み越えて解き明かしたい。それは、人としての情愛を泥靴で踏みにじるような、鑑定士としての業深く、底知れぬ性だった。
その黒い歓喜を自覚した瞬間、脳裏に一つの姿が鮮烈に浮かび上がった。
あの没薬の香りを漂わせ、御簾の底のような闇を瞳に宿した男。忘却の丘で対峙した、ユダの姿。
(これは……あの人の血だというの?)
認めたくない。ヨカナンへの信仰を狂気へと変質させたあの男と、同じ拍動が私の内側で鳴り響いているなどと。けれど、この身を焼くような渇望は、間違いなくあの男から受け継いだものだ。真実を暴くためなら、愛する者さえ天秤にかけて計量する、冷徹なまでの「鑑定の血」。
* * *
ナタンは、その夜の静寂を縫うようにして、音もなく家を抜け出した。ミリアムは微かな気配にゆっくりと瞼を持ち上げると、吸い寄せられるようにその後を追った。
頭上を覆う巨大なレバノン杉の枝葉が、冷徹な月光を無慈悲に遮っている。
夜の森は、まるで巨大な獣の胎内に呑み込まれたかのように暗く、澱んでいた。踏みしめる腐葉土からは、湿った土の匂いと、死の予兆を孕んだ没薬に似た芳香が立ち昇る。時折、遠くで響くフクロウの鳴き声が、凍てついた空気を切り裂く鋭利なナイフのように鼓膜を震わせた。
ミリアムの視界を辛うじて繋ぎ止めているのは、幾重にも絡み合う黒い影と、その奥へと吸い込まれていくナタンの小さな背中だけだ。
彼女は荒い呼吸を押し殺し、闇の深淵へと消えていくナタンを追い続けた。心の中で、己の行動を正当化するための言い訳を、幾度も、幾度も、呪文のように繰り返す。
(違う……。こうして跡をつけているのは、あの子を信じているからよ。すべてが私の取り越し苦労で、ただの勘違いだったと、後で二人で笑い飛ばすために……。そう、守るために行かなければならないの)
そうだ。決して、真実を剥き出しにすることそのものに「快楽」を覚える、あの忌まわしい鑑定士の血が私を突き動かしているわけではない。
そう必死に言い聞かせなければ、自分の顔がいま、歓喜に歪んでいるのではないかという疑念で、足が止まってしまいそうだった。
(……でも、もし、もしそうだとしたら? 私が求めているのが、愛する弟の無実ではなく、残酷なまでの『真実』そのものだったとしたら?)
この「見極めたい」という抗いがたい選択が、結果としてナタンを失うことに繋がってしまったら。
その瞬間、ミリアムの脳裏に、かつて見た不吉な夢がよぎった。熟れすぎた果実が地面に叩きつけられ、その薄い皮が弾け、甘い果汁が泥にまみれて散り散りに砕け散る光景。
(その時、私の心も同じように粉々に砕け去るだろう)
そして、落ちていくのだ。族長エギンが忌々しげに語っていた、あの「裏切り者」が辿り着く場所。底のない、救いもない、冷え切ったイスカリオテの深淵へと。
*
ミリアムの足は、吸い寄せられるように街の北東へと向かっていた。
夜の帳が降りたエルサレムは、昼間の喧騒が嘘のように冷え切った沈黙に支配されている。月明かりに照らされた石畳は、まるで死者の骨のように白く乾き、遠くで吠える野犬の声が、不吉な弔鐘のように響いていた。
ナタンの足取りは、間違いなくあの場所――「古のオリーブの樹」へと向かっている。
ミリアムの脳裏には、先ほど見た弟の、空洞のように空いた瞳が焼き付いて離れない。
(あなたはその実を手に入れ、何を願うつもりなの? )
祈るような思いで、彼女は夜の闇を裂いて走る。胸の鼓動は早鐘のように打ち鳴らされ、肺が焼けるような痛みを訴えるが、足は止まらない。
やがて、銀色の葉を微かに震わせる巨大なオリーブの古木が見えてきた。樹齢数百年を数えるその樹は、まるで大地から這い出した巨人の腕のように、歪な枝を夜空に伸ばしている。
「ナタン!」
叫びたい衝動を喉の奥で押し殺し、ミリアムは木陰に滑り込んだ。しかし、その刹那。
いたはずのナタンの気配が、霧が霧散するように掻き消えた。
「……嘘でしょう、どこへ行ったの?」
慌てて周囲を見渡し、荒い呼吸を整えながら辺りをうろつく。岩の影、オリーブの根元、どこにも彼の姿はない。ただ、湿った土の匂いと、熟れすぎた果実が腐り落ちたような、微かな、けれど逃げ場のない甘い香気だけが漂っていた。
*
「そこの娘。あなたはこのような場所で、一体何をしているのです?」
低く、けれど雷鳴のように重厚な声が、背後から突き刺さった。
ミリアムの身体が、凍りついたように硬直する。ゆっくりと振り向いた彼女の目に飛び込んできたのは、月の銀光を背負って立つ、一人の青年の姿だった。
純白の法衣に身を包んだその青年は、彫刻のように整った顔立ちをしていた。だが、その双眸――射抜くような鋭い瞳には、神への信仰に対し一切の妥協を許さない、烈火のごとき強い光が宿っている。彼の周囲には、抜き身の権威を象徴するかのような、物々しい甲冑を纏った護衛たちの姿があった。
「怯えなくても良い。私は最高法院の司祭、サウルだ」
その名を聞いた瞬間、ミリアムの心臓は一拍、大きく跳ねた。
その名を知らぬ者はいない。徹底的な現実主義を貫き、民衆を惑わす「奇跡」や「予言」を忌まわしき魔術として断罪する男。法の遵守こそが至高の神の愛であると説き、秩序を乱す者を容赦なく裁きの壇上へと引きずり出す、恐るべき「法の番人」。
「法を犯さぬ限り、我々はあなたたちの守護者だ。……だが、そうでない者は別だがね」
サウルの言葉には、慈悲の裏側に隠された研ぎ澄まされた刃のような鋭利さがあった。ミリアムの項を、冷たい汗が伝い落ちる。
(これがあのサウル……。なんて恐ろしい目。この男に、ナタンを見つけさせてはいけない。もしナタンが『実』を手にしているところをこの男に見つかれば、慈悲など微塵も期待できないわ)
何とか言いくるめて、この場をやり過ごさなければならない。あるいは、この男の注意を自分に引きつけ、ナタンを逃がす隙を作る。けれど、サウルの眼光は、嘘や虚飾をすべて剥ぎ取ってしまう鑑定士のそれにも似て、あまりに冷徹だった。
サウルが一歩、歩みを進める。彼の踏みしめる土の音が、処刑台へ続く足音のように聞こえた。
「さあ、答えるのだ、娘。ここは全ての望みを叶えると噂される『タルタロスの林檎』があるという不浄な地だ。神の愛を疑い、まやかしの救いに縋ろうとする愚か者たちが集う場所。私は、なぜそのような忌まわしき噂が流れたのか、その源流を調べ、この迷信を根絶するために来たのだ」
サウルがその冷徹な審問でミリアムを追い詰めようとした、まさにその時であった。
「――お待ちください、サウル様。我々は、あなたのその崇高なる信仰に心打たれ、お役に立ちたいと願ってやまない者でございます」
夜の静寂を切り裂く、粘りつくような声。ミリアムが弾かれたように顔を上げると、そこには月光を浴びて不敵に笑う男が立っていた。猛禽類の如き鋭い瞳、獲物を品定めするような冷酷な視線。マカイロスの深淵でその牙を剥いた男。
アンドレであった。
*
(なぜ……なぜ彼がここに? )
混乱に思考が停止しかけるミリアムに、アンドレは親しげな、しかし有無を言わせぬ圧力を持って告げた。
「何をしているのです。さあ、あなたもこの至高のお方にひれ伏しなさい」
促されるまま、ミリアムは逃げるように頭を垂れた。冷たい地面の匂いが鼻を突く。彼女の心臓は、恐怖と混乱で今にも破裂しそうだった。
サウルは、跪く二人の姿を天秤にかけるような沈黙で見下ろしていたが、やがてその厳格な眉間をわずかに緩めた。
「……良い心がけだ。不浄な魔術や迷信が満ち溢れるこの地において、あなたたちのように法を敬う者がいることは、神の秩序においても大変に心強く思う」
サウルの声には、絶対的な正義を疑わぬ者の響きがあった。彼はオリーブの古木を一度見上げ、忌々しげに言葉を続ける。
「特に、あの洗礼者ヨカナンという男……。荒野で怪しげな言葉を吐き、民衆を惑わすあの者は、我ら最高法院の法の元に厳格に裁かれ、根絶されねばならない」
だが、そこでサウルの瞳に、冷徹な法官には似つかわしくない、奇妙なほど歪な「慈悲」の色が浮かんだ。
「ああ、だが、あなたたちは何も心配しなくても良い。最高法院の賢者、ニコデモ様も仰っていたよ。……迷える羊を導くには、ふさわしい『薬』があるのだと」
「薬……?」
ミリアムが思わず漏らした問いに、サウルは聖なる福音を語るかのような悦びに満ちた表情で答えた。
「そうだ。神の愛から背を向けたあの男も、その薬を飲めば、法という真理の前にすぐさまひれ伏すことになるだろう。それは、狂った理性を正し、魂をあるべき場所へと還す聖なる治療なのだ。薬とはすなわちニコデモ様の正しき言語、その前に全てはひれ伏すべきなのだ」
サウルの背後で、松明を持った護衛たちが動く。夜の闇を焼き払うような焔が、古のオリーブの樹を赤黒く染め上げていった。
サウルは、松明の炎に揺れる自らの影を長く引きずりながら、勝利を確信した預言者のように言葉を継いだ。
「そして――ヨシュア、と言ったな。ヨカナンのあの弟子だ」
その名がサウルの唇から零れ落ちた瞬間、ミリアムの鼓動が不規則に跳ねた。夜風に混じる、あの没薬と熟れすぎた果実の香りが一段と濃くなった気がした。
「怪しげな奇跡を弄んで無知な民を惑わし、あろうことか『タルタロスの林檎』などという呪わしい迷信を野火のように振りまいていた、あの不届きな少年。だが、案ずることはない。あの金色の髪をしたまやかしの使い手もまた、我が師ガマリエル様の厳格なる手によって、ついに断罪の時を迎えた」
サウルの声は、冷徹な法典を読み上げるかのように滑らかで、一切の揺らぎがなかった。
「今頃、あの少年は、己の罪を噛みしめているはずだ。法の秩序が支配する静寂の中で、彼もまた、歪んだ奇跡ではなく『本当の神の愛』という名の真理を知る時を待っていることだろう……そう、暗く冷たい獄の底でな」
表紙イラストをpixivに掲載しています。
朗読版はyoutubeにあります。
https://www.youtube.com/playlist?list=PL8BNa9czmG5HRY9yC-7O8NnwODXAXGjZe
【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。
※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。
※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。




