第1部4 タルタロスの林檎②
かつての記憶に刻まれたナタンは、常に砂塵と泥にまみれ、その痩躯は風雨に晒された亡霊のように痛々しかった。
ローマの軍靴に踏みにじられ、親を、家を、そして「明日」という光さえも無慈悲に奪い去られた少年。世界という巨大な装置にすべてを剥ぎ取られた彼は、その幼い胸の内に、いつか世界を丸ごと焼き尽くしてやろうとするどす黒い憎悪の種火を、絶やさぬよう必死に守り続けていた。
もちろん、当時の彼にそれを理知的な言葉として紡ぐ術はなかった。ただ、行き場を失い鬱屈した感情を、他者への暴力や、剃刀のような視線として吐き出すことしかできなかったのだ。己の内で煮え立つ憎悪の奔流に振り回され、彼は常に、周囲を威嚇する手負いの獣のように鋭い殺気を纏っていた。
彼の世界は、彼自身と、ただ一人守るべき命であるサロメだけで完結していた。「自分たち」か「それ以外」か。ナタンにとって、世界はその二つの境界線だけで残酷に、そして明快に断絶されていたのである。
新しく「姉」となったミリアムは、その堅牢な門扉を叩こうと、幾度も手を伸ばした。
手作りの温かな食事を運び、柔らかな寝床を整え、ナタンとサロメの間に流れる排他的な沈黙を、慈しみという言葉で埋めようとした。だが、その努力はすべて、虚しく冷たい石壁に跳ね返された。ナタンにとって、ミリアムが差し出す無償の慈愛は、自分たちの野生を奪い、飼い慣らそうとする甘美な毒薬に等しかったのかもしれない。
ミリアムが彼に触れようとするたび、ナタンは言葉の代わりにその鋭い眼光を突き立てた。その瞳は、声よりも雄弁に、彼女の「平穏」を断罪していた。
(この温かな屋根の下で、屈強な兄に守られ、戦乱の焦土も飢えの泥も知らぬ「姫君」。あなたのような光の中にいる人間に、奈落の底を這う僕たちの、この絶望の純度がわかるはずもない)
ミリアムは、自分に向けられる憎悪の深さに戦慄しながらも、決して眼差しを逸らすことはなかった。しかし、どれほど心を砕き、祈りを捧げようとも、二人の間にはヨルダン川の急流よりも深く、暗い断絶が横たわり続けていた。
だが、そんな凍てついた膠着を内側から爆ぜさせる事件が、ある日、訪れた。
*
その日、キャラバンに持ち込まれたのは、沈む夕陽を閉じ込めたような、禍々しくも美しい琥珀色の果実だった。「一口齧れば、あらゆる理を覆し、宿願を成就させる」とされる禁忌の結実。大人たちはそれを、神聖な聖遺物を扱うような異様な昂ぶりと、獣のような警戒心で守り抜いていた。
彼らはそれを、畏怖を込めて「タルタロスの林檎」と呼んだ。
幼いミリアムは、そんな大人たちの狂奔を、硝子玉のような瞳で冷ややかに眺めていた。
(タルタロスの林檎? 滑稽だわ。一個の果実が運命を書き換えるなどという、安っぽい奇跡があるはずがない。どうしてあんな石塊のような実に、皆あそこまで血眼になれるのかしら)
しかし、平穏は一夜にして瓦解した。
厳重に封じられていたはずの実は忽然と姿を消し、疑惑の切っ先は、真っ先にナタンへと向けられた。前夜、果実を積んだ荷馬車の影を、死神のように彷徨う少年の姿が目撃されていたからだ。
「白状しろ! どこへ隠した!」
大人たちはナタンを泥濘の中に組み伏せ、折れんばかりの力でその細い腕を捻り上げた。
「まさか、もう腹に収めたのではあるまいな!? 答えろ! 吐き出さぬのなら、その腹を裂いてでも取り戻してやる!」
彼らは「奇跡」を信じていたのではない。執着という名の狂気に冒されていたのだ。怒号は尋常を逸し、土気色の顔をした大人たちは、なりふり構わず少年の口をこじ開けようと指を突っ込む。
泥濘に顔を押し付けられたナタンは、悲鳴一つ上げなかった。ただ、射殺さんばかりの鋭い眼光で、自分を蹂躙する世界を呪うように睨み返している。
暴力の鉄槌が、少年の細い項に振り下ろされようとした、その時――。
「待って! ナタンは何も盗んでいないわ!」
裂帛の気合と共に、ミリアムが狂乱の群れを割り入った。
「鑑定士として、進言いたします」
彼女は一歩も退かず、場を凍りつかせるほどの静謐を纏って群衆を見渡した。その頭脳は、工房で至宝の真贋を見極める時と同じ、極低温の集中状態へと移行していた。
「……まず、その少年の指先を検めなさい」
ミリアムの言葉に、一人の男がナタンの手首を荒っぽく掴み上げた。「指がどうしたというのだ!」
「『タルタロスの林檎』は、表面に特有の粘着質な脂質を分泌する。もし彼が素手で触れたのなら、指紋の溝には琥珀色の汚れが沈着し、容易には落ちないはず。けれど、彼の爪の間にあるのは、先ほどまで彼が弄っていた日干し煉瓦の泥だけ。……純潔なる琥珀の光沢など、どこにも存在しないわ」
「な……ならば、布に包んで持ち去ったのかもしれん!」
「いいえ。もしそうなら、彼の纏うボロ雑巾のような布地のどこかに、その脂が染みているはずよ。あの実の香りは強烈だわ。没薬と腐敗した果実が混ざり合ったような、あの独特の香気が服に移っていないのは不自然。そして、何より――」
ミリアムは、大人たちが蹂躙し、無残に荒らされた地面を指差した。
「この泥濘を見て。ナタンが組み伏せられた場所には、実を置いた、あるいは落とした際に生じる『圧痕』が一つとして存在しない。そして、荷馬車の周囲に残された足跡……ナタンの歩幅は車輪の傍らで一度止まり、そのまま工房へと引き返している。実が保管されていた木箱の直下まで、彼の足は届いてさえいないわ」
「では、実はどこへ消えたというのだ! 地面が飲み込んだとでも言うのか!」
ミリアムはゆっくりと視線を上げ、工房の軒先、そしてその遥か先にある、夕闇に黒く沈む枯れたナツメヤシの樹へと向けた。
「犯人は、足跡を残さぬ者。……あそこをご覧なさい」
彼女が指し示した先では、一羽の巨大なカラスが、不自然に身体を硬直させていた。
「カラスだと? 食い散らかした痕跡などなかったぞ!」
「いいえ。あの鳥の嘴を見て。……閉じきっていないでしょう? あの『実』は、鳥の嘴で咥えるにはあまりに重く、滑りやすい。だから奴は、実を喉の奥へ強引に押し込むことで運搬し、今はその重量に翼を奪われ、飛び立てずにいるのよ」
ミリアムの鑑定眼は、カラスの黒い羽毛に付着した、微かな琥珀色の「飛沫」を捉えていた。
「奴が羽ばたこうとする瞬間、重心が右に傾いでいる。嘴の右端で、実を固定しようと抗っている証拠よ。……今よ!」
ミリアムが鋭い投石を見舞った。
驚いたカラスが悲鳴を上げて羽ばたいた瞬間、その嘴から、鈍い琥珀色の光を放つ『タルタロスの林檎』が零れ落ち、柔らかな草地の上を音もなく転がった。
「ああ……! 実だ! 実があったぞ!」
大人たちは、先ほどまで殺そうとしていた少年のことなど、風に舞う塵ほども思い出さぬ様子で、我先にとその禍々しい果実へと群がっていった。
*
取り残されたのは、泥にまみれたナタンと、彼に手を差し伸べるミリアムだけだ。
ナタンは、自分を助けたはずのミリアムの手さえも、不浄なものを見るように拒絶し、ただ肩を震わせていた。その瞳の中の凍土は、まだ厚く、冷たいままだった。
夕暮れの光が草原を黄金色に染め、大人たちの怒号が遠くへ消えていったあと、ミリアムはそっとナタンの隣に腰を下ろした。彼は、組み伏せられていた泥まみれの地面を、呪うように睨みつけていた。その肩は怒りと震えで硬く強張っている。
「ねえ、ナタン。もしよ……」
ミリアムは、嵐が過ぎ去ったあとのような静かな声で問いかけた。
「もし、本当にあの林檎が、どんな願いでもたったひとつだけ叶えてくれるとしたら。あなたは、どんなことを願う?」
その問いに、ナタンは弾かれたように顔を上げた。その瞳には、子供のものとは思えない、すべてを焼き尽くさんとする憎悪の炎が宿っていた。
「……母さんと父さんにもう一度逢いたい。それが出来ないなら、ローマの奴らだ。父さんと母さんを殺した、あの赤マントの奴らを、一人残らず皆殺しにしてほしい。この世から消してやりたいんだ」
地を這うような低い呪詛。ナタンの小さな拳は、血が滲むほど強く握りしめられていた。
ミリアムは何も言わず、足元にそっと咲いている名もなき小さな花を指差した。
「ねえ、ナタン。あの花は美しい?」
「……知るもんか。そんなこと」
ナタンは吐き捨てるように言い、顔を背けた。ミリアムは悲しげに、けれど慈しむような微笑を浮かべた。
「そう。もし今のあなたの目に、あの花が美しく見えないのなら、それはあなたの心が憎しみと悲しみに押しつぶされてしまっているから。心が重すぎて、幸せが目に入らなくなっているのね」
ミリアムはそっとナタンの泥に汚れた手を包み込んだ。ナタンは一瞬、拒絶するように身をよじったが、彼女の手のひらの温もりに、力なくその動きを止めた。
「でもね、幸せが消えてしまったわけじゃないの。本当は、あなたの目の前には小さな幸せがいっぱいあるのよ。ナタン、人が幸福になるためにはね、ただ、その幸せを数える以外に方法はないの」
「幸せを……数える?」
「そう。悲しみを数えないで、幸せを数えて。昨日より少しだけお腹がいっぱいになったこと。今日、鳥のヒナが無事に生まれたこと。あなたの目の前には、本当はたくさんの光があるの」
ミリアムはナタンの目を見つめ、最後の一句を祈祷のように紡いだ。
「そして、私もそのひとつよ。……今は分からなくていい。でも、いつか気づいて。私という小さな光が、いつでもあなたのすぐ傍に寄り添っていることを」
風が吹き抜け、草原の草たちが波のように揺れた。
ナタンは黙ったまま、ミリアムに握られた自分の手を見つめていた。その瞳に宿っていた激しい炎が、夕闇に溶けるように少しずつ、静かな涙へと変わっていくのを、ミリアムはただ隣で見守っていた。
*
その日を境に、世界の色は劇的に変わった。
次の日、ナタンは初めて、消え入るような声で「姉様」と言った。それからひと月が経つ頃には、誇らしげに「僕の姉様」と言った。
季節が巡るたび、その言葉には熱がこもり、「大事な姉様」「大好きな姉様」と、彼はミリアムという光を確かめるように呼び続けた。
ある晴れた午後、庭で洗濯物を干していたミリアムのスカートに、ナタンがふわりと顔を埋めてきた。顔を上げた彼は、まるで世界で一番大切な、とっておきの秘密を打ち明けるような顔をして、はにかみながら言ったのだ。
「僕ね、姉様が……本当に、大好きなんだ。だから僕、大きくなったら、姉様をお嫁さんにしてあげるね」
蜜が蕩け落ちるような、甘やかで幸福な時間。
あの瞬間、ナタンの魂のすべてはミリアムのものだったし、ミリアムのすべてはナタンのためにあった。何一つ疑う必要もなく、ただ目の前の愛おしい体温だけを感じていればよかった。
* * *
もし、願いを叶えてくれる林檎が本当に存在するのなら、自分は鑑定士の誇りも、これまで積み上げたすべてをも投げ打って、あの純粋な幸福の瞬間に帰りたい――そう願ってしまうことさえある。
だが、現実はただ冷たく冷徹な事実を突きつける。そしてそんな時ですら、ミリアムの鑑定士としての性は、その答えを突き止めようとしてしまう。
(何故ナタンは、再び、あの林檎を探しているというの?)
その脳裏には、あの獣の目をした少年の姿が映っていた。
胸の奥の鑑定士の性、そしてナタンの事で周りに目が入っていなかったミリアムだったが、街ではすでに「タルタロスの林檎」の噂が密かに囁かれていた。
街の北東、「古のオリーブの根元」……かつて聖者が休息したと言い伝えられるその場所で、失われたはずの『奇跡の実』が再び姿を現したという話が、野火のように広がっていた。
「一口かじれば、どんな願いも叶う。ローマの支配すら終わらせられるのだ」
そんな熱に浮かされたような人々の興味を駆り立てる噂は、しかし、同時に凍てつくような「法」の影を伴っていた。
その不穏な噂を聞きつけ、聖都エルサレムから最高法院の権威を携えた一団がこの地に足を踏み入れたという。
表紙イラストをpixivに掲載しています。
朗読版はyoutubeにあります。
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【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。
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