第1部4 タルタロスの林檎①
地獄と形容されたマカイロス城塞からの帰還。それからの日々は、嵐が過ぎ去ったあとの凪のように、あまりにも静謐で平和だった。
肌を焦がした戦火の熱も、鼻腔を刺す鉄錆のような血の匂いも、今では遠い異国の、それも数千年も前の神話の出来事のように霞んでいる。
朝は、東のゴランの山々から真珠色の光が溢れ出す頃に目覚め、サロメの絹糸のように柔らかな髪を、慈しみを込めて梳かす。昼は工房の奥まった一角で、オリーブ油のランプが微かな煤を上げる下、幾年も埃を被っていた古い羊皮紙の帳簿にペンを走らせる。
時折、市へ出れば、ローマの軍靴が石畳を威圧的に鳴らし、異国の香料と家畜の匂いが混じり合う喧騒の中、人々が持ち込むガラクタの山に目を光らせる。その濁った石の群れから、時折、天の星を閉じ込めたような真珠や、古の王の遺した蒼い宝石を見出し、その対価を厳格に弾き出す。
そんな、硝子細工のように繊細で、どこまでも平凡な、何の変哲もない日常。
だが、その鏡のように滑らかで平穏な毎日の裏側で、ミリアムの胸中には逃げ場のない嵐が吹き荒れていた。
族長エギンが、去り際に呪詛のように投げつけたあの言葉。不吉な予言として刻まれた「ユダ」という名が、毒を塗った針となって、彼女の魂を昼夜を問わずじりじりと蝕んでいたのだ。
*
「ユダ」――。
それは、幼いミリアムを、そして守るべき家族を砂塵の向こうへと冷酷に捨て去った、父の名。
そして同時に、あの忘却の丘で対峙した、洗礼者ヨカナンの高弟と呼ばれたあの男の名でもあった。
ユダなどという名は、この乾燥した大地に舞う砂粒ほどもありふれた名に過ぎない。けれど、ミリアムの中に住まう「鑑定士としての勘」は、それが単なる偶然であることを許さなかった。
あの忘却の丘で、御簾の底のような救いのない闇を瞳に宿していたあの男。六芒星と槌の紋章を、まるで己の奪われた心臓、あるいは失われた魂の欠片であるかのように追い求めていたあの執念。ヨシュアがもたらした「忘却の聖櫃」の欠片たちがパズルのように組み合わさり、導き出すのは、ひとつの血塗られた結論だった。
(あの男が…… イスカリオテの深淵に落ちたという私の父なの?あの男が)
自身の中に流れる鑑定士の血が、飢えた獣のように喉を鳴らす。その真実を暴け、深淵の底まで引きずり出し、その正体を暴けと、内側から激しく彼女を突き動かす。だが、ミリアムは悲鳴を上げるような思いで、その狂気じみた本能を力ずくで抑え込んだ。
もういい、もう十分だわ。これ以上、暗い歴史の鎖に繋がれる必要なんてない。私はベツアレムの職人として、目の前の仕事を淡々とこなしていくだけでいい。この街の風が止まれば、また次の街へ。砂漠を渡る旅を枕とする、今までと変わらない人生を送るのだ。愛しき家族と共に、この掌にある小さな幸福を、指の間からこぼれ落ちないように守り抜くことだけを考えよう。
契約は、もう終わったのだ。
あの金色の少年が、甘い毒を含んだ言葉で私の胸の古傷を嬲ることは、もう二度とない。かつてミリアムを縛っていたあの契約の鎖は、自らの手で引きちぎられ、今はもう、彼女の平穏な日常を守るための盾に打ち直された。
だが、その平穏をどこか物足りなく、心細く思ってしまう自分に気がつき、ミリアムは激しく自らを律した。
(何を思っているの、ミリアム。あなたは鑑定士よ。まやかしに心を預けてどうするの。あの子との出会いは、ただの白昼夢だったと思えばいい。一時の熱病だったのだと)
しかし、そうして必死に自分を欺こうとする彼女の心に、もうひとつ、消えない不吉な影を落とすものがあった。
* * *
「おいで、僕の1001番目の瞳」
ある夜のことだった。ミリアムはそんな囁きが鼓膜を震わせた気がして、弾かれたように目を覚ました。寝台から身を起こし、耳をすましても聞こえてくるのは、窓の外、砂漠の熱を吸い込んだ夜風が家々の隙間を吹き抜ける音ばかりだ。
馬鹿げている。私はあの契約を自らの意志で破棄したのだ。あの少年が、再びこの場所を訪れるはずがない。そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥底には微かな、けれど確かな寂寥が澱のように溜まっていく。
それを振り払おうと寝屋を抜け出したその時、気がつく。ナタンがいない。
一体どこに行ったのか。ミリアムは嫌な予感に背中を撫でられ、慌てて外に出る。星あかりが銀の粉のように冷たく照らす砂漠の端に、ナタンは独り立ち尽くしていた。その孤影に安堵しかけたその時、気がつく。そばに、誰かいる。
しかし、そう思った瞬間に、大地を揺らすほどの大きな突風が吹き荒れ、砂漠の砂を黄金の幕のように激しく巻き上げた。砂に目を潰されぬよう思わず瞼を閉じる。次に目を開けた時には、もうそこにはナタンの立ち尽くす姿しかなかった。だが、気のせいだろうか。その刹那、視界の端に金色の何かが閃光のように、あるいは獲物を狙う鷹のように横切った気がしたのは。
「ナタン、そんな所で何をしているの?」
ミリアムが震える声をかけると、ナタンはゆっくりと、まるで重い扉を開くようにこちらを振り向いた。
「姉様、ほら見て。星がこんなに綺麗だよ」
その瞳は、どこか焦点が合わず、深淵を覗き込んでいるかのように虚ろだった。ミリアムは言いようのない悪寒を覚えながら言う。
「そうね、でも風邪をひいてしまうわ。さあ早く帰りましょう」
家に向かおうとするナタンの頬に触れ、その熱を確かめようとする。しかし、その手は風を掴むかのように、無機質な動作でするりと避けられてしまった。
「さあ、帰ろう、姉様」
そのまま、冷え切った家路を戻り、隣り合わせで眠る二人。だが、ミリアムの胸には、じわりと泥のような闇が忍び寄っていた。以降のナタンの様子は、どこかおかしかった。一見するといつもと変わりない。
*
「……ナタン。その器に、何を見る」
カシウスの低く地響きのような声が、薄暗い工房に落ちた。ナタンは細い指先で燭台の底部を、愛しむように、しかし鋭く鑑定するように幾度もなぞり、わずかに眉を寄せた。
「表面は美しく磨かれているけれど……重心に、不自然な澱みがある。銀の純度を偽っているね、兄様。底に異質の金属を沈め、重さを欺いている……おそらく、鉛だ」
カシウスの口元に、微かな、しかし峻烈な満足の色が浮かんだ。
「正解だ。持ち主は『一族の誇り高き純銀だ』と、まやかしの言葉を並べ立てていたがな。……ナタン、銘を刻む者の目は、決して欺かれるな。物の本質というものは、見た目の虚飾や、人が紡ぐ空虚な言葉の中には存在せぬ。叩いた時に響く真実の音、手に沈む確かな重み……そして、時という無慈悲な鑑定士が、偽りの皮を剥ぎ取った時に露になる『核』にしか宿らぬものだ」
カシウスとの仕事においては、ナタンは依然として忠実な徒弟であり、よき弟だった。
だが、ふとした瞬間に彼は、この世のどこにも存在しない場所を見つめるかのように視線を彷徨わせ、呼んでも返事をせぬまま、影が夜に溶けるようにふっと姿を消してしまうのだ。
もし、あの砂漠の夜の出来事がなければ。
彼もまた年頃の少年なのだと、自分に言い聞かせることもできただろう。歳の離れた姉といるよりも、友人と将来を語り合ったり、あるいは密かに想いを寄せる娘の姿を追っているのかもしれない……。
そう思えたなら、たとえ寂しさに胸を焦がされることがあったとしても、どれほど救われただろうか。
だが、夕暮れの静寂が、その淡い希望を無慈悲に打ち砕いた。
洗濯物を抱えて工房の裏手を通った際、石壁の向こうから漏れ聞こえてきた声に、ミリアムは肺の空気をすべて抜き取られたかのように立ち尽くした。
「ねえ、兄様。あの『リンゴ』、もう見つかったの?」
サロメの、鈴を転がすような無邪気な声が夕闇に響く。
「すごいよね、一口食べるだけで、どんな願いも叶う魔法の木の実なんて。ねえ、本当にあるの?」
その無垢な問いが消えぬうちに、ナタンの穏やかだが、一切の異論を許さない静かな声がそれを遮った。
「だめだよ、サロメ……。それは、誰にも話してはいけない約束だろう?」
ナタンは幼い妹に対し、慈しむような柔らかな眼差しを向けながら、同時にその心には指先さえ触れさせぬほどの、峻烈な拒絶を込めて言った。
「特に、姉様にだけは、絶対に悟られてはいけない。……いいかい、約束だ」
穏やかな、あまりにも穏やかな声だった。
しかしその調べは、震えるような悲哀を孕み、同時に、二度と引き返せぬ深淵へ身を投じる者の「覚悟」を湛えていた。
壁の向こうで聞き耳を立てていたミリアムは、心臓を氷の指で直接掴まれたような衝撃に身を震わせた。
(願いを叶えるリンゴ……。まさか、あの忌まわしき『タルタロスの林檎』だというの? なぜ今、あの子の口からその名が……)
脳裏に、古い羊皮紙に記された禁忌の断片が、不吉な燐光となって激しく明滅を始めた。
表紙イラストをpixivに掲載しています。
朗読版はyoutubeにあります。
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【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。
※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。
※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。




