第1部3 初恋と贄(にえ)の迷宮⑦
ミリアムは、その光景を冷徹に、そして瞬時に見抜いた。これは神の啓示でも、呪われた予言でもない。人の手による、精緻で残酷な仕掛け(トリック)だ。
「おい、ミリアム……お前なら、あの仕掛けの『正体』がわかるだろう?」
隣でカシウスが、血の混じった低い吐息と共に囁いた。その瞳には、アンドレの浅ましい野心を泥のように軽蔑する色が混じっている。
「名鑑定士の『種明かし』をしてやれ。……引導を渡してやるんだ」
「えっ、でも……今、私が口を出せば……」
「いいから! 暴いてやれ!」
カシウスの裂帛の気合に突き動かされ、ミリアムは腹の底から、凛とした声を張り上げた。
「違うわ、アンドレ! そんなもの、あなたの魂を映す鏡なんかじゃない! その盤の底には、微細な凹凸で髑髏の意匠が刻まれているだけ。光が特定の角度で落ちた時、反射の干渉によって像が浮かび上がる……ただの光学的なトリックよ! 鑑定士を、舐めないで!」
その叫びに、狂乱の淵で溺れていたアンドレが、弾かれたように動きを止めた。数秒の凍りつくような沈黙の後、彼は肩を震わせ、力なく笑い出した。
「……はは、ははは! ああ、ありがとうございます、お嬢さん。おかげで、ようやく私にも『真実』が見えましたよ」
アンドレはふらふらと立ち上がり、ヨシュアに向かって勝ち誇ったような、歪な笑みを向けた。
「さすがは『千の瞳』のヨシュア様だ。どちらが本物かという究極の二択を突きつけ、どちらかが本物だと思い込ませておいて……実は『どちらも偽物』。あなたが私を惑わし、主への忠誠を試すために仕込んだ、悪趣味な罠だったというわけですね!」
アンドレは確信に満ちた、狂気じみた手つきで銀盤を放り捨て、空になったはずの「匣」そのものを、内臓を守るかのように強く抱きしめた。
「初めから『星見の盤』など存在しない。盤は単なる目眩ましだ! 私はもう騙されませんよ。この匣、この『聖櫃』という空虚そのものこそが、ユダ様が求めていた不可侵の真実だ!」
アンドレはヨシュアの返答を待たず、聖櫃を奪われるのを恐れる獣のように背を向けて走り出した。狂気と執念が編み上げ、逃げ場のない迷宮と化した暗がりの中へ。彼は自らの野望という名の亡霊を抱えたまま、出口のない闇の深淵へと消えていった。
*
静寂が降りる。
「本当にこれで良かったのか」――。
ミリアムが底知れぬ不安に身を震わせる中、やがて、くすくすと低く湿った笑い声が鼓膜を撫でた。ヨシュアだ。彼は昏い愉悦をその身に孕ませ、喉を鳴らして笑っている。
「良かったね、カシウス。さあ、これこそが君たちの血が、永劫の時を越えて切望していたものだ」
ヨシュアは床に打ち捨てられていた銀の盤を拾い上げ、埃を払うこともなく、まるで安物の食器を扱うような無造作さでカシウスへと差し出した。カシウスは震える両手でそれを受け取ると、魂を繋ぎ止めたかのような、深い安堵の溜息を吐いた。
「ああ……助かりました、ヨシュア様。あなたのおかげで、一族の秘宝を、この『星見の盤』を死守することができた」
その言葉を耳にした瞬間、ミリアムの思考は激流に呑み込まれた。
「……どういうこと? アンドレが奪っていったあの匣は? あれが聖櫃じゃなかったの? この……使い古された銀の盆が、『忘却の聖櫃』だっていうの?」
カシウスは重い瞼を持ち上げ、射抜くような視線を妹の瞳に重ねた。
「『聖櫃は聖櫃にあらず』……これは、ベツアレムの一族の家長にのみ、耳元で引き継がれる口伝だ。神の十戒を収める器を、人の身で再現しようとした者たちが辿り着いた境地。……ミリアム、聖櫃とは特定の『箱』を指す言葉じゃない。それは、一族が培い、そして歴史から消し去られた『神を偽造する技術』そのものの総称だ。この盤もまた、その失われた大系の一片に過ぎない」
一族の英知を尽くした、神への叛逆の技術。
それが、先ほど自分が「稚拙なトリック」だと断じた透かし彫りだというのか。ミリアムはどこか拍子抜けしたような思いで、兄の手にある盤の表面を、もう一度鑑定士の眼で覗き込んだ。
――その刹那。彼女の背筋を、氷の刃が撫でた。
*
盤の表面。磨き抜かれた銀の膜の中に、物理法則を無視した「景色」が凝固していた。
そこは、この地下室よりもさらに深く、湿った暗闇。一人の少女が立っている。その女性は、今、自分が見ているこの「星見の盤」を、聖なる供物のように捧げ持っていた。
少女は、喜びとも絶望ともつかない、狂おしい恍惚の声で笑っている。
そして、その盆の上に乗せられているのは――切り落とされたばかりの、生々しい「人間の首」だった。
(あの少女は……誰? そして、盤の上のあの男は……?)
その笑い声には、聞き覚えがあった。胎内にいた頃に聴いた子守唄のように、記憶の深淵で眠っている誰かの声。しかし、想起しようとするほどに、意識は白い霧に包まれていく。
「ミリアム……おい、ミリアム!」
カシウスの鋭い声が、彼女の意識を現実の冷気へと引き戻した。
「……何かが見えたのか。盤が、お前に何を囁いた」
ミリアムが青ざめた顔で頷こうとすると、カシウスはそれを強引に手で制した。
「いい、何も言うな。盤が見せる景色は、見た者の魂を侵食する。他人と分かち合っていい毒じゃない」
ドクロの透かしは、不浄な者を遠ざけるための防壁に過ぎなかった。この盤は、本当に未来を抉り出す奇跡の遺物なのだ。ミリアムは鑑定士としての本能に憑りつかれ、盤の縁に刻まれた細工をなぞった。そして、ある一点で指を止め、心臓が跳ねた。
「……どうして? この文様、この鏨の軌跡……どうして、これがここにあるの……?」
その幾何学的な紋様の構成、一分の狂いもない細工の癖。見覚えがありすぎる。
茫然自失とするミリアムの耳元で、ヨシュアが蛇のささやきのように言葉を落とした。
「ねえ、ミリアム。君はこれと『同じ魂』を持ったものを、もう何度も鑑定してきたはずだよ」
ヨシュアの言葉が、稲妻となって彼女の脳裏を白く焼き払った。
この不毛な旅路の最中、ヨシュアが「報酬」として手渡してきた数々の品。あの奇妙な細工、特異な素材、そして違和感だらけの鑑定結果……。
もしや、彼が対価だと言ってよこしていたガラクタたちは……。
あれらすべてが、ベツアレムが失った技術の断片――「聖櫃」を再構築するための部品だったのか。
ヨシュアは答えず、ただ美しく、残酷なまでに穏やかな微笑みを浮かべていた。その黄金の瞳は、ミリアムが自らパズルを完成させ、絶望という名の「真理」に辿り着く瞬間を、心待ちにしているようだった。
* * *
狂乱の熱を孕んだまま、闇に沈みゆくマカイロス要塞を背に、一行は夜の帳を切り裂くようにして、ガリラヤへの帰路を急いだ。
背後で崩れ落ちる巨石の音も、今は遠い。冷え冷えとした夜気に包まれた道中、長く重い沈黙を最初に破ったのは、ロシュだった。彼は、月光の下で苦渋を煮詰めたような表情を浮かべ、喉の奥から絞り出すように言葉を零した。
「……弟が、取り返しのつかない真似を。……それに、俺も。ヨカナン様の使徒を名乗りながら、あんな不甲斐ない……」
カシウスは、ロシュに巨体を預け、その肩を借りて歩きながらも、短く鼻で笑った。
「よせ、気にするな。あんたは悪い人間じゃない。ただ……その図体と同じで、少しばかり頭が硬すぎる石ころなだけだ。それに、血を分けた兄弟の頼みとあっちゃ、容易く振り切れねえのも分からんではない。……なあ、ミリアム?」
カシウスはそう言って、並んで歩くミリアムを、大きな、血と油の匂いがする手でくしゃくしゃと撫でた。その手の重みは、ミリアムがずっと求めていた、何よりも確かな「家族の証明」だった。
「これは、俺たちベツアレムの一族に対する、途方もなく大きな『貸し』だ。……命を拾った祝儀代わりに、今度、とびきり安くない酒を、たっぷり奢ってもらうぜ」
ロシュは不意を突かれたように目を見開いた。しばらく呆然とした後、彼は口の端を吊り上げ、岩が割れるような不器用な笑みを浮かべた。
「……ああ。このロシュの首を賭けて、約束しよう」
その約束は、かつて敵対していた二人の間に、鉄と岩のような、脆くも強い絆が生まれた瞬間だった。
*
ようやく家の門を潜ると、扉を勢いよく跳ね飛ばして飛び出してきたのは、ナタンだった。
「一体全体、どういうことなんだよ! 帰ってきたら家は空っぽだし、サロメは女衆のところでずっとめそめそ泣いてるし!」
まくし立てるナタンの足元で、涙で顔をぐちゃぐちゃにしたサロメが、ミリアムの姿を見つけるなり、弾かれたように駆け寄ってその腰にしがみついた。
「姉様! 姉様ぁ……っ!」
泣きじゃくる妹の柔らかな温もり。不満げな言葉とは裏腹に、安堵で瞳を潤ませている弟の顔。マカイロスで視た、血を啜るような地獄の光景がまるで悪い夢だったかのように、そこにはいつもの、パンの焼ける匂いと家族の吐息があった。
ミリアムはサロメを折れそうなほど強く抱きしめ、満身創痍のカシウスと顔を見合わせると、胸に詰まっていた淀みをすべて吐き出すように、心の底から息をついた。
「色々あったの。本当に……長い、長い夜だったわ……」
「姉様?」
きょとんとして首を傾げるナタンを見つめ、ミリアムは改めて、自分を取り戻すようにしっかりと口を開いた。
「でも、これだけは言わせて」
「……何?」
「ただいま、ナタン。ただいま、サロメ」
その言葉を聞いた瞬間、ナタンの顔から強張っていた不安が消え、朝陽が射し込むように明るい笑顔が広がった。
「おかえり。……おかえりなさい、僕の姉様」
それは幼い頃から何ひとつ変わらない。姉の無事を、ただ純粋に、全身で喜びとして表現する弟の真っ直ぐな笑顔だった。
* * *
その夜、ガリラヤの宿営地は死を待つ者のように静まり返っていたが、族長エギンの天幕だけは、内臓が蠢くような不気味な灯火を揺らしていた。
一つの黒い影が、抗えぬ運命に引かれるようにその天幕へと近づく。外の微かな砂の音を察し、中から地底の底から響くような重々しい声が漏れた。
「……入れ」
幕をめくって現れたのは、ミリアムだった。エギンは机上の古文書から顔を上げ、地層のように深く刻まれた眉間の皺を緩めることなく彼女を凝視した。
「ミリアムよ、此度は大義であった。我らユダヤの民が数世紀にわたり焦がれた『聖櫃』の断片は、ついに奪還された。血の呪縛が解かれ、大願が成就する日も近い」
「エギン様……私は、あの『星見の盤』の深淵を覗きました」
ミリアムの声は、砂漠の夜風に晒された枯れ木のように、細く、震えていた。
「盤の中に視えた不吉な風景……それは、まだいいのです。私が鑑定士として見過ごせなかったのは、その縁に刻まれていた微細な文様。六芒星と槌の絡み合うあの紋章……あれは、カシウス兄様が自身の作品に刻むものと、筆致までが完全に一致していました。はるか太古の秘宝に、今を生きる兄様の刻印があるなど、鑑定上、あり得ないことです」
そこで一度言葉を切り、彼女は喉元の恐怖を飲み込んで、族長の瞳を直視した。
「アンドレは言いました。古の戦の折に秘宝が奪われたと。……けれど、それは真実なのですか? あれは、ごく最近あそこに運び込まれた……いえ、『作られた』ものなのではないですか? 例えば……私の……」
*
「それ以上は、口にするな!」
エギンの鋭い怒号が、天幕の空気を爆ぜるように切り裂いた。老族長の眼光は、暗闇で獲物を屠る獣のような凶暴さを帯び、ミリアムを射抜く。
「ミリアムよ、それ以上は探るな。お前のその忌々しい瞳で、何一つ視ようとするな。……決して、踏み込んではならぬ聖域があるのだ」
エギンは椅子から立ち上がり、長く歪な影を引きずりながら、獲物を追い詰めるように歩み寄った。その声は、警告を超えた抗えぬ「呪詛」として彼女の脳髄を侵食する。
「もしこれ以上踏み込めば、お前もイスカリオテの深淵に落ちようぞ」
エギンはミリアムの耳元で、凍りつくような冷気を孕んだ吐息とともに、禁忌の名を断罪の如く突きつけた。
「……そう。お前の父、ユダのようにな」
第1部3 初恋と贄の迷宮 了
表紙イラストをpixivに掲載しています。
朗読版はyoutubeにあります。
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【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。
※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。
※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。




