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第1部3 初恋と贄(にえ)の迷宮⑥

炎が収まり、黒く燻った門を潜って要塞へと足を踏み入れた一行を待っていたのは、暗く、湿り気を帯びた迷宮のような回廊だった。

幾重にも枝分かれした道は、さながら巨大な怪物の血管のようだ。風が鳴る音と自分たちの足音だけが不気味に反響する静寂の中で、ロシュが忌々しげに足を止めた。

「……どっちだ。下手に動けば、二度と日の光を拝めなくなるぞ」

皆が立ち往生する中、アンドレだけが、まるで行き慣れた自分の庭を歩くような確信に満ちた足取りで、悠然と歩き出した。

「こっちですよ。私の影から離れぬよう」

「……なぜわかるの?」

ミリアムが背後から鋭く問うと、アンドレは闇の中で、獲物を追い詰めた猟犬のような白い歯を見せて笑った。

「ええ、私は案内人ですから。この要塞の構造、死の仕掛け……すべてはとうに、私の掌中にあります」

「私は宝探しに来たわけじゃない。……カシウス兄様のところに案内しなさい!」

「ええ、承知しておりますとも。……何、案ずることはありません。死臭と血の匂いを辿っていけば、これほど簡単な道標もありませんよ」

冗談か本気か判別させぬ、不気味な声。しかし、それは冗談では済まされない現実だった。奥へ進むほど、鼻を突く鉄錆の匂いは濃くなり、壁や床には、拭い去れぬ新しい惨劇の跡が点々と刻まれていた。

アンドレは迷いのない足取りで螺旋状の階段を降り、光の届かない地下深くへと一同を導いた。冷たい空気の底、鍛冶場の火だけが、もはや燃料を失い、断末魔のように細々と燃える広間の隅――壁に泥のように寄りかかる人影があった。

アンドレは迷いのない足取りで螺旋状の階段を降り、光の届かない地下深くへと一同を導いた。冷たい空気の底、鍛冶場の火だけが、もはや燃料を失い、断末魔のように細々と燃える広間の隅――壁に泥のように寄りかかる人影があった。

それは精魂尽き果てたカシウスの姿であった。

「カシウス兄様!」

ミリアムが叫び、駆け寄る。

「……ミリアム……? なぜ、お前が……こんな、泥濘ぬかるみのような場所に……」

すぐさまロシュが駆け寄り、手際よく容態を確認する。

「……深手を負っているな。だが安心しろ、急所は辛うじて外れている。命の灯火までは消えちゃいねえよ」

かつて、自分を捕縛し一族を追い詰めようとした男に介抱される皮肉。カシウスは苦痛に顔を歪めながらも、自嘲的な笑みをその唇に刻んだ。

そこへ、ヨシュアが水の精霊を思わせる涼やかな足取りで歩み寄り、透き通るほどに冷ややかな声を落とした。

「ねえミリアム、不思議だよ。君は僕の『瞳』だろう? そんなに泣き腫らさなくても、もし彼が冷たくなってしまったら……また僕の力で『結び直して』あげると言っているのに」

あの夜、目撃した、おぞましい蘇生の光景が脳裏をよぎる。

パチン、と乾いた衝撃音が闇に響き渡った。

考えるより先に、ミリアムの手が動いていた。ヨシュアの端正な頬を、全力で張り飛ばしていた。

「ふざけないで……! 人の命は、あなたの数式を解き直すみたいに、簡単に扱っていいものじゃないわ!」

怒りと同時に、ミリアムの中でせきを切ったように記憶が溢れ出した。

火花を散らしながら、逞しく槌を振るう父の背中。ガブリエルの神話を、まるですぐ傍で見ているかのように熱く語ってくれた声。そして不安な夜、いつもその無骨で、けれど世界で一番温かい手で、優しく頭を撫でてくれたこと。

目の前にいるのは、政争の犠牲者でも、血に塗れた戦士でもない。ミリアムが心から愛し、その背中を追い続けてきた、たった一人の「兄様」だった。

ミリアムは周囲の視線も、要塞の冷たい空気も忘れ、幼子のようにカシウスの血の匂いのする胸に縋り付いた。

「兄様……兄様……! 私の、大好きな兄様……! 兄様がいなくなってしまうくらいなら、私、一生子供のままでいい。大人になんてならなくていい。だから、お願い、ずっと一緒にいて。もう二度と、私を置いて一人で死のうなんて思わないで……!」

嗚咽に震えるミリアムの背中を、カシウスは戸惑うように、けれど深い慈しみを持って、その大きな手で包み込んだ。

「……お前は、本当に大きくなったな、ミリアム」

カシウスの掠れた声が、彼女の耳に優しく、確かな体温を伴って響く。

「俺の気づかないうちに……お前は、お前の母さんよりもずっと素晴らしい、しなやかな女性になっていたんだな。俺はどこかで、お前にいつまでも、何も知らない小さな『ケタンタ(小さき者)』でいてほしいと呪っていたのかもしれない。……だが、今のお前はナタンとサロメの誇れる姉だ。ベツアレムを支え、真実を暴き出す一端の鑑定士だ。そして、俺の生涯の自慢の妹……俺の誇りだ」

兄の腕の中で、ミリアムは自分がようやく一人の人間として認められたことを知った。ただ守られ、真実から遠ざけられるだけの存在ではなく、運命を共に分かち合う、対等な家族として。

「お前には……いつか、両親のことをすべて話そう。あの日、あの没薬の香りの向こうで、何が起きたのか。……ただ、もう少しだけ、そのための勇気を蓄える時間をくれないか」

その言葉に、ミリアムは涙を拭い、今日一番の、子供のように無垢で力強い声で頷いた。

「うん、わかった。待ってるわ、兄様」

* * *

その時だった。湿り気を帯びた静寂を切り裂くように、乾いた、どこか嘲弄を含んだ拍手の音が地下室に響き渡った。

「素晴らしい。……実に、涙なしには見られぬ美しい兄弟愛だ」

笑っていたのは、アンドレだった。その顔には先ほどまでの卑屈な案内人の仮面はなく、暗い野望を瞳の奥に湛えた、冷酷な狩人のかおがあった。彼の足元には、いつの間にか一つの古びた、しかし重厚な彫刻が施された黒檀のはこが置かれていた。

「あれが……『忘却の聖櫃アーク』だ」

カシウスが、肺を灼くような苦しげな吐息と共に漏らす。

「カシウス様、あなたには心からの感謝を。あのヘロデの野卑な軍勢から、命を賭してこの聖櫃を守り抜いてくださった。……おかげで、私は一滴の血も流さずに、この至宝を手にすることができた」

アンドレは匣を愛おしそうに、まるで恋人の肌をなぞるように撫でた。

「あの方は是非にミリアム様を『目』として同行させるよう仰っていたが、私は確信しておりましたよ。無骨な職人であるあなたに守らせるのが、最も確実な隠し場所(金庫)になるとね。……さあ、責任を持って、私がこれを主のもとへ運びましょう」

「どういうことだ、アンドレ! 貴様、ヨカナン様への忠義はどうした!」

ロシュが鈍色の剣を引き抜き、実の弟を怒鳴りつけた。

「兄さん、そんな野蛮な声を上げないでください。これもすべては忠義……。ただ、守りべき『順序』があなたとは少し違うだけだ」

アンドレは薄笑いを浮かべたまま、ロシュを冷たく突き放した。

「これが、私があの方より与えられた至高の試練。……我が主、ユダ様からの直々のしんたくだったのですから」

その名が出た瞬間、地下室の温度がさらに数度、凍りついた。

「ユダ……あの忘却の丘の」

ミリアムの唇から、呪詛のようにその名がこぼれ落ちた。御簾の向こうで不敵に笑い、マナの奔流を読み解いていた、底知れぬ男。

「それだけじゃないさ。ねえ、調香師?」

ヨシュアが、退屈な演劇の幕間に声をかけるような軽やかさで話を振った。アンドレは余裕の笑みを深める。

「ふふ、その節はどうも。……さて、今この地下室で、まともに動ける者は限られている。重傷の兄様を抱えたまま、この私を止めることができますか? 兄さん……」

アンドレの視線が、ロシュの戸惑いを射抜く。

「ユダ様もまた、ヨカナン様の右腕。同じ師に帰依したあなたが、どちらかの使徒を斬るのは不公平でしょう? 賢明なあなたは……そこで黙って、歴史が動くのを眺めていてください」

ロシュは苦渋の表情で固まり、自らの「正義」が霧散していく感覚に動けなくなった。しかし、その重苦しい沈黙を、鈴を転がすような声で笑い飛ばす者がいた。

ヨシュアだ。

「ねえ、アンドレ。君がその『空箱』を抱いて幸せそうで、僕も嬉しいよ。でもね……中身を確認しなくて大丈夫かい? 期待通りの『神の声』が入っているかどうか」

「中身? 私を惑わせようとしても無駄ですよ、ヨシュア様」

アンドレは疑り深い目でヨシュアを睨みながらも、一応、手元の匣を慎重に開いた。だが、中を見た瞬間に彼の指先が止まる。

「……なんだ、これは。古びた銀の盤(皿)……?」

「それはね、ユダが何よりも欲しがっていた『道具』さ」

ヨシュアが、迷える子羊に真理を説くような慈悲深い口調で囁く。

「その盤は、天体の運行から遠い未来の因果を逆算する権能を持っている。ベツアレムの一族に伝わる、秘術中の秘術。僕の『千の瞳』が視る景色に対抗するために、ユダが喉から手が出るほど欲しがっていたものだよ」

「そんな話は……聞いていない。聖櫃は、王の正当性を示す証だと……」

アンドレの瞳に初めて、泥のような迷いの色が混じる。ヨシュアはその隙を見逃さず、愉悦を込めて笑った。

「そうか。なら君はきっと、君の主にすら、真実を教えられていなかったんだね」

「……黙れ! そんなことで、私の忠誠が揺らぐものか!」

「まあ、いいさ。どちらにしても、それが本当に『本物』だとしたらの話だがね」

「……どういう意味だ」

「例えば、僕がその中身をあらかじめ、自分の都合のいいものに取り替えていたとしたら……?」

刹那、ヨシュアは手品師のように、自分の背後からさらにもう一枚、酷似した銀の盤をさらりと取り出してみせた。

「さあ、アンドレ。どっちが本物だと思うかい? 一つは、星の導きを得る至宝。もう一つは……不浄な者が触れれば、その命を即座に吸い尽くし、魂を灰にする『死の鏡』だ」

アンドレの額を、一筋の冷たい汗が流れた。

「僕が持っているこれと、君が持っているそれ。……一体どちらが本物の『星見のアストロラーベ』なんだろうね。君の『鑑定眼』は、主への愛で曇っていないかい?」

ヨシュアは、まるで無垢な幼子を死の遊戯に誘うような、無邪気で残酷な笑みを浮かべた。

「そこで提案だ。君の好きな方を選びたまえ。正解すれば、それを君にあげよう。チャンスは一度だけ。これは君が主から与えられた『至高の試練』なんだろう? 決して失敗はできない……存分に、その命を賭けて悩むことだ」

アンドレの額に不快な脂汗が滲み、それが目に入っても拭うことさえ忘れていた。彼は獲物を狙う蛇のような眼差しで、ヨシュアの手元と、自ら抱えた匣の中の盤を、交互に狂ったように見つめ返した。

(中身を入れ替えただと……? そんな神速の業、人間に可能なのか? ……いや、先ほどの要塞での「見えない炎」。因果の糸を操り、千の瞳を持つこの男なら、あるいは……)

アンドレの思考は、出口のない疑念の迷宮へと、自ら足を踏み入れていく。一度疑いの毒が回れば、腕の中にあったはずの至宝は急に不吉な鉄屑へと成り下がり、逆にヨシュアが弄ぶ盤こそが、失われた神の知恵そのものに見えてくる。

「よく見ることだ。それは未来を逆算する星見の盤。……君の腕の中にあるその鏡面には、果たして君が夢見た『栄光の未来』が映っているのかな?」

ヨシュアの声は、深淵から響く甘い誘惑のように、アンドレの鼓膜を撫でた。

ハッとして、アンドレは手元の銀盤を覗き込んだ。最初は、恐怖に歪んだ自分の醜い顔が映っているだけだった。しかし、天井の影が盤面に落ちた刹那、鏡の中に異変が起きる。

「……っ、ひっ、あああぁっ!?」

アンドレは喉を潰したような悲鳴を上げた。鏡の中の自分の顔が、音もなく溶け、崩れ、気がつけば虚ろな眼窩を持つ髑髏どくろが、彼を嘲笑うように凝視していたからだ。

「メメント・モリ……死を想え。これは……これが、私の辿り着く結末だというのか!?」

アンドレは、その呪われた銀盤を放り出しそうになりながら、震える手で必死に匣を抱え直した。その滑稽な姿を、ヨシュアは至近距離から覗き込む。

「ねえ、それは本物の『奇跡』かい? それとも、君自身の恐怖が作り出した幻覚かな。……教えておくれよ。君に、それを『鑑定』できるのかい? アンドレ」


表紙イラストをpixivに掲載しています。


朗読版はyoutubeにあります。

https://www.youtube.com/playlist?list=PL8BNa9czmG5HRY9yC-7O8NnwODXAXGjZe

【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。

※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。

※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。

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