表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/18

第1部3 初恋と贄(にえ)の迷宮⑤

アンドレは爆ぜる火に照らされながら、まるでいにしえの神話を紡ぐ語り部のような、陶酔を帯びた口調で話し始めた。

「かつて、ユダヤの十氏族が国を追われ、帰るべき土地を失った彷徨さまよえる民となった時。彼らは誓い合ったのです。いつか再び王国を再興し、その玉座に正当なる王を迎える日のために、民の血と、知恵と、富を繋ぎ続けるための巨大な血管を作り上げることを。……それが『イスカリオテ』。今やあなた方キャラバンの母体であり、中東の闇を密かに流れる情報の奔流ネットワークの名です」

彼はさらに言葉を重ねる。その声には、冷徹な理性を超えた湿り気が伴っていた。

「イスカリオテは地に残ったユダ族、レビ族とも密約を交わし、汚れ仕事や歴史の裏役を請け負う代償として、物資と居住地、そしてあらゆる情報の独占という便宜を貪り続けてきました。今やイスカリオテは、散り散りになった十二氏族を縫い合わせる、剥がすことのかなわぬ強固な刺青いれずみのような絆。……その絆こそが、我が主ヨカナン様がいずれユダヤの正当なる王として戴冠される時、その足元を支える鉄の基盤となるのです」

アンドレは恍惚とした表情で、虚空に存在しない王冠を見つめるように語った。その瞳に宿るのは、盲目的を通り越した「狂信」という名の毒だ。

しかし、ヨシュアがその熱狂を切り裂くように、低く、鼓膜を凍らせる冷ややかな声を投げかけた。

「ねえ、アンドレ。君は本気で、あの先生が、そんな石ころの積みエルサレムの王座に腰掛けるなんて、はなから信じているのかい?」

焚き火がひときわ大きく爆ぜ、三人の影を歪な怪物のように岩肌へ揺らした。

アンドレが、獲物に逃げられた猟犬のような怪訝な顔で眉をひそめる。

「これは異なことを。ヨシュア様、あなた様ほどの高弟が、まさか先生の正当性を疑っておられると?」

「ああ、もしかすると、余興で世俗の王にもなられるかもしれない。だがね……」

ヨシュアは焚き火の炎を凝視したまま、唇を愉悦に歪めた。その瞳の奥では、火を喰らう悪魔が踊っているように見えた。

「先生が真に受肉されるべきは、この矮小な世界に満ちるすべての罪を、その血で洗い流す救世主メシアなのだよ。王座などという卑小な器に、あの『光』が収まりきるものか」

ヨシュアの言葉はアンドレに突き放すように投げられたが、ミリアムには痛いほど解っていた。彼が今、自分という「鑑定士」の魂の最深部を、その冷たい手でまさぐりながら語っているのだということに。

「いい機会だ。名鑑定士エグゼゲテスである君に、少し僕の話をしてあげよう。……僕がどこから来て、何を鑑定するために、この地に立っているのかを」

ヨシュアは静かに、深淵を覗き込むような声で語り出した。

「幼き日、僕の世界は耐え難いほどに退屈だった。……すべては、僕の手に入れてしまったこの『千の瞳』のせいだよ。一の事象から千の結末を、瞬時に、かつ残酷なまでに導き出してしまう。これは知恵ではなく、救いのない呪いだ。何をすれば何が起き、世界がどう朽ちていくのか……僕の瞳には、すでに燃え尽きた後の灰のような未来までもが視えてしまうんだ」

「……なんと。それは素晴らしい、神に等しい力ではありませんか!」

アンドレが、隠しきれない羨望を剥き出しにして身を乗り出した。しかし、ヨシュアは自嘲気味に、その美しい首を横に振る。

「素晴らしい? まさか。僕の視界にあるのは、僕の想像を一行たりとも超えることのない、既知の物語だけだ。富を得るのも、王冠を戴くのも、計算式を解くより容易い。だが、その果てに待つのは、ただ等しく、無機質な『無』という名の死だけ。……ただ、虚しいだけさ」

火の粉が爆ぜ、吸い込まれるように夜の闇へと消えていく。ヨシュアの声は、どこか遠い異界から響いているようだった。

「だが、ヨカナン先生と出会い、僕の世界は塗り替えられた。先生は、僕のアストロラーベ(星盤)が弾き出せなかった『未知の未来』を指し示してくれた。今までただの壁の亀裂としか思っていなかったものが、実は神の記した壮大な黙示録アポカリプスの一部だったのだと。先生という光が、僕という空虚な器に、神の座へと至るための聖なる『鍵』を授けてくれたんだ」

ヨシュアの黄金の瞳が、焚き火よりも深く、底知れぬ熱量を持って燃え上がった。

「僕は、初めてこの魂が受肉したような心地がした。僕を救い上げたように、先生は世界のすべてを洗い流す救世主メシアとなられるお方だ。アンドレ、君が望む『王』という肩書きなど、その神聖なる道筋に咲いた道端の草花に過ぎない。目的ではなく、ただの余興だよ」

ミリアムは、息をすることさえ忘れていた。

ヨシュアが語る「すべてを視てしまう退屈」と、自分が鑑定士として世界の裏側を暴き、醜悪な真実を見出してしまう「虚しさ」が、鏡合わせのように重なり、彼女の胸を締め付ける。

(彼にとってヨカナンが救いであったように……私の鑑定眼がもたらすこの暗闇を、終わらせてくれる何かが、どこかにあるの?)

アンドレが喉を鳴らし、その毒を含んだ好奇心で探るように聞いた。

「あなたの知らなかった未来……。全能のあなたを驚かせたその景色とは、一体いかなるものなのです?」

「僕は、十字架を背負い、丘を登っている」

ヨシュアの言葉は、まるで今まさにその肉体が痛みを感じているかのように、克明に響いた。

「周囲のローマ兵は僕の皮膚を鞭で裂き、頂へ登るよう嘲笑と共に責め立てる。昨日まで僕を聖者だと崇めていた群衆は、手のひらを返したように泥を投げ、喉が枯れるまで呪詛を叫ぶ。偽りの王の証たる茨の冠が食い込み、滴る血で足元を滑らせながら……僕は髑髏ゴルゴダと呼ばれるその丘を一歩、また一歩と踏みしめていく」

ミリアムの心臓が、肋骨を突き破らんばかりに脈打つ。かつて自分が見たあの不吉な夢の情景が、彼の告白と戦慄するほどに一致したからだ。

「やがて現れる、天を呪うように屹立する十字架。僕は、自らが引き摺り上げたその木に釘打たれ、最も美しい死を迎えるのさ」

あまりに不穏で、救いのない終焉。アンドレはその空気を振り払うように、卑俗なあざ笑いを浮かべて言った。

「なるほど……。ヨシュア様ほどの御方でも、その呪われた死の運命が恐ろしくて、ヨカナン様にお縋りしているというわけですな」

その瞬間、ヨシュアの穏やかだった微笑が消えた。代わりに現れたのは、見る者の魂を凍りつかせる、凄絶なまでの歓喜だった。

「その未来を避ける……? 馬鹿なことを。見当違いも甚だしい」

一瞬にして焚き火の熱が奪われたかのように、周囲の空気が絶対零度へと突き落とされる。

「これは僕が数千年の退屈の果てに、ようやく探し当てた、唯一無二の真実フィナーレだ。僕は、辿り着かなければならないんだよ。その『死』を以て初めて僕の人生は完成し、この存在は永遠の叙事詩となる。僕はヨカナン先生の、最後の一片ピースだ。僕の死という犠牲を以て、先生は救世主として完成する。その刹那、僕は先生と真の意味で一つになれるんだ」

歓喜に震えるその声は、信仰を通り越し、純粋な狂気に純化されていた。

「だから、ずっと探していたんだよ。退屈な僕を、あの丘へと誘い、処刑台へと送ってくれる『最高の共犯者』をね」

アンドレは、その異様なまでの覇気に気圧され、乾いた喉を震わせて問いかけた。

「……それは、誰なのです。その者を、あなたは知っているのですか」

ヨシュアの視線が、火の向こうに座るミリアムを――そして、彼女の背後に広がる逃れられぬ宿命の深淵を射抜いた。

「ユダ。……イスカリオテのユダ。その者こそが、僕の魂を完成させる者だよ」

夜のしじまの中、ヨシュアの宣告が、呪いのように冷たく響き渡った。

* * *

まるで世界そのものを呪い、天の加護を拒絶するかのように断崖へそそり立つ要塞、マカイロス。

そこは、異様なまでに静まり返っていた。まだ何も起こっていないのか、それともすべてが「清算」されてしまったのか。鼻腔を抉るような鉄錆の匂いと、低く立ち昇る不気味な煙が、その問いに沈黙という名の答えを突きつけていた。

「まずいな……。吐き気がするほど、最悪の状況だ」

ロシュが低く唸り、岩陰に転がっている「肉塊」を確認した。それは、カシウスと共に旅立ったはずのイスカリオテ護衛団の成れの果て――かつて人間であった、無残な残骸だ。

ミリアムは反射的に目を逸らそうとした。しかし、その臆病な衝動を、彼女は自らの鑑定士としての矜持で無理やり捻じ伏せた。これこそが、カシウスが自分から隠し通そうとしていた「世界の正体」なのだ。あまりに無慈悲で、あまりに醜悪な、価値ねだんのつかない真実。

「……一旦退くぞ。これ以上は、死神の喉元に首を突っ込むようなものだ」

ロシュが苦渋を滲ませ、撤退の決断を下そうとしたその時、ミリアムは凍りついた声で食い下がった。

「いいえ。私、要塞に入るわ。……兵士の目を盗んで、何としても兄様を……!」

「馬鹿を言うな! 獣のように荒ぶった兵士の群れに、女が独りで飛び込んでみろ。あんたのその美しさは、ここでは『救い』じゃなく、連中の欲望を昂らせるだけの『呼び水』にしかならねえんだよ」

ロシュの制止を裏付けるように、要塞の重い青銅の門が耳障りな軋み音を立てて開き、武装した兵たちが、死肉に群がる羽虫のように這い出してきた。

「残党を一人残らず狩れ! ヘロデ王の至宝を掠めようとした不届き者だ。慈悲は要らん、その首を門に晒せ!」

兵士たちの獣染みた叫びを耳にして、ヨシュアが冷ややかに、しかし舞台上の名優のような優雅さで口を開いた。

「予定通りの幕開けだね。ヘロデ王は、あの救世主を『ただの盗人』に仕立て上げたいのさ。……聖櫃アークという、国家の象徴を奪おうとした卑しい罪人。……民の英雄を、一晩で反逆者に変えるための、実に安上がりで効果的な演劇だ」

「……クソが。無理だ、あの数の兵を突破するのは、今の俺たちの戦力じゃ不可能だ」

ミリアムは唇を噛み切りそうなほど強く合わせた。

連中が略奪に飽きて野営を始めるか、あるいは兵を引き上げるのを待つしかない。けれど、そんな悠長な時間をかけていては、要塞の奥底で傷つき、血を流しているかもしれないカシウスの命の火は、確実に、永遠に消えてしまう。

焦燥に駆られるミリアムの鼻腔を、不意に、あの懐かしくも重苦しい香りが掠めた。

――没薬。

父が纏っていた、死の準備と聖なる儀式を象徴する香り。その香りの記憶が、マカイロスの岩肌から漂う硫黄の臭気と混ざり合い、ミリアムの脳裏に一つの「直感」を弾き出した。

ミリアムは隣に立つヨシュアを、鋭く射すくめるように見上げた。

「……ヨシュア。昨日の鑑定の報酬を頂戴……昨晩、私たちが視たあの『青い火』。あれを今、ここで再現できるかしら?」

ヨシュアの黄金の瞳が、その一言だけで彼女の意図をすべて汲み取ったかのように、愉悦に細められた。

「……なるほど。あのアクア色の煌めきを、審判のゲートに仕立て上げようというわけだね。面白い……。実に素晴らしいよ、ミリアム」

ヨシュアがふっと微笑んだ次の瞬間、彼はまるで陽炎が風に解けるように、音もなくその場から姿を消した。

「……えっ?」

「どうした、ヨシュア様はどこへ行かれた!?」

ロシュが慌てて周囲を見回すが、黄金の少年の影はどこにもない。

その直後だった。ヘロデの兵たちが陣取る要塞の、垂直に切り立った頂の上に、一筋の影が顕現した。

逆光を背負ったその人影は、夜風を外套のように纏い、片手に燃え盛る松明を掲げている。まるで天の星をその手に掴み取ったかのような神々しさに、階下の兵士たちは動きを止め、言葉を失った。

「聞くが良い。正当なる血を持たぬ傀儡かいらいに従う者たちよ。お前たちは、誰の許可を得てこの聖域へと足を踏み入れたのか?」

凛とした、それでいて岩壁に反響して天からの審判のように降り注ぐ声。兵たちはざわめき、互いに顔を見合わせた。しかし、隊長と思しき男が虚勢を張って叫ぶ。

「この地は領主ヘロデ・アンティパス様の統治下にある! 賊を狩る我らに何の咎があろうか!」

影は静かに、しかし冷徹な憐れみを込めて言い放った。

「……愚かな。ここは我が父が民に与えた地。偽りの王が領土を主張するなど、傲慢の極みだ。もしお前たちが、自らの歩みに正当性を唱えるというのであれば……この『審判の門』を潜るが良い」

言い終えるが早いか、影は持っていた松明を奈落へと投げ落とした。

松明が地面に触れた刹那、凄まじい轟音と共に、巨大な「蒼い炎」が壁のように立ち上がった。それは要塞の入り口を塞ぐように、激しく、かつ不気味な静けさで燃え上がる。

「なっ……なんだ、これは!? 神の怒りか?」

「惑わされるな! こんなもの、あらかじめ油が撒いてあっただけの小細工だ! 突撃しろ!」

隊長の怒号に押され、数人の兵が炎の影へと踏み込んだ。だが、彼らがその「境界線」を越えた瞬間、悲鳴さえ上がらない異変が起きた。

「熱い、熱いぞ! 炎に触れてもいないのに、この身が焼けるようだ!」

「嫌だ、皮膚が、魂まで灰になる……! 助けてくれ!」

炎から数歩離れているはずの兵士たちが、喉をかきむしり、目に見えない熱に身をよじらせて崩れ落ちる。一人の狂乱は疫病のように伝播した。目に見えない熱。視認できない死神。

「撤退だ! 全員引け!」

絶望的な叫びと共に、あれほどいた軍勢は潮が引くように、恐怖の叫びを荒野に残して去っていった。

静寂が戻った荒野で、一行は唖然と立ち尽くしていた。

気がつけば、要塞の頂にいた人影はなく、ヨシュアが何事もなかったかのようにミリアムの隣に戻っていた。

「なかなかの見ものだっただろう?」

涼やかな声に、ミリアムは彼を鋭く射すくめた。

「ねえ、教えてくれないかいミリアム。今のは神の奇跡かい? それとも……」

「……種明かしなら済んでいるはずよ。あの蒼い炎は、岩肌から漏れ出す天然のガスが燃えたもの。けれど真に恐ろしいのは、あの炎がさらに高温になった時よ。……ある一定の温度を越えると、炎は人間の目には見えなくなる。彼らは炎を避けて通ったつもりで、自ら『目に見えない死の渦』へ飛び込んだのよ。……ただの、残酷なことわりだわ」

ヨシュアは子供のように目を輝かせ、満足そうに両手を打った。

「さすがだ、僕の瞳。……お父様も、君がこれほど鮮やかに『死』を鑑定してみせるとは、思っていなかっただろうね」

ミリアムはその問いには答えず、一歩彼に詰め寄った。

「……あなた、どうやってあの絶壁を登ったの? どんな鑑定眼を持っていても、あそこを登るための『因果の糸』なんて見つからないはずよ」

ヨシュアはくっと喉を鳴らして笑い、黄金の瞳をミリアムの至近距離まで寄せた。

「それを解き明かすのが君の仕事だろう? ――さあ、行こうか。兄上が、地獄の底で君を待っている」

表紙イラストをpixivに掲載しています。


朗読版はyoutubeにあります。

https://www.youtube.com/playlist?list=PL8BNa9czmG5HRY9yC-7O8NnwODXAXGjZe

【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。

※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。

※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ