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第1部3 初恋と贄(にえ)の迷宮④

「……罠?」

「ヘロデ大王の不肖の息子。ローマの靴を舐め、正当なる血筋も持たず、偽りの玉座に震えながら座る傀儡くぐつ。……その臆病な王、ヘロデ・アンティパスは、我が師ヨカナン様を、狂おしいほどに恐れているのさ」

ヨシュアの声は、もはや市井の雑談ではなく、大聖堂の奥深くで朗読される不吉な福音のように響き渡る。

「民衆が、先生こそが真の救世主であり、ユダヤの正当なる王であると信じ始めている。王は、いつ自分がその王座から引きずり下ろされるか、その恐怖で夜も眠れない。……ああ、なんと滑稽だろうか! 天の光を殺そうなどという、分不相応な野望を抱くとはね。彼は『忘却の聖櫃』という、目の眩むような餌を撒いた。真の王たる先生が、そんな石の箱など欲しがるはずもないのに……。だが、盲目の者たちは違う」

ヨシュアは、愉悦に震える指先で、ミリアムの頬を掠めるかのように空間をなぞった。

「一族の誇り? 聖櫃の奪還? ……違うね、ミリアム。彼が欲しかったのは、先生を反逆者として捕らえるための『口実』、あるいは、邪魔なベツアレムの一族を歴史から消し去るための『口封じ』だ。カシウスはそれを知っていて、なお、その火中の栗を拾いに行ったんだよ」

ヨシュアの黄金の瞳が、ミリアムを射抜く。その言葉の刃は、カシウスが彼女を想って秘めた孤独な決意を、無慈悲に、そして残酷なまでの鮮明さで切り刻んでいった。

「君を守るために、彼は独りで地獄の門を叩いた。……さあ、名鑑定士。今、君の手に残っているその幸福に、一体どれほどの価値(値段)がつくか……改めて計算してみておくれ」

凍りつき動けないミリアム、しかし不意に、湿り気を帯びた粘りつくような低い声が、市の喧騒を割って入り込んだ。

「……いやはや。随分な言われようではありませんか」

振り返ると、そこには影を引き摺るような優雅な歩取りで、アンドレが歩み寄ってくるところだった。彼は極彩色の雑踏の中で、そこだけ空気が淀み、腐敗しているかのような、得体の知れない笑みを浮かべていた。

アンドレはヨシュアの前に至ると、芝居がかった動作でその場に恭しく跪き、汚れも厭わずに額を砂埃へと擦りつけた。

「偉大なる高弟、ヨシュア様。……知恵の深淵におわすあなた様には遠く及びませんが、私とて洗礼者ヨカナンの末端に連なる敬虔なる使徒。先生の正当性を、このアンドレが疑うはずもございません」

砂を噛むような掠れた声。しかし、その弁明は淀みなく溢れ出す。

「聖櫃などという石の箱、先生の足元を照らす灯火一つにも値せぬことは重々承知しております。……此度のことは、ひとえに彷徨える羊の族長、エギン。彼の熱烈な請願に、私がほだされたまでのこと。イスカリオテの財力と武力が、やがてヨカナン様の覇道に資するであろうと……浅はかながら愚考した次第にございます」

額を地面に押し付けたまま、アンドレは蛇のような上目遣いでヨシュアの反応を伺った。

「すべては、我らが師への忠誠ゆえ。……何卒、この愚かな忠義者に慈悲を」

「そうなのかい? 君がそう言うのだ。きっとそうなのだろうね」

ヨシュアの声は鏡のように平坦で、慈悲も拒絶も映し出さない。その空虚な肯定に救われたと思ったのか、アンドレは深く頭を下げたまま、今度は獲物を見定めるような視線を、ゆっくりとミリアムの方へと這わせた。

「ミリアム様、此度の行き違い、このアンドレが平身低頭お詫び申し上げます。……けれども、どうか信じていただきたい。我々使徒も、それがヘロデの罠であることを露ほども知らなかったのです。ああ、なんという不覚!」

わざとらしく胸を叩き、嘆いてみせるアンドレ。しかし、その瞳には鑑定するまでもない、湿った野心がこびりついている。

「ですが、ご安心なさい。これより私は選りすぐりの援軍を率い、必ずや貴方様の兄上を泥濘ぬかるみからお助けいたします。この命、先生に捧げたはずのこの魂に替えても……。ですからミリアム様」

アンドレは一歩、彼女との距離を詰め、慈父のような薄ら笑いを浮かべて囁いた。

「どうか貴女は、ここから動かず、温かな寝床で兄上のお帰りをお待ちください。……これ以上、貴女の美しき瞳が不浄な血に汚されるのは、我ら一門の耐え難い痛みとなりますゆえ」

(嘘だわ。……この男、最初から私を「独り」にするために、兄様を戦場へ追いやったんだわ)

ミリアムの背中に、冷や汗が伝う。アンドレの言葉は、守るためのものではない。自分を安全な檻に閉じ込め、無力な「戦利品」へと作り替えるための呪縛だ。

だが――今この男の手を取らなければ、兄様の命はない。

ミリアムは震える拳を握りしめ、あえてアンドレの懐へ踏み出すように、真っ直ぐにその瞳を見据えた。

「……いいえ、アンドレ。私も行きます。私を、兄様のもとへ連れて行ってください」

その瞬間、アンドレの薄い瞼の奥で、猛禽類のような瞳が歓喜にくるりと回った。獲物が自ら蜘蛛の巣に絡まりに来たことを祝うかのような、一瞬の、不吉な輝き。

「……おや、それは感心いたしませんな。兄上のお気持ちを考えなさい。清らかなる乙女は、血の匂いのせぬ安全な場所で祈っている。それが最も美しい姿というものです」

「祈るだけでは、何も守れないことを知ったの」

ミリアムは、自分を「向こう側」へ誘うアンドレの邪悪な気配を全身で受け止めながら、断固として言い放った。

「私は鑑定士。誰かの背中に隠れて、知らぬ間に誰かを失うのはもう嫌なの。兄様がその命を懸けて守ろうとした真実を、私は私の目で見届けたい。……たとえ、この瞳が何に汚れようとも!」

自ら奈落への切符を手にした少女の横顔。アンドレは満足げに喉を鳴らすと、まるで捧げ物を受け取る司祭のような慇懃さで、深く、深く頭を垂れた。

サロメが不安に震える顔で、ミリアムの服の裾をぎゅっと握りしめていた。その指先の震えが、ミリアムの腰に伝わってくる。

「ねえ……姉様、行っちゃうの? サロメを置いて、行っちゃうの?」

ミリアムはその小さな体に視線を合わせ、震える手を隠して優しく微笑んだ。

「大丈夫よ。兄様を迎えに行くだけ。……サロメ、あなたはベツアレムの誇り。いい子でお留守番できるわね?」

サロメは今にも泣き出しそうな顔をしながらも、ミリアムの瞳に宿る決意を読み取ったのか、小さな拳を握り、こくりと力強く頷いた。

その時、沈黙を守っていたヨシュアが、楽しげに肩を揺らして口角を上げた。

「そう……いいだろう。ならば、僕も同行しよう。君がその『地獄の喉首』で、一体どんな真実を鑑定してみせるのか。特等席で聞かせてもらうとしようか」

ヨシュアの唐突な参戦に、アンドレの表情が一瞬だけ、仮面が剥がれるように強張った。しかし、彼はすぐにいつもの不気味な笑みを顔面に貼り付かせ、深々と一礼した。

「……左様でございますか。ヨシュア様がおいでいただけるとは、これ以上の光栄はございません。……では、死出の旅路の案内人を務めましょう。参りましょうか。呪われし砦、マカイロスへ」

サロメの温もりを振り切るようにして、ミリアムはサロメを信頼できる女衆に預けた。彼女が向かう先は、平穏な市場ではない。死の影が差す断崖の要塞だ。アンドレ、ヨシュア、そして重武装した護衛団と共に、ミリアムはついに町を出た。

* * *

町を離れるにつれ、風景からは生命の色彩が剥ぎ取られていった。

行く手に横たわるのは、神に呪われたかのようにひび割れた、赤茶けた不毛の大地だ。風が吹くたびに、死者の溜息のような乾いた音が砂礫の間を吹き抜け、遥か彼方には、陽炎に揺れる死海の蒼い鏡面が、毒々しい光を放っている。空はどこまでも高く、無慈悲なまでに透き通っているが、そこから降り注ぐ陽光は、旅人の肌を焼く鋭い刃そのものだった。

視界を遮るものは何もない。ただ、天を突くように切り立った断崖の向こうに、これから向かう「地獄の喉首」マカイロスが、巨大な捕食者の牙のように黒々と口を開けて待っていた。

砂塵を上げて進む護衛団の中に、見覚えのある顔があった。あの「偽金事件」でカシウスを犯人だと糾弾したロシュだ。

ロシュは不器用そうに頭をかきながら、隣を歩くミリアムを横目で見た。

「……ああ、なんだ。あの時は、その、悪かったな」

不意に投げかけられたのは、つぶてのようにぶっきらぼうな謝罪だった。

「あの時の貸しは、この旅で叩き返してやる。あんたの兄貴は……あの偏屈なカシウスは、必ず俺たちが生きて連れ戻してやるよ」

意外な言葉にミリアムが目を丸くしていると、前方を歩いていたアンドレが、喉の奥で粘りつくような含み笑いを漏らした。

「相変わらず、石を噛むような物言いですね、兄さんは。お気になさるなミリアム様。この男は知恵の使い道を知らぬ、ただの動く岩石なのですから」

「あぁ? 抜かせ。お前こそ、その薄ら寒い『知略』とやらが、少しはヨカナン様のお役に立っているんだろうな、アンドレ」

「もちろんですとも。私の怜悧れいりなる舌と、あなたの無骨な膂力りょりょく。これほど主に捧げるに相応しい、いびつで美しい組み合わせはありませんよ」

「兄弟……だったの?」

思わずこぼれたミリアムの呟きに、アンドレが首を不自然な角度で傾け、楽しげに振り返った。

「ええ。どうです、残念ながら、よく似ているでしょう?」

ミリアムは、触れれば指が切れそうな剃刀のアンドレと、風雨に晒され角の取れた岩石のようなロシュを交互に見比べた。血の繋がりという「鑑定不能な因縁」に縛られながら、醸し出す空気は天と地ほども違う。

「……全然、わからないわ。共通点なんて、一つも」

ミリアムの剥き出しの困惑に、背後を歩いていたヨシュアが、待ってましたと言わんばかりに愉快そうに喉を鳴らした。

「くく……。真理を暴く君の瞳でも、血脈という名の迷宮は、まだ鑑定しきれないようだね。面白い……実に面白いよ、ミリアム」

ヨシュアの黄金の瞳が、砂塵の向こうで一層深く、爛々と輝いた。

一行は荒涼とした岩山を抜け、死海の重苦しい水面を見下ろす断崖へと差し掛かっていた。その先には、ヘロデ王の牙城、マカイロス要塞が、天を突く巨大な捕食者の牙のように、黒々と口を開けて待ち構えている。

岩肌の窪地での野営。

夜の帳が下りると、焚き火の爆ぜる乾いた音だけが、砂漠の沈黙をより一層深いものへと変えていった。ミリアム、ヨシュア、アンドレの三人は、ゆらめく火を囲んで座している。その外縁では、ロシュを筆頭とした護衛団が、闇に潜む魔物を警戒するように神経を研ぎ澄ませていた。

不意に、見張りの一人が喉を鳴らし、震える指先で虚空を指した。

「おい、見ろ……あの崖の向こうだ。闇の中に、火が浮いている。あれは何だ……? まさか、この地に眠る聖者の魂か、あるいは主の奇跡か……?」

深い闇の奥。そこには確かに、命あるものとは思えない青白い光が、亡霊のようにゆらゆらと蠢いていた。護衛たちが怯え、古の神罰を恐れて身を竦める中、ヨシュアが試すような、愉悦に満ちた眼差しをミリアムに向けた。

「おや……あれは何に見えるかな、鑑定士? 民はあれを、天からの啓示だと信じて跪くようだが」

「……いいえ」

ミリアムは淀みなく、冷たい水のような声で即答した。

「あれは岩の裂け目から染み出した地中のガスが、砂漠の静電気に触れて発火したに過ぎないわ……奇跡なんかじゃない。ただの、卑しい自然現象よ。近寄らないように気をつけて、ガスを吸い込んでしまうと死んでしまうわ」

そう、それこそが、この地が「呪われた聖域」と呼ばれるからくりだった。

通る旅人は、たとえ軍隊であっても二度と生きては戻らぬと言われ、迷い込んだ者は一晩で物言わぬむくろの山に変わり果てる。神の怒りだと恐れられたその正体は、大地から噴き出す無色透明の死の毒に過ぎない。

ミリアムの瞳は、幻想を剥ぎ取り、残酷な真実だけを抽出する。

「……。クク、素晴らしい。実に、溜息が出るほど見事な鑑定眼をお持ちだ」

アンドレが、薄気味悪いほど滑らかに掌を打ち鳴らし、恍惚とした笑みを浮かべた。

「神秘の衣を剥ぎ取り、骨と皮だけの真実を白日の下に晒す。その合理的で冷徹な瞳こそ、我らが待ち望んだ『審判の秤』に相応しい、お嬢さん」

「そんなことはどうでもいいわ」

ミリアムは、自分を褒め称えるアンドレの言葉を冷たく一蹴した。彼女の視線は火を見つめたまま動かない。その胸の奥で、ずっと沈殿していたおりのような疑問を、ついに口にした。

「……アンドレ。あなたがさっきから口にしている『イスカリオテ』それがなんなのか私に教えてちょうだい」


表紙イラストをpixivに掲載しています。


朗読版はyoutubeにあります。

https://www.youtube.com/playlist?list=PL8BNa9czmG5HRY9yC-7O8NnwODXAXGjZe

【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。

※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。

※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。

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