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第1部3 初恋と贄(にえ)の迷宮③

族長の天幕を一歩出ると、刺すような昼の陽光が二人を射抜いた。

家までの道すがら、カシウスは一度も振り返らなかった。砂を蹴る規則正しい足音だけが、彼の内側で煮え立つ苛立ちを代弁しているようだった。

家に着くなり、カシウスは背を向けて使い古された槌を握り直そうとした。ミリアムはその背中に向かって、静かに、けれど逃げ道を塞ぐように問いかけた。

「兄様、先ほどのお話……『忘却の聖櫃』とは一体何なのですか?」

「……知らん」

「では、『イスカリオテの盟約』は? 誰が結んだ約束なのですか」

「知らんと言っているだろう。……仕事に戻れ」

カシウスの答えは短く、突き放すように冷たい。けれど、その強張った肩のラインが、嘘をつく時の彼の癖であることをミリアムは見逃さなかった。

「本当は、すべて知っているのでしょう? 隠しても無駄です。私の目は、不純な沈黙を誤魔化せはしないわ」

「……いい加減にしろ!」

カシウスが激昂したように振り返った。その瞳には、ミリアムを圧伏しようとする鋭い光と、それを上回るほどの「恐怖」が宿っていた。

「お前のような子供が踏み込んでいい領域ではないと言っているんだ。黙って、俺の後ろにいろ」

いつもなら、その剣幕に身を竦めていたかもしれない。けれど、今、彼女を突き動かしているのは、真実を量らずにはいられない鑑定士としての業だった。ミリアムは逃げずに、すっと居住まいを正した。

「敬愛する兄様。私の、大切なお兄様……」

努めて冷静に、けれど一歩も引かぬ意志を込めて、ミリアムは彼が守り続けてきた「子供の私」を自ら否定してみせた。

「あなたが私のことをどれほど大事にして、守ってきてくれたか、私は十分にわかっています。でもね、兄様……私はもう、あのガブリエル様の受胎告知おとぎばなしを信じて、ただ奇跡を待っているような子供ではないのよ」

カシウスの眉間に、深い皺が寄った。その程度の反抗なら、まだ想定の範囲内だっただろう。しかし、ミリアムは禁忌の扉を蹴破る言葉を、容赦なく放った。

「……私、知っているわ。私の父様は、あなたの『師匠』だったのでしょう?」

その瞬間、世界の音が消えた。

カシウスは幽霊でも見たかのように目を見開き、信じがたいものを見る目でミリアムを凝視した。

「……なぜ、それを」

震える声。それは、彼が長年守り続けてきた堅牢な城壁が、内側から崩壊した音だった。

カシウスは握っていた槌をその場に落とし、ミリアムの前に立つとその両肩を掴んだ。強靭な職人の指先が、肩に深く食い込む。

「痛いわ、兄様……離して」

「……お前の言う通りだ。俺はお前が大事だ」

カシウスはミリアムの懇願を撥ね除け、呪縛を解くように一言ずつ言葉を絞り出した。その瞳には、今まで見たこともないような激しい情念と、濁った悲哀が渦巻いている。

「だが、俺にとって、お前がどれほど大切か。……お前はまだ、何も分かっていない。お前は、俺の最愛のアハティと同じ名を持つ、あの人の娘だ。姉さんがこの世に遺していった、俺のたった一つの光なんだよ」

ミリアムの母。そして、カシウスにとっては最愛の姉。

語られる言葉の重みと、狂おしいまでの親愛。ミリアムは悟った。カシウスにとって自分は、姪である以前に、失われた姉の「写し身」そのものなのだと。

「お前には、この世界の汚濁など何一つ見せたくなかった。神に見捨てられたようなこの砂漠で、お前だけには清らかな光のままでいて欲しかった。だからあいつのことも、血塗られた一族の業も、すべて墓まで持っていく積もりだったんだ」

カシウスは一度瞼を閉じ、血を吐き出すような覚悟で唇を戦慄かせた。

「お前の言う通り、お前の父は俺の師だ。ベツアレムの一族の中でも、最も神に近い腕を持つと言われた至高の職人……。あの人と家族になれたことは、俺の人生における唯一の誇りだった」

だが次の瞬間、カシウスのかおから光が消え、深い憎悪の影が落ちる。

「……けれども、あいつはすべてを裏切った。あいつには、相応の報いが必要だ。一族の矜持にかけて、この手で必ず――」

ミリアムは身を震わせながらも、逃れられない予感とともに問いを投げた。

「……一体、父様は何をしたの?」

カシウスは、遠く荒野の果てを凝視するように、ひどく荒んだ目を向けた。

「あいつは姉を――お前の母親を殺したんだ。そして逃げた。お前も、弟子だった俺も、一族の誇りも、そのすべてを泥にまみれさせてな」

天幕の中には、澱んだ水底のような不穏な空気が満ちていた。

ナタンは、まだ戻らない。いつもなら、彼がこの場の微かな揺らぎを敏感に察して、和やかな光を灯してくれただろう。けれど今はむしろ、不在であることに安堵している自分がいた。これ以上、あの澄んだ瞳に余計な影を落としたくはなかったから。

兄の言葉を突きつけられた瞬間、思考は白磁のように凍りついた。鑑定士としてあらゆる真実を峻別してきたミリアムの眼が、目の前の兄が放つ言葉だけは「偽物であってほしい」と激しく拒絶していた。

カシウスは、己の激情が妹の魂を泥で汚していることにようやく気づいたのだろう。その鋭かった眼光は急速に解かれ、痛々しいほどの慈愛へと塗り替えられていく。肩を掴んでいた強引な力は消え、彼は震えるミリアムを、壊れやすい硝子細工を扱うように優しく、包み込むように抱きしめた。

「……すまない。忘れてくれ、ミリアム。こんな話、お前は知らなくていいんだ。いつまでも俺を照らす、清らかな光でいておくれ。俺の可愛い、小さなミリアム」

兄の厚い胸板の温もりを感じながらも、ミリアムの心の底には、ひたひたと冷たい水がせり上がっていた。一度溢れ出した毒は、もはや天幕の中から消え去ることはない。

その気配を察したのか、ぐずり続けていたサロメがようやく深い眠りに落ちた。ミリアムは腕の中にある小さく柔らかな体温に、かろうじて己の正気を繋ぎ止めていた。

(兄様からすれば……私も、こんな風に見えているのかもしれない)

自分はもう大人で、真実を量る天秤を手にしているつもりだった。けれど、突きつけられた事実は、ミリアムの浅はかな自負を無残に打ち砕いた。父が母を殺し、職人の誇りを捨てて逃げたという絶望。それは確かに衝撃だったが、それ以上にミリアムを打ちのめしたのは、カシウスがこれまでたった一人で背負い続けてきたものの重さだった。

復讐心、底なしの悲しみ、そしてミリアムたちを守り抜かなければならないという、呪縛に近い義務感。

ミリアムは、その重みの欠片さえ分かち合えていなかった自分を、これほどまでに不甲斐なく、幼いと感じたことはなかった。

(兄様のために、私にできることは何もないの?……私の、たった一人の兄様のために)

カシウスは明朝、死の要塞マカイロスへと旅立つ。

本当なら、妹として旅の支度を手伝い、甲斐甲斐しく世話を焼いて送り出してあげたかった。けれど、あの凄惨な告白の余韻が支配する中では、かけるべき言葉さえ見失い、ただ遠ざかる背中を網膜に焼き付けることしかできなかった。

天幕を揺らす夜風は、もはやため息の音さえ立てず、ただ死海の底のような冷たさで、沈黙を塗り潰していた。

重苦しい思考の海を彷徨っているうちに、気がつけば夜は明け、白々と朝の光が天幕を刺していた。

ふと横を見ると、カシウスの姿はもうどこにもない。

カシウスも、ナタンもいない家は、驚くほど広くて寒々としていた。

ミリアムはそっと身を起こすと、まだ眠っているサロメの幼い額に、祈るような接吻きすをひとつ落とした。

* * *

サロメを連れ、ミリアムは賑やかな市へと繰り出した。

色とりどりの布や香辛料の匂い、商人たちの野太い声が飛び交う。その雑踏の中で、ミリアムの目はふと、一軒の革細工屋で止まった。

そこには、ナタンに買ってやりたいと思っていた丈夫な革の袋が並んでいた。

(本当なら、みんなでここに来るはずだったのに……)

ナタンが目を輝かせ、カシウスがそれを見て鼻を鳴らし、サロメがリボンを強請る。そんな当たり前の幸福が、今は遠い砂嵐の向こう側に消えてしまったかのように感じられ、胸が締め付けられるように切なくなった。

ふと、市の中心から騒がしい人だかりの熱気が伝わってきた。

「おい、見たか! あの井戸だ。さっきまで涸れ果てていたはずなのに、一人の盲人が手を入れた途端、水が溢れ出し、しかもその水に触れた者の病が癒えたっていうじゃないか!」

群衆が口々に「奇跡だ」「救い主の御業だ」と騒ぎ立てる。

サロメがミリアムの服の裾をぐいぐいと引っ張り、期待に満ちた瞳で自分を見上げた。

「ねえ、姉様! 今のも『仕掛け』があるんでしょ? 早く、いつものみたいにあの奇跡の謎を解いてみてよ!」

いつもなら、ミリアムは鑑定士としての知的好奇心を隠さず、その裏にある物理的なトリック――地下水脈の変動や、サクラによる演出――を即座に見抜いていただろう。けれど、今の彼女にそんな気力は残っていなかった。

「……もう、そういうのはいいの、サロメ。全ては神様の御心のままなのよ。私たちが暴いていいことなんて、何一つないの」

投げやりな、そして諦めに満ちた言葉だった。自分自身の運命の鑑定さえ、もうできなくなっている。

ミリアムがサロメの手を引いてその場を立ち去ろうとした、その時だ。

「早すぎる幕引きだね、名鑑定士エグゼゲテス。まだ舞台には、暴かれるべき嘘が山ほど積み上がっているというのに」

聞き覚えのある、涼やかでいて、脊髄を撫でるような不吉な響き。

振り返ると、そこには雑踏の熱狂を冷笑するように、ただ一人「静止した時間」の中に立つヨシュアがいた。彼は手にした銀の杖を軽く回し、まるで今しがた天から舞い降りたかのような優雅な所作で、人混みを割って歩み寄る。

その黄金の瞳が、ミリアムの心の空虚を覗き込むように、愉悦に細められた。

「さあ、見せておくれよ。君のその美しい瞳で、この世界に満ちた滑稽な『奇跡』の化けの皮を剥ぎ取る瞬間を。……それが僕たちが結んだ、血よりも濃い契約の対価だったはずだ」

ミリアムは立ち止まり、黄金の瞳を持つ少年を真っ向から見据えた。その視線には、昨日までのような迷いや怯えはない。ただ、冬の夜空のような澄み切った決意だけがあった。

「もう、鑑定はやめだわ。ヨシュア、あなたとの契約もこれで終わりよ。私はもう、十分にあなたの望む通りに踊ったはずでしょう?」

サロメの手を握る力を強め、ミリアムは自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。

「私、どうかしてたわ。あなたの口車に乗って、奇跡の裏側を暴くことに酔っていた……。でも、それが無駄だったとは言わない。おかげで目が覚めたもの。この子やナタン、そしてカシウス兄様。彼ら以上に守るべき『本物』なんて、この世のどこを探してもありはしないのだと、ようやく骨身に染みて気がつくことができたんだから」

鑑定士としての「眼」を捨てる。それは自分の魂の一部を切り離すような痛みを伴うはずだったが、不思議と心は軽かった。

ヨシュアは、ミリアムの言葉を遮ることなく、面白そうに小首を傾げて聞いていた。かつて、賢王ソロモンが七十二の悪魔を封じたというが、今、ミリアムが断ち切ろうとしているのは、それよりもさらに根深く、甘美な地獄の呼び声だった。

ヨシュアは、大げさに両手を広げ、天を仰いで笑った。

「素晴らしい! 『真理はあなたたちを自由にする』。……ああ、実に見事な解釈だ、ミリアム。君は真実を見通すことで、己を縛っていた『知』という名の呪いから、自力で脱獄してみせたというわけだ」

彼はふっと歩みを止め、ミリアムの耳元へ、蛇が這うような滑らかな動作で顔を寄せた。

「いいだろう、契約は完了だ。君は自由だ。……だが、忘れないでおくれ。僕が君に与えたマカイロスの秘密は、君が捨てたつもりでいる『過去』と、今もどこかで繋がっている。……ふふ、報酬は受け取っておくよ。君が今日ここで捨てた『輝かしい孤独』という名の才能、僕が大切に標本にしておこう」

彼は燕が身を翻すような軽やかさで数歩下がり、人混みの熱気へと溶け込んでいく。

「さようなら、愛しきミリアム。どうかその『家族』という名の小さな砂の城で、束の間の幸せに溺れるといい。……僕は、あの聡明な兄様に、心からの感謝を表するよ。……また会おう。審判のラッパが鳴り響く、その夜に」

その時、ミリアムの胸に鋭い棘のような違和感が突き刺さった。

「待って。どういうこと……? あなたがなぜ、カシウス兄様に感謝なんてするの?」

立ち止まったヨシュアは、まるで計算通りの台詞が返ってきたことを喜ぶように、ゆっくりと振り返った。黄金の瞳が、ミリアムを捕らえて離さない。

「なぜって……? 決まっている。彼は、自らの魂をまきとしてくべ、君の幸福という名の、あまりにも儚い灯火を守ろうとしたからさ。その無駄で、美しく、そして致命的な『自己犠牲』という名の決断。……君の未来を思えば、感謝の言葉も足りないくらいだよ」

「 何を言っているの?兄様は仕事へ行ったのよ。族長の命で、一族の誇りを取り戻すために」

ヨシュアは、今度は隠すことなく、その優雅な歩調でミリアムのパーソナルスペースを侵食するように歩み寄る。その声は、白昼の喧騒を凍りつかせる、深淵の冷気を纏っていた。

「ミリアム。君のその鑑定眼は、愛という名の曇り硝子に遮られて、何も映してはいないようだね」

彼は銀の杖の先で、ミリアムの足元の砂を無造作に、円を描くように撫でた。

「ケリヨトの地から運ばれた今回の『商談』……。あれは、領主ヘロデ・アンティパスが仕掛けた、血の匂いのする罠だよ」


表紙イラストをpixivに掲載しています。


朗読版はyoutubeにあります。

https://www.youtube.com/playlist?list=PL8BNa9czmG5HRY9yC-7O8NnwODXAXGjZe

【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。

※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。

※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。

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