第1部3 初恋と贄(にえ)の迷宮②
ぷつりとランプの火が消され、天幕の中には、夜の帳を深く煮詰めたような沈黙だけが残った。やがて、隣から穏やかな寝息が聞こえ始める。
幼いあの日、そして今この瞬間にナタンがくれた「大好き」という言葉。それがミリアムの胸を、甘く、切なく締め付ける。
ーーああ、そうか。自分が幼いあの日からずっと、この子に抱き続けていたこの感情は……
ミリアムは、自分の中にあったその答えをようやく認めた。どれほど希少な宝石も、歴史に名を残す遺物も、今の彼女にとっては、この少年の寝息ほど心を震わせる価値を持たない。
彼女は眠るナタンの頭を壊れ物を扱うように引き寄せると、その額に、契約の印を刻むような静かな接吻を落とした。
「おやすみなさい、ナタン。あなたが目覚める世界が、どうか優しい光で満ちていますように」
*
暗闇の中、ナタンの寝顔を見つめるミリアムの瞳は、かつてないほど強い意志を宿して澄み渡っていた。
自身の胸に空いた深い穴。そこには、喪われた父への思慕や、鑑定士としての尽きせぬ探求心が渦巻いている。けれど、その穴を埋めるために支払う対価が、隣で穏やかな寝息を立てるナタンの命であっていいはずがない。
ナタン、サロメ、そして不器用な愛で自分を育ててくれたカシウス。彼ら以上に大切なものなど、この世界のどこを探しても存在しないのだ。
ヨシュアの言葉は、まるで麻薬のように甘く、刺激的だった。けれど、それは結局のところ、自分を「向こう側」の深淵へ引きずり込むための罠に過ぎない。
今夜、もしまたあの風のささやきのような声が届いても、二度と天幕の外へは出ない。彼を拒絶し、その黄金の瞳が映し出す呪われた未来ごと、追い返してしまおう。ミリアムは闇の中で、固く、冷たく、鋼のような決意を固めた。
(明日は、サロメも連れて、みんなで市に行こう)
ナタンには新しい革の袋を、サロメには鮮やかな色のリボンを買ってやろう。自分たちの身の丈に合った、泥臭くも愛おしい「現実」を抱きしめて生きていくのだ。
そんな温かな計画を頭の中で描きながら、ミリアムは数日ぶりに、何者にも脅かされない安らかな眠りの底へと落ちて行く。。
(……さよなら、ヨシュア。もう、あなたの言葉には惑わされない)
* * *
目が覚めたとき、天幕の中はすでに朝の眩い光に満たされていた。
けれど、隣に眠っていたはずの、あの驚くほど熱かった掌の温もりは、どこにもない。
「ナタン……?」
名前を呼んでも、返ってくるのは乾いた静寂だけだった。ただ、外からはカシウスが槌を振るう「カン、カン」という、冷徹なほど規則正しい音だけが響いてくる。
ミリアムは胸のざわつきを抑えきれず、乱れた髪のまま外へ這い出した。
「兄様。ナタンがいないの……どこに行ったか知っている?」
カシウスは槌を止め、煤で汚れた手で額の汗を拭った。逆光の中に立つその表情は、深い陰影に沈んでいて読み取れない。けれど、槌を握る拳の不自然な力みが、彼の葛藤を饒舌に語っていた。
「……使いだ。族長直々のな。夜明け前に呼び出されて、そのまま出かけていった」
「族長の、使い……?」
「別に珍しいことじゃない。男衆が族長に奉仕し、使いを言いつけられるのはこの一族の掟だ。……心配するな、じきに戻るだろう」
確かに、それは珍しいことではなかった。一族の若者が修行の一環として、あるいは儀式の準備として、数日家を空けるのは日常の光景だ。
けれど、昨夜のあの空気を――。
信仰にも似たナタンの澄み切ったあの瞳を思い返すと、胸の奥に、名伏しがたい淡い熱が揺らめいた。
それは、見慣れたはずの日常が、ふとした瞬間に全く別の相貌を見せたことへの戸惑いだろうか。あるいは、心の奥底で静かに積もっていた何かが、ついに音もなく崩れ始めた予兆だったのか。
「そう……残念だわ。今日は、みんなで市にでも行こうと思っていたのに」
カシウスの低く湿った声が、朝の光を遮るようにミリアムの前に立ちはだかった。
「市か。それはまた今度にしておけ。……それとな、ミリアム。別件で俺も呼ばれている。そして――お前もだ」
*
「私も……?」
自分の耳を疑った。
家長であるカシウスが呼ばれるのは当然だ。修行中の身であるナタンに声がかかるのも理解できる。けれど、まだ「守られるべき娘」であるミリアムが、族長から直々に召集されるなど、これまで一度もなかったことだ。
「族長様が、私に何の用があるというの?」
その問いは、朝の冷え切った空気の中に吸い込まれ、答えは返ってこなかった。
カシウスが再び槌を振り上げたとき、その音は、まるでミリアムたちの穏やかな生活の終わりを告げる弔鐘のように、ガリラヤの空へ高く、鋭く響き渡った。
*
ベツアレム一族の天幕は、常にキャラバンの端、風上に据えられている。
煤や火花を嫌う民への配慮という名目だが、それは「神の火」を扱う職人たちを畏怖し、敬遠するための暗黙の隔離だった。
天幕が密集する中心部へ向かうにつれ、肌に触れる空気が変質していく。
羊を追う少年、泥にまみれて遊ぶ子供、世俗的な笑い声を上げる女たち。私たちがその横を通り過ぎるたび、日常の音は不自然に途切れ、無数の視線が棘のように突き刺さった。
(……ああ、いつもの視線だわ)
私は無意識に、首元を隠すように外套をたぐり寄せた。
キャラバンの人々にとって、私たちは「仲間」ではあっても「同胞」ではない。数百年、砂漠を彷徨いながらも混じり合うことのない、純血の職人。
神殿の聖櫃を修復したという伝説と、火を操る奇怪な術を持つと言われる、この巨大な群れの中の「聖域」。
敬われながらも、疎まれる。その境界線は、朝の光の中でも残酷なほど鮮明だった。
*
族長の天幕を潜った瞬間、ねっとりと肌にまとわりつくような熱気が二人を襲った。
外の乾燥した風とは無縁の、濃密な獣の匂い。そこに古びた香料と、どこか血の混じったような生温かい湿り気が混じり合い、ミリアムの肺を圧迫する。
天幕の奥、揺らめく灯火の中央に鎮座しているのは、このキャラバンの絶対的な支配者、族長エギンだ。椅子に深く腰掛けたその巨躯には、無数の死線を越えてきた証である古傷が、まるで呪わしい地図の筋のように刻まれている。彼が呼吸をするたびに、天幕の中の空気が重く震えるようだった。
「来たか、ベツアレムの末裔よ」
地響きのような重厚な声。だが、ミリアムの意識をより強く引きつけたのは、その傍らに控える異質な影だった。
豪奢な法衣を纏い、柔和な聖者のような笑みを浮かべている男。一見すれば穏やかな賢者のようだが、その瞳の奥には獲物を品定めする猛禽の鋭さと、底知れぬ貪欲さが泥のように澱んでいた。
二人の姿を捉えるなり、男は音もなく立ち上がり、指先まで神経の行き届いた動作で慇懃に頭を下げた。
「お初にお目にかかります。私はヨカナン様にお仕えする者で、アンドレと申します」
*
整えられたその声は、甘く、それでいて乾いた砂の上を這う蛇の這い跡のように、ミリアムの耳に不気味な寒気を走らせた。アンドレは唇の端を微かに吊り上げ、滑らかな口調で続ける。
「本日、私は『イスカリオテの盟約』に従い、エギン様に良き知らせを運んでまいりました。……兼ねてよりご依頼のあった『物』の所在が、ようやく、光の下に晒されたのです」
アンドレの視線が、値踏みするようにミリアムとカシウスを撫でる。
「かの至宝は、ヘロデ大王の狂乱の時代に民より奪われ、今は死海のほとり、断崖にそそり立つ要塞マカイロスの奥深くで眠っております。……幾重にも塗り重ねられた、血の呪いと封印と共に」
「マカイロス――」
その名を耳にした瞬間、ミリアムの体は石のように硬直した。
「地獄」の別名を持つその土地は、神に見捨てられた不毛の断崖だ。今はどの王の支配下にもなく、ただ死の気配だけを孕んで、澱んだ死海を傲慢に見下ろしている。
そこを通る旅人は、例え軍隊であっても二度と生きては戻らぬと言われ、迷い込んだ者は一晩で物言わぬ骸の山に変わり果てるという。月光の下、風が吹くたびに断崖から聞こえるのは、数千の亡者の呻き声――。生者が足を踏み入れれば、その魂はたちまちに吸い尽くされ、呪いの一部に取り込まれる。そんな伝説がまことしやかに囁かれる、呪われた聖域だ。
「……かの至宝とは、一体何なのですか?」
震える声を抑え、ミリアムが問いかける。すると、アンドレの瞳が獲物を定めたように、昏く、鈍い輝きを放った。
「決まっているではありませんか。聖なる火を絶やさぬベツアレムの一族であるあなた方なら、夢にまで見たはずだ。……古の知恵を封じ、触れる者すべてを狂乱の渦に叩き落とす至宝――『忘却の聖櫃』のことを」
*
(――忘却の聖櫃!?)
昨夜、ナタンが口にした不吉な予感が、氷の棘となって背筋を走る。動揺など気にも留めず、アンドレは続ける。
「……案内は我々が務めます。ですが、難攻不落の要塞。その罠と謎を解き明かすには、必ずや鑑定士の力が必要になる」
アンドレはそこで言葉を切り、値踏みするようにミリアムを見つめた。
「……お嬢さん。あなたのような、若く清廉な『目』がね」
「買いかぶりです。私にはそのような大役は……」
「謙遜は必要ありません」
アンドレは一歩、淀みのない動作でミリアムとの距離を詰めた。
その所作は優雅で、それでいて逃げ道を塞ぐような不思議な圧迫感がある。
「その『祈り』とやら、預かろう。……ただし、赴くのは俺一人だ」
カシウスはミリアムの肩をそっと抱き寄せ、背後へ隠すようにして一歩前へ出た。突き出されたアンドレの手を、カシウスは無造作に払うことはせず、ただ岩のような拳を握りしめ、静かな眼差しで男を射抜いた。
「ベツアレム家において、鑑定と細工は不可分なもの。だが、妹をこれ以上、あんたたちの不吉な遊戯に付き合わせるつもりはない。一族の秘宝に触れるというのなら、家長であるこの俺が、職人の誇りにかけてその役割を全うしてやる」
カシウスの声に荒らげた様子はなかったが、その一言一言には、妹の身代わりとなって奈落へ飛び込もうとする、男の揺るぎない覚悟が籠もっていた。
「……ミリアムはここに残す。それが、俺がこの依頼を受ける唯一の条件だ」
アンドレの笑みが、一瞬だけピクリと歪む。蛇のような粘り気のある静寂が天幕を流れたが、カシウスはそれを柳に風と受け流し、奥に座る族長エギンを真っ向から見据えた。
「族長。それで、相違ありませんね?」
エギンは重々しく頷き、野心に満ちた低い声で応じた。
「家の中のことは、家長であるお前が決めるがいい。……『羊を追うのが杖であろうと、狼の牙であろうと、腹が満たされるならば砂漠の王は問わぬ』。聖櫃がこの手に戻るなら、私は道を選ばぬよ」
族長の非情な追認を受け、アンドレは、まるで何もなかったかのように再び聖者のような微笑みを貼り付けた。
「……承知いたしました。名高いベツアレムの家長自らがお越しくださるというのなら、これほど心強いことはありません。……ええ、もちろん。貴女のような美しい花を、砂塵舞う戦地へ連れ出すのは私の本意ではありませんでしたから」
アンドレは恭しく頭を下げたが、その口元には、獲物を独り占めできると確信した猟師のような、薄気味悪い笑みが張り付いていた。
「では、明朝出発です。カシウス様、マカイロスへ続く死海の喉首――エン・ゲディの岩屋でお待ちしております。……そこが、貴方の『職人の誇り』に相応しい、最高の舞台となることをお約束しましょう」
表紙イラストをpixivに掲載しています。
朗読版はyoutubeにあります。
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※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。




