第1部3 初恋と贄(にえ)の迷宮①
ミリアムは夢を見ていた。
それは、没薬の香りに包まれた父の背中の夢でも、遠い記憶の底に眠る母の夢でもない。
まだ「ナタン」という名が、彼女にとって家族の温もりと同義だった頃の夢だ。
あの日、キャラバンの族長に連れられて、一人の少年がやってきた。
少年の小さな手には、生まれたばかりの雛鳥のような妹の手が、壊さぬように、けれど決して離さぬように固く握られていた。少年の瞳を覗き込んだミリアムは、息を呑んだ。そこには、意志の強そうな光と共に、ローマの軍靴に踏みにじられた者特有の、激しい憎しみと炎、そしてすべてを諦めきったかのような絶望が半分ずつ点っていたからだ。
「カシウス、お前もそろそろ弟子を持って良い頃合いだ。この子らを己の兄弟として育てよ」
族長の言葉により、身寄りを亡くした兄妹はベツアレムの一族に引き取られた。兄一人しか家族がいなかったミリアムにとって、彼らは天から舞い降りた天使の来訪そのものだった。彼女は「姉様」としての自分に陶酔するように、甲斐甲斐しく世話を焼いた。
幼いサロメは、母親代わりとなったミリアムにすぐ懐いた。けれど、ナタンは違った。その小さな胸の内に、家を焼き、父を奪い、母を死へと追いやったこの残酷な世界への復讐心を、飲み込めぬ石礫のように、ただじっと喉の奥に溜め込んでいる。
しかし、夢の中のナタンは、そんな世界を憎む少年とはまるで違っていた。
「姉様、姉様」と、まるで雛鳥が親鳥を追うように、ミリアムのスカートの裾を掴んで離さない。
(そうだわ……いつからだったかしら。あの子のあの鋭い目が、こんなにも愛らしい光を宿すようになったのは……)
何か決定的な出来事があったはずなのに、夢の霞の中で思い出せない。ナタンはミリアムのスカートに顔を埋め、上目遣いで、とっておきの秘密を打ち明けるように囁いた。
「あのね、僕、姉様のことが大好きなんだ。だから、僕が大きくなったら……姉様のことをお嫁さんにしてあげるね」
それは、甘い蜜のような幸福の時間だった。
しかし、次の瞬間。
網膜に映る色彩が、暴力的な速さで反転した。
*
外。
空は、死を予感させるような不気味な鈍色に澱んでいる。
城壁を抜けた先、髑髏を思わせる醜悪なその丘へと続く道は、鋭い礫と、乾いた絶望に覆われていた。
その急勾配を、一人の男が這うようにして登っている。
背負わされた粗末な十字架の横木は、彼の剥き出しになった背の傷口を無慈悲に抉り、一歩踏み出すごとに、その重みが骨を軋ませる。額に嵌められた茨の冠からは、どす黒い血が幾筋も流れ落ちていた。
その後ろ姿に、ミリアムは見覚えがあった。
目眩がし、心臓が凍りつく。ナタンだ。
ナタンの周りには、幾人ものローマ兵が取り囲み、鞭が空を裂いて彼の肉を打つ。そのたびに彼の膝は震え、砂埃の舞う大地へと崩れ落ちる。
沿道を埋め尽くす群衆は「殺せ!」と叫び、唾を吐きかけていた。
なぜ、あの子がこんな目に。
ミリアムは叫び、追いかけようとするが、足が鉛のように重く、上手く動かない。そんな彼女に、ナタンが振り返り、血に汚れた口角をわずかに上げて微笑んだ。
「気にしないで、姉様。……姉様を、ベツアレムの誇りを守れるのなら。この身など、何度でも焦がしましょう」
そんな馬鹿な。あなたを失ったら、私は……。
ミリアムは必死の思いで彼がいた場所に辿り着くが、そこにはもう、彼の影さえない。
「上よ……もっと、坂の上まで行かなければ!」
心臓が破けるほどの速さで、丘の頂へと駆け上がる。
丘の頂には、三本の柱が、神を呪うかのように虚空へと突き立てられていた。
吹き抜ける風は、没薬の香りを遠くへ運び去り、代わりに、鼻を突くような生臭い鉄の匂いだけを残していく。
そしてミリアムは見てしまった。
十字架にかけられ、無残に打ち付けられているのが一体誰だったのか。
その正体を、鑑定士としての目が、脳が、魂が認識した瞬間――。
彼女の心は、熟した果実が地面に叩きつけられたように、散り散りに壊れていくのを感じていた。
* * *
「……姉様、姉様!」
その声に弾かれたように目を覚ます。
視界が開けると、そこには、心配そうに自分を覗き込むナタンの顔があった。
「一体どうしたの、そんなにうなされて……。ひどく汗をかいているよ」
その顔を見た途端、夢の残酷な結末と、目の前にある確かな熱が混じり合い、ミリアムの目から堰を切ったように涙が溢れ出した。
彼女は言葉にならない叫びを飲み込み、そのままナタンの体を、壊れ物を抱くような勢いで胸に強く抱きしめた。
「……姉様?」
わけもわからず、目を白黒させるナタン。その腕の細さ、衣から漂う生活の匂い、そして生きた人間の温もり。
ミリアムは、それからその胸に顔を埋め彼の心音を確認する、ただひたすらに、自分を現実へと繋ぎ止めるための熱を求めていた。
闇が、深淵のような静寂とともに部屋を支配している。
ナタンを抱きしめていた腕をゆっくりと解きながら、ミリアムは自分の早鐘のような鼓動が、彼の穏やかな呼吸に同調するように収まっていくのを感じていた。
なぜ、あんな惨烈な夢を見たのか。その理由は、鑑定するまでもなく明白だった。
ヨシュアだ。
「忘却の丘」で、雨に濡れながら彼が放ったあの残酷な予言。呪いのようにミリアムの脳裏に刻まれた「ナタンの死」という未来の断片が、彼女の深層心理で牙を剥き、最悪の形をとって現れたのだ。
ミリアムがようやく落ち着きを取り戻したのを見て取り、ナタンが暗闇の中で優しく、いたわるような声をかけた。
「……姉様。もし眠れないなら、少しお話でもする?」
その提案に、ミリアムは小さく、子供のように「うん」と頷いた。
*
普段は一家を支える鑑定士として、あるいは厳格な姉として振る舞っている自分が、今は弟に縋るように甘えている。その情けない姿に、少しだけ頬が熱くなるのを感じたが、今はその気恥ずかしさよりも、彼の声を聞いていたいという欲求が勝っていた。
ナタンが小さなランプに火を灯すと、天幕のなかに淡い黄金色の光が灯り、二人の影を布地にぼんやりと映し出した。
並べられた寝具。頬を寄せ合うようにして横たわる、姉と弟。
それは、彼らがまだこのキャラバンに引き取られたばかりの頃から、何一つ変わらない光景だった。
故郷を焼かれ、両親を亡くし、夜の静寂を恐れて泣きじゃくるナタンを、ミリアムはいつもこうして隣で励まし、眠りにつくまで物語を語って聞かせたものだ。
「……不思議ね。昔は、私がこうしてあげないと、あなたは怖がって目を閉じることもできなかったのに」
ミリアムの言葉に、ナタンは困ったような、それでいてどこか誇らしげな苦笑いを浮かべた。
「今は逆だね。でも、僕は嬉しいんだよ。たまにはこうして、僕が姉様を守る番になれるのが」
ランプの小さな火影が揺れる。
ナタンのその横顔は、夢の中で見たあの受難者の面影を完全に払拭するほど、穏やかで慈愛に満ちていた。
だが、その穏やかさこそが、ミリアムの胸の奥にある「予言」という名の棘を、さらに深く沈ませていく。
(あんな不吉な話、聞かなかったことにしてしまいたい)
胸のざわつきを誤魔化すように、ミリアムはわざとらしく軽い口調を選んで言った。
「そういえば、兄様がこぼしていたわよ。……ナタンの鏨の運びが、最近少し鋭すぎるって。追い越されるのが怖くて、夜も眠れないんじゃないかしら」
「え、兄様が……? 本当に?」
ナタンの瞳が、ランプの火を映して、以前のような無邪気な光を宿す。ミリアムは少しだけいたずらっぽく、カシウスのあの低い声を真似てみせた。
「『言葉よりも槌の音で語るのが職人だ』なんて格好つけているけれど。本当は、あなたの鼻が伸びすぎて天幕を突き破るのを心配しているだけなのよ」
「……あはは! そんな心配はいらないよ。なんたって僕はまだ、重心から二歩足りないからね」
重心からあと二歩踏み込め――。それはカシウスが口癖のように繰り返す、ナタンへの厳しくも愛のある忠告だ。
その言葉に、二人は顔を見合わせてクスクスと笑い合った。
冷たい不吉な予感に支配されていた天幕の空気が、わずかに解けていく。そこには確かに、かけがえのない、いつもの穏やかな「生活」が戻ってきたかのように見えた。
「……僕だって、ベツアレムの名を継ぐ男だからね。恥ずかしい仕事はできないよ。いつか、あの伝説の聖櫃みたいな……歴史に残るような仕事ができたら、兄様も降参してくれるかな」
ナタンが冗談めかして胸を張る。その何気ない夢が、今のミリアムには酷く眩しく、そして痛かった。
「そうね。……ナタンなら、いつか聖櫃の翼を休めるケルビム様の、羽一枚くらいなら任せてもらえるかもしれないわ」
「えー、たったの羽一枚? 道は遠いな」
ナタンは仰向けに倒れ込むと、天井の布地を見つめて可笑しそうに笑った。
クスクスと笑い合っていた余韻がふっと途切れたとき、ナタンの瞳からふざけたような輝きが消え、しんとした静かな光が宿った。
「ねえ、姉様……ずっと不思議に思っていたんだ。契約の石版を納めたあの『聖櫃』は、一体どこへ消えてしまったんだろうね?」
*
ミリアムは少し驚きながらも、鑑定士として積み上げてきた知識の書棚を紐解くように語りかけた。
「それは……世界で最も有名な、失われた謎の一つよ。かつて預言者モーセが神から授かった十戒を納め、ソロモン神殿の最深部、人の立ち入りを禁じられた『至聖所』に鎮座していたという黄金の函」
ミリアムの声は、古の物語を読み聞かせるように、静かに天幕の中に響く。
「けれど、バビロニアの軍勢によってエルサレムが灰塵に帰したあの日、その箱は歴史という名の砂漠の中へ、忽然と姿を消したの。幾多の王や略奪者が血眼になって探し求めたけれど、誰もその影さえ掴むことはできなかった」
語り終えたミリアムは、ふと、隣に座るナタンの横顔に目を留めた。彼はミリアムの説明を静かに咀嚼しながらも、そのさらに奥にある「誰も見たことのない風景」をじっと幻視しているようだった。
「……略奪されたのか、地底深くへ秘匿されたのか、あるいは、天へと還ったのか。誰も知らない、忘れ去られた黄金の箱……」
彼はゆっくりとミリアムの方へ顔を向けると、独り言のような、けれど確かな予言を孕んだ声で言った。
「かつてベツアレムの一族が創り出した聖櫃。もし、その箱が今もどこかで、誰にも知られずに忘却のまま時を止めているとしたら……。姉様の中に眠る血が真に求めるものは、その中にあるのかもしれないね」
*
その言葉にミリアムの心臓は止まるかと思った。
忘却の丘の喧騒の中で、ヨシュアがミリアムの耳元に滴らせた、毒のような囁き。
――忘却の聖櫃。
ランプの火が、一瞬だけ不規則に揺れた。
ヨシュア、あの黄金の瞳をした予言者の毒はミリアムだけでなく、その隣で自分を盾にしていたナタンの魂にまで、逃れられぬ呪いとしてその名を刻みつけたのだ。
ミリアムは息を止め、弁解の言葉を探そうとした瞬間、ナタンは穏やかな、しかし岩のように揺るぎない声で続けた。
「あのね、姉様。僕、知ってるよ。姉様が夜、ヨシュア様とどこかへ行っていること。……でもね、別にいいんだ。兄様に言いつけたりしないし、何をしてるかなんて聞いたりしない」
ナタンはミリアムの手を握る力をわずかに強め、その瞳をまっすぐに見つめた。そこには、夢の中で見た憎しみや絶望の色など微塵もなく、ただ深い海のような信頼が湛えられている。
「姉様は、姉様がやるべきだと思うことをして。姉様が信じる道を進んでよ。たとえそれが、どんなに暗い場所へ続いていたとしても……僕が、何があっても姉様を守ってあげるからね」
その献身。その無償の愛。
それが重ければ重いほど、ミリアムの胸には「予言」のナイフが深く食い込んでいく。
(やめて、ナタン。そんな風に私を愛さないで。その愛が、あなたを死へ追いやると、あの男は言ったのよ……!)
叫びだしたい衝動を、ミリアムは唇を噛んで抑え込んだ。
ナタンは、ランプの火が消え入りそうに揺れる中、子供の頃に戻ったような、いたずらっぽくも真剣な、とっておきの秘密を打ち明けるような顔をして囁いた。
それは、かつて夢の中で、小さなナタンがスカートの裾を掴みながら口にしたあの言葉。
それは、凄惨な処刑場へと続く呪いの予言などではなかった。この閉ざされた天幕の中で、二人の絆を永遠に繋ぎ止めるための、唯一にして至高の魔法。
「だって僕、姉様のことが大好きだから。世界で一番、大切なんだ」
表紙イラストをpixivに掲載しています。
朗読版はyoutubeにあります。
https://www.youtube.com/playlist?list=PL8BNa9czmG5HRY9yC-7O8NnwODXAXGjZe
【60万字完結済】水・金 21時更新。一旦、前編30万字分を公開予定。以降の公開継続は、皆様の反響次第で検討します。
※初回3話公開。最初の1週間は毎日更新の予定。
※本作はAIを執筆補助に使用していますが、プロットおよびキャラクター設定はすべて作者によるものです。




