ヴェローナの太陽
草原の穏やかな丘の上。遠く、陽光に煌めく海が見える墓地にリカルドは立っていた。
目の前の墓石には、「エレナ」と書かれている。
リカルドは黒いスーツの襟を正し、手には白いデイジーの花束を持っていた。
風が吹くたび、可憐な花の香りが排気ガスの混じった風に乗って、自由を知った鳥のように遠くへと運ばれていく。
手に持った花をエレナの前にそっと置き、リカルドは静かに見つめた。
何も言わず、ただじっと。
沈黙の対話を経て、リカルドが立ち去ろうとした時だった。遠くから二人の人影が寄り添うようにゆっくりと近付いてくる。
エレナの両親だった。父親は疲れ果てたように窶れ、その脇を華奢な母親が寄り添うように歩いている。
父親は始め、エレナの友人かと思い、手を上げかけたが、振り向いたリカルドの顔を見て何も言わずに殴りつけた。
弱々しい痛み。だが、リカルドにとってそれは、銃弾よりも重かった。
「何しに来た。お前と関わったせいでこの子は……! 二度と娘の前に現れるな!」
リカルドは何も言わず、赤くなった頬を押さえることなく小さく頭を下げて立ち去った。しかし、その背中へ、エレナの母親は小さく問いかける。
「どこへ、行くの?」
リカルドは歩みを止め、振り向くことなく答えた。
「……エレナの好きな、海へ」
それから歩みを再開し、一度も振り向くことなく丘を降りていく。
その時、一際大きく風が吹いた。
肩からデイジーの花びらが、頬を掠めて舞い上がる。その柔らかな匂いを、リカルドは肺の奥深くまで吸い込み、かすかに微笑んで歩いていく。
◇
ヴェローナの街並みは、記憶の中よりもずっと鮮やかだった。
エレナと歩き、行きたがっていたあのアレーナ近くの酒場もすでに携帯ショップに姿を変えている。街灯は新しく、古びた壁は塗り直され、街全体が整えられている。
やがてやって来たバスに乗り込み、窓から流れる街を見つめた。
父親がいたはずの場所も、今はどうなっているかわからない。だが、確かめる気はなかった。
アレーナを背後に、バスはコルソ・ポルタ・ヌオーヴァ通りを進む。
相変わらず車は窮屈そうに両脇に駐車され、洒落たカフェで談笑する人の姿が見える。中央線には、綺麗に整えられたツツジが行儀よく並んでいた。
「……いつの間にか、綺麗な街になってんな」
ふとバスの窓ガラスに写る自分と視線がぶつかった。殴られた頬は未だ熱を持ち、微かに赤くなっている。かつてこの街を逃げ出した若者とは、似ても似つかない深い傷を負っていた。綺麗になったこの街に、傷だらけの自分の姿はあまりにも不釣り合いだった。
小さく呟いたリカルドは静かに目を閉じた。
程なくしてヴェローナ駅へ降り立ち、駅のホームへと向かう。
列車が通り過ぎて、誰かの喚き声が遠くに聞こえる。列車の遅延を知らせる電光掲示板を見て、リカルドは忌々しげに舌打ちした。
「またかよ」
リカルドは大きくため息をつき、首元のネクタイを乱暴に緩めた。
すると、向かいのホームに滑り込む列車が激しい風を巻き起こした。埃っぽい排気ガスの混ざる風に乗って、微かにシチリアの潮風の匂いがした気がした。
流れゆく車列を見つめる。
やがて列車が通り過ぎ、視界が開けた。
向かいのホームにはボロボロの麻袋を背負い、不安そうに辺りを見渡す、薄金色の髪を束ねた青年がいた。
一年前のサンタ・ロザリアの夜と同じ、手にスケッチブックを大事そうに抱えて。
青年はリカルドの姿を見つけると、翡翠色の瞳を細めて柔らかく笑った。リカルドは驚きに目を見開き、そして、堪えきれないというように声を上げて笑った。
「……本当にお前は、救いようのないバカだな」
十二年の時を超えて、今度は間違いなく。
シチリアとハンガリー、このヴェローナの地で、ホームを挟んだ彼らの太陽はようやく、一つに結ばれた。




