まだ潮風は吹いている
古いカンツォーネが流れる店内、テーブルにはくすんだガラス瓶の中で灯る蝋燭の灯りが揺れている。
ヴェローナ駅のホームで再会した彼らは、近くのトラットリアにいた。
オリヴィエはボロボロの白いシャツに麻袋、スケッチブックをテーブルに置いて、照れくさそうにリカルドを時折盗み見ている。
リカルドはすでにネクタイを外し、シャツのボタンを二つほど開けてワインを飲んでいた
「全く。こんなとこまで追いかけるバカがどこにいんだよ」
「……ここにいます」
「ふざけてんのか?」
相変わらずぶっきらぼうにオリヴィエを毒付いているが、その顔は肩に掛かった重い荷物を下ろしたようにどこか穏やかだった。
目の前のボトルは安物のワインではなく、アマローネ。芳醇な葡萄の匂いが、リカルドの吐き出すタバコの煙に乗って香ってくる。
「……店はどうしたんだよ」
「ソフィアとマルコに、頼みました。すぐに連れ戻すから、それまで待っててって」
「……またソフィアを待たせてんのか。大層な恋人だな」
「こっ! 恋人、じゃないです……」
俯きながら赤面するオリヴィエの前に、やがてウェイトレスがポレンタを運んできた。
皿に乗った黄金色のコーンミールが蝋燭に輝き、サラミやハムの濃厚な匂いが漂ってくる。
オリヴィエは顔を輝かせ、スプーンでひと匙掬った。
コーンミールとともに、パルメザンチーズがとろけて、スプーンとの間に銀色の架け橋をつくっている。そのまま頬張ると、オリヴィエは大きな瞳を一層見開き、輝かせて笑った。
リカルドの顔を見て頬を膨らませ、飲み込んではまたすぐに次の一口を頬張る。
「……美味いか」
オリヴィエは頬張ったままの口でリカルドの顔を見つめ、無言で首を縦に振った。
何も言わず、けれど瞳を輝かせながら何度も口に運んで瞳を輝かせるオリヴィエの顔は、言葉はなくとも美味しいと言っているようだった。
ふと、十二年前の光景がリカルドの脳裏に過ぎった。
エレナとともに、深夜の人がいないバールで自身が作ったポレンタ。自分が知っている唯一の母の味。それをエレナに振舞った時、「これ、本当に美味しいね!」と彼女は笑った。
目の前の青年のように、黙って口に掻き込んではそのたびに瞳を輝かせていた。
思い出すだけで胸が締め付けられていたかつての記憶も、オリヴィエの食べっぷりを見ていると、不思議と柔らかな記憶へと変わっていく。
(……あぁ、そうか。あいつもこんな風に、美味そうな顔して食ってたな)
リカルドの口元が無意識に緩んだ。
自嘲でも、諦めでもない、心からの静かで、穏やかな笑み。
「あっ。今、リカルドさん笑いましたか?」
オリヴィエはスプーンの手を止め、翡翠色の瞳を丸くして覗き込んだ。
リカルドは慌てて目線を外し、アマローネのグラスを煽る。
「笑ってねぇよ。……お前の食い方が汚ねぇから呆れてただけだ」
「嘘だ。絶対、笑ってました。……もう一回、見せてくれませんか?」
「バカ言うな。さっさと食え、冷めるぞ」
リカルドは自身の皿からサラミやハムの肉を乱暴に押し付けると、照れ隠しのようにタバコに火をつけた。
オリヴィエは不満そうに口を尖らせながらも、目の前のサラミたちにまた嬉しそうにポレンタを口にする。
店内に流れる古いカンツォーネと、食器の触れ合う音が響いている。窓の外、遠くからは列車の汽笛と、クラクションが聞こえる。
目線を外して煙を漂わせるリカルドの横顔を、オリヴィエは見つめた。煙は窓から吹き込む風に攫われて、ポレンタの香りとともに流されていく。もう覆い隠すことも、見失うこともない。
「やっと、あなたに届いた気がします」
「何だそれ?」
「……なんでもないです」
オリヴィエは伺うようにして見るリカルドに小さく返事をして、窓ガラスへ視線を移した。ガラスの向こう、石畳を歩く往来を見つめる。
窓の外を行き交う人々は、これからどこへ向かうのだろう。どんな思いを抱え、どんな旅路を歩むのだろう。それが絶望でも、希望に満ち足りたものでも、きっと歩みを止めることなど出来ないのだ。
これからの二人の旅路を予感させるように、ポレンタの甘い香りが二人を包んだ。




