夜明け前
海岸沿い、背後の建設現場からは夜空を焦がすほどの火が上がり、騒ぎを聞きつけた警察と消防のサイレンが重なり合うように鳴り響いている。
潮風の届く木陰に隠れるように座り、リカルドとオリヴィエは、寄り添うようにして暗い海を見つめていた。
「お前、あの時のガキなんだってな」
「はい。両親が死んでから、僕はずっと、あそこで一人怯えていた。でも、あなたが僕を見つけてくれた」
「あん時は必死だっただけだ。ハージムに嵌められて、恋人が殺されるかもしれねぇって。……結局、間に合わなかったんだけどな」
切実な最後の呟きに、オリヴィエは黙って横顔を覗き見た。海を見つめるリカルドの瞳には、月明かりに反射する海が映っている。
「エレナさん?」
「……何でお前が知ってる?」
「前に、一緒に寝てた時。あなたが僕を、その名前で呼んでたから」
リカルドは驚きに目を見開き、やがて自嘲気味に笑った。
「マジかよ……そんなこと忘れろよ」
「忘れられません」
「頑固な奴め」
「お互い様でしょ?」
「……違いないな」
リカルドは転がしたハージムのコートを探り、無造作にタバコの箱を取り出した。そして、一本を満足げに咥えて火をつける。深く吸い込み、肺の奥へ転がすように煙を吐き出した。
「ハージムの野郎、タバコの趣味まで最悪だ。反吐が出るほど不味い」
吐き捨てるリカルドの言葉に、オリヴィエはようやく安心したように笑った。
「……なぁ、お前。どうやってシチリアに俺がいるって知った?」
知ってしまった過去と、合わない計算。辻褄を合わせるように、だが何の気なしに問いかけるように呟いた。
「それは、十年前にヴェローナで見たあなたを追って。そこで聞き取れたのが「シチリア」と「南」だった、から……」
その問いかけに、オリヴィエは少し俯き、弱々しく恥ずかしげに答えた。
「はぁ? それだけ? お前、本当にめちゃくちゃな奴だな……けど、一つだけ間違いがある」
「間違い?」
顔を顰めながら、心底不味そうに浅く煙を吸い込む。
「お前が見たのは俺じゃない。今目の前で転がってるこいつだよ。……十年前にはもう、俺はシチリアにいたからな」
「じゃあ、僕が追ってたのは、ハージムさん?」
「結局こいつに導かれて俺に会っちまった。普通は途中で諦めるか、死ぬぞ」
「でも、あなたに会えた。神様は僕を見捨てなかった」
「……悪趣味な神だぜ」
波音が段々と大きくなり、赤いサイレンの光が木々の隙間から差し込んでくる。
リカルドは不味いタバコを足裏で踏み潰すと、重い腰を上げた。脇腹や肩、全身が泥のように痛むが、もはや今までの重荷ではない。
「帰るぞ。……もうここは十分だ」
リカルドが差し出した、血とインクに濡れたその手。
オリヴィエは迷うことなくその手を取り、二人は夜明け前の暗闇の中へ、静かに姿を消した。
◇
シチリア、とある海辺の街。
戻って来た二人は始め、荒らされていたスタジオの片付けから始めた。
作業の途中、ソフィアがスタジオに戻る二人を見つけ、泣き叫びながらオリヴィエに駆け寄って抱きしめた。
変わり果てた傷だらけの二人の姿に子供のように泣きじゃくった彼女に、オリヴィエは何度も、消え入りそうな声で謝り続けた。
それから数週間、ソフィアやマルコ、カルラ、マリオの助けもあり、スタジオは再びその灯りを灯した。
朝はリカルドが焼いたブルスケッタを頬張り、オリヴィエが淹れるモカポットからコーヒーが香る。新調されたリネンカーテンは潮風に揺れ、換気扇がカラカラと回る音が朝の静けさに溶けていった。
マシンを調整するリカルドの横で、オリヴィエはスチール棚に置いたインク瓶や針を整理する。客が来れば、オリヴィエはリカルドとともにデザインを考え、少しずつ客の肌に触れる機会が増えていった。
いつも通り、だが確実に、オリヴィエはコンペの後から成長し、一人の彫り師としての歩みを始めていた。
あのメッシーナの架け橋は、架けられることなく泡沫に消えた。マフィアとの癒着が関係しているらしい。だが今となっては、二人にとって些細なこと。あのカラブリアでの出来事は、今や遠い過去の出来事として忘れかけていた。
二〇〇六年、四月。
マルゲリータの可憐な香りが窓から吹き込む朝のことだった。
その日も朝早く起きたオリヴィエが、コーヒーを入れにキッチンへ向かうと、そこには何の匂いもなかった。
トマトの酸味も、オリーブの清涼さも、パンの焼ける香ばしい匂いもしない。ただ窓から吹き込んだ風が通り抜けるばかりだった。
「リカルドさん……?」
返事などあるはずもなく、オリヴィエの声だけが広い室内で響く。
スタジオへ向かうが、主人のいないマシンはそのまま時を止めたように置かれていた。その作業台の上、無骨な工具で重石をするように、一枚のメモが残されていた。
少し出掛ける、いつ戻るかはわからない。
その間、店はお前に預ける。
それと、身分証はマリオに頼んだ。
ドメニコからもらった紙は捨てておけ。
……じゃあな。
それだけが書かれた紙を、オリヴィエは静かに見つめた。壁には、使い込まれた茶色い革ジャンがかかったまま。
裏口を確認すると、愛車のドゥカティもそのまま残されている。
リカルドは過去も、相棒も全てを置いて、一人で歩いて行ったのだった。
オリヴィエは無意識に手首を撫でた。もう袖口で隠すことはない。
窓から見える海は、どこまでも青く、遠くの波間が砕けて小さく響いている。
オリヴィエは静かにメモを握りしめた。麻袋を握り、スケッチブックを抱える指先に確かな力を込めて。




