地獄でワルツを-1
ドメニコとリカルドたちは、暗闇に沈むハージムの建設現場へと静かに、確実に侵入した。
もはやマフィアの矜持などとうに捨て、己の怒りにのみ従い進む彼らは、いつ爆発してもおかしくない爆弾のような危うさを孕んでいた。
事務所の明かりがつく建物の影、数人の部下がそれぞれ離れた部屋の前で待機し、催涙ガスと小銃を手に潜んでいる。
中ではハージムの部下たちが、スコーパを興じる下卑た笑い声を上げているのが聞こえる。
ドメニコの部下の一人が後ろの数人に目配せをした瞬間、手にした催涙ガスを一斉に投げ入れた。
直後に爆発音がし、白煙と共に中からは咳き込む声と絶望的な怒号が溢れ出す。バンダナで口元を覆ったドメニコの部下たちは扉を蹴破り、涙目で咳き込む彼らに容赦のない銃弾を浴びせた。
他の部屋からも騒ぎを聞きつけた男たちが部屋へと雪崩れ込み、ドメニコとハージムの部下たちはテーブルを挟み、至近距離での銃撃戦を始めた。跳ね返る火花が、血に濡れた床を赤白く明滅させていた。
混乱を他所に、別の建物ではドメニコとリカルド、部下の男が影でその騒ぎを聞いていた。
「始まったな。……リカルド、お前が先陣を切れ」
「……わかってるよ」
ドメニコから投げ渡されたナイフの感触を掌で確かめ、リカルドは暗い部屋の窓を柄で砕いた。
割れた窓から侵入した瞬間、開け放たれていた扉から、リカルドの姿に気付いた男が銃口を向けた。
火を噴く間際、リカルドはベッドフレームの影へと飛び込んだ。顔の横を掠める銃弾をやり過ごしながら、初めてハージムと銃撃戦に巻き込まれたあの日を思い出していた。何も出来ず、ゴミ箱の裏で震えていた。だが、今は違う。
素早くベッドの下へ潜り込み、息を殺す。
暗がりで獣のように睨み、歩み寄る靴が真横に来た瞬間、その足首に目掛けて力任せに切り裂いた。
すぐに這い出ると、悲鳴を上げる男の口を、息が漏れないほどに強く塞ぎ、背後から首を締め上げる。だが、すぐにベッドの影へと隠れた。そして、廊下を走り去る数人の足音が遠のくのを待ち、腕の中で踠く男の頸動脈を圧迫して気絶させた。
殺しはしない。それがリカルドに残された最後の、無意味な良心だった。
それから廊下を一度素早く確認し、リカルドは窓の外のドメニコたちへ合図を送る。
合流した一行は、それぞれベレッタとナイフを構えて部屋を出る。そして、リカルドの案内で上の階へと進む途中、部屋から出てきた部下たちと鉢合わせた。
リカルドはナイフの腹で銃口を跳ね上げ、軌道を上へ逸らして懐へと飛び込んだ。
男を盾にするように組み伏せた瞬間、ドメニコとその部下のベレッタが四発の銃弾を撃ち込んだ。背後の敵二人の体を撃ち抜いた血飛沫が、リカルドの頬を汚す。
気絶した男を床に投げ捨て、リカルドが乱暴に頬を拭った時、乾いた銃声が背後でもう一発響いた。それは、先程リカルドが気絶させた男の頭に向けて、ドメニコが躊躇いなく撃ち抜いた音だった。
「わざと殺さないようにしてんだろ。甘えてんじゃねぇ。ここは地獄の門前だ」
リカルドは真正面からドメニコを睨み、ただ静かに、「あぁ、そうだな」とだけ返事をした。
◇
催涙ガスの爆発音が鳴り響いた時、オリヴィエは一人リカルドのベッドで横たわっていた。
オリヴィエの頬や腕に、痛々しいほどの赤い手形や痣が残されている。リカルドが消えた朝、その「責任」をすべて受け止めた証だった。
オシーツに微かに残る汗の匂い、タバコとインクの彼の残り香を吸い込み、オリヴィエは胎児のように背中を丸めている。
フェンスの向こう側へ走り去る彼の背中を反芻しては、名残惜しそうに枕を抱きしめる。
銃声がすぐ近くまで迫る中、ハージムはオリヴィエの元へと向かっていた。その顔には、敵が強襲してきたことよりも、リカルドが消えたことに対する焦燥と憎悪が貼り付けている。
その顔を崩さぬまま部屋の扉を押し開ける。目に飛び込んできたのは、主人のいないベッドで枕を抱きしめるオリヴィエの姿。得体の知れない不快感に、ハージムは目を細めた。
「聞こえなかったのか? シチリアの猟犬どもが死に場所を求めて嗅ぎつけてきたぞ」
「リカルドさんも……来たんですか?」
尚も悲痛な声で呼ぶその名に、ハージムは不愉快そうに、叩きつけるように扉を閉めた。
「……それは確認中だ。だが、あの男の手引きなしに、ここに辿り着けるはずもない。君はあの時、リカルドが逃げるのを黙って見ていたんだろう」
「外に出たいと言ったから。……あまりに悲しそうで、可哀想だと思って」
「結果的に、君は自分の檻の中から逃がしてしまったじゃないか。愚かな慈悲だ」
オリヴィエはゆっくりと起き上がり、ハージムを真っ直ぐ見つめる。
「罪を、過去を愛せば彼は自由になれる。……そう信じてた。彼がただ穏やかに、僕だけを彫り続けてくれるなら、それでよかった」
背後では銃声と怒号、悲鳴が響いている。だが、オリヴィエの翡翠色の瞳はかつてないほどに澄んでいた。
「でも、ハージムさん。あなたは僕を見ていない。僕の向こう側に透ける、リカルドさんの影だけをずっと追いかけている。……あの人は僕を見つけた。あなたのその目は、誰を探しているんですか」
ハージムは一歩近づき、オリヴィエの頬を慈しむように、所有権を主張するように痣のある箇所を撫でた。親指の腹で軽く押し、唇をなぞる。
「君だけを見ているさ。リカルドの影は、君が背負った新たな「責任」だ。その責任を気遣うことは、管理する監督者として当然の義務だろう?」
オリヴィエはハージムの左手を握り、太陽のタトゥーをスーツ越しに撫でた。感覚の死んだ腕が、その腕の微かな熱を確かめるようにぴくりと動いた。
「可哀想に。あなたはずっと、探しているんですね」
ハージムは瞼をわずかに痙攣させ、オリヴィエを見下ろす。
「リカルドさんの心の中に、自分のいる場所を」
「……何を知った風なことを」
「でも、無駄だ。あの人があなたを呼ぶ時、そこにあるのは愛じゃない。ただの吐き気だけだ」
その言葉に、ハージムの瞼は激しく痙攣した。見透かされたようなオリヴィエの翡翠色の瞳に、恐怖を通り越した激昂が湧き上がる。自分だけの聖域であるリカルドの太陽を、あろうことか、自分が望んで止まない居場所に立つ、このガキに汚された。
「お前に何がわかる……? 俺とあいつの刻んだ太陽がある限り、俺たちはずっと地獄の底で踊り続ける宿命なんだ」
「いいえ、あの人はそれを望んでなどいない」
「……君を助けたのは間違いだったな。見ろ。この左腕はリカルドが俺を殺し損ねた証だ。この傷は、俺たちが再び地獄の底で再開するための約束。だからこそ、十二年の時を経て俺たちは再会した」
「違う。あの人と地獄に落ちるのは、この僕だ」
オリヴィエは恍惚とした表情で、ハージムが歪めるような三日月型に笑みを湛えた瞬間、ハージムは怒りに任せて手を振り上げた。
だが、オリヴィエは振り下ろされるより一拍速く、袖の中へ隠したハンドポークの針を手に取り、ハージムの胸元へと飛び込んだ。
針先が刺さったのはハージムの左の鎖骨、リカルドがかつてナイフを刺した、醜いケロイドの傷跡の上を正確に突いていた。骨を削る音が、ハージムの耳元で鋭く響く。
「……ぁ、がっ、あぁ!」
「この傷も、地獄への招待状も、全て僕のものだ。あの人があなたを殺し損ねた未練は、僕が今、ここで上書きします」
鎖骨を抉り、肉を突き進む針の痛みにハージムは顔を歪める。振り解こうとするが、オリヴィエは全体重を掛けて覆い被さるようにして床に倒れた。
さらに深く、神経を傷つけながら肉を抉り、過去の傷を引き裂いて進んでいく。
ハージムは左手の痺れと骨が削れる激痛に顔を歪め、オリヴィエを力任せに叩き伏せた。
顔を床に擦り、鼻血が滴るのも構わずオリヴィエは立ち上がり、勝ち誇ったように笑った。
「……クソガキが。あいつは俺とともに、地獄の底へ行くんだ……誰にも邪魔されず、二人きりで……お前の居場所なんて、どこにもないんだよ!」
ハージムの叫びは支配者や管理者ものではなく、愛を乞う敗北者の叫びだった。
オリヴィエは血に濡れた針を手に、その先端を愛おしそうに見つめた。
「あの人と地獄に行くのは、この僕だ」




