裏切りの制裁-2
翌朝早く、重機の地響きが始まった頃、オリヴィエがいつものようにやってきた。その白い頬にはまだ薄く紫色の痣が浮いている。彼はリカルドの包帯を取り替えるため、また、彼がまだここに縛られているか確認の意味を込め、ハージムに差し向けられていた。
ベッドに横たわるリカルドのそばに座り、オリヴィエは頬に貼られた包帯を愛おしげに触れる。
「リカルドさん……僕は、間違えてないです、よね?」
震えるか細い声。怯える子猫のように問いかけるその声が、リカルドの胸の奥に深く突き刺さる。
まともに聞けばきっと、このまま彼を抱きしめて全てを許してしまうかもしれない。だが、リカルドは返事をすることなく、天井を見つめたままその問いかけを黙殺した。
冬の太陽がまだ昇りきらぬ早朝の朝陽、その陽光が照らす指紋一つないガラス窓を眺める。反射した自身とオリヴィエの顔は、酷く疲労しているように見えた。リカルドは目を閉じ、それから掠れた声を絞り出した。
「外の空気を、吸わせてくれないか」
リカルドは目を開け、真っ直ぐにオリヴィエの瞳を射抜いた。
「……それは。ハージムさんに聞いてみます。許可がないと……」
「あいつじゃない。……お前に、頼んでるんだ」
その言葉に、オリヴィエの鼓動が一瞬高鳴った。自分を頼ってくれた。その事実に、オリヴィエはただ黙って頷いた。
工事現場では重機が忙しなく動き、流し込まれたコンクリートが雨上がりのような生臭い匂いを漂わせている。連立する鉄筋と鋼材の隙間を縫い、二人は現場事務所の裏へと向かう。土埃が風に煽られて、泥臭い風が視界を遮った。
オリヴィエはリカルドの手を引き、建物の影、人目につかない場所で足を止める。
リカルドはオリヴィエの視界の死角で、密やかにフェンスの隙間を探していた。フェンスの向こう側は林になっている。一度中へ踏み入れれば、姿を隠すことは容易だろう。罪悪感と焦燥に駆られながらも、リカルドは掠れた声でオリヴィエをぼんやりとした目で見つめる。
「タバコが、吸いてえ……」
「ここ、禁煙なんです」
「そうかよ……なら、しばらく、一人にしてくれないか」
「僕も一緒にいます。離れたく……」
「お前はいらねぇ。俺一人で十分だ」
遮るようにして放たれた言葉に、それまでどんな罵声にも動じなかったオリヴィエの瞳に、ほんの少しの痛みを感じたように、静かに唇を噛んだ。そして、何も言わずに建物の影へと向かう。
リカルドはオリヴィエが背を向けたのを合図に、重機の音を纏って走り出した。
壊れたフェンスの隙間をこじ開け、体を捩じ込める。ようやく這い出た林の中を、泥を跳ね上げて走り抜けた。
一歩踏み出すたびに臓器が揺れ、胃の中の異物が刺激されて吐き気が迫り上げてくる。だが、リカルドは力づくでそれを飲み込み、振り返ることなく林の中へと姿を消した。
一度でも振り返れば、あの翡翠色の瞳に捉えられ、二度とこの地獄から離れられなくなってしまいそうだった。
ただ前だけを見つめ、泥を跳ね上げて現場を後にした。
数分後、建物の影から顔を出したオリヴィエの視界には、ただ鋼材と土煙を立てる工事現場が広がっているだけだった。
「リカルドさん……?」
呟きは重機の音に掻き消され、誰に届くでもなく土埃の舞う風に攫われた。
◇
リカルドは必死に走り、カラブリアから脱出し、港までの道を走る。だが、途中建物の影から飛び出す影を見つけ、思わずリカルドは隠れた。
「お前……何でここに……!」
覗けば、そこにいたのはオリヴィエだった。道ゆく人を掻き分け、その背中へ縋るように追いかける。だが路地を曲がった先、そこには何もいなかった。
薬が見せる醜悪な幻覚、こんな状況の癖に、不甲斐ないほどあの青年を思う自分に反吐が出た。リカルドは誰もいない路地を見つめ、自嘲気味に鼻で笑った。そして、ふらつく足取りでフェリーへと乗り込んだ。
途中フェリーの揺れは、リカルドにとって耐え難いほどの地獄だった。波間に船体が打ち上げられるたび、胃の底に沈んだ異物が刺激された。薬物の離脱症状による鮮烈な頭痛も追い討ちをかけ、数十分の道程が永遠に続く拷問のように感じられた。
ふらつきながらもシチリアの自宅へ着いたのは夕方だった。
シチリアの地に降り立ち、港に放置されていた愛車のドゥカティを走らせた。
途中何度も頭痛にハンドルを振り乱され、対向車のクラクションが過敏になった鼓膜が切り裂いた。
スタジオへ着いた時、中は酷く荒らされていた。窓ガラスは破られ、引き裂かれたリネンカーテンが吹き曝されている。壁に叩きつけたユーロ札は既に消え、作業台やスチール棚が無惨に打ち倒されている。二人が消えたことに気付いたドメニコが、制裁のためにスタジオを消し去ろうとしたのだろう。まだ火をつけられていないことを考えると、こうして戻ることを想定しているためか。
だが、荒れ果てた室内に漂う使い古したインクや潮風の匂いが、場違いなほどリカルドを安堵させた。倒された椅子を引き起こし、疲れ切った体で深く腰を下ろして息を整える。
その時、衝立の向こうから近づいた影が、鉄パイプをリカルドの後頭部を思い切り殴りつけた。
その衝撃で床に叩きつけられるが、背中を踏みつける靴底に阻まれる。胃が床に押し潰され、込み上げるものを必死で飲み下す。
「どの面下げて戻ってきた、裏切り者」
ようやく顔を上げた時、そこに立っていたのは、ドメニコとその部下たちだった。手に鉄パイプを持って立って、見下ろしている。
「……やれ」
その合図に、数人の部下たちは持っていた鉄パイプで一斉にリカルドを叩きつけた。
顔や背中、肋骨を叩かれるたびに骨が軋む音がする。だが、リカルドは一切抵抗することはなかった。ただ嵐が過ぎ去るのを待つ獣のように、床に這いつくばって耐え続けた。
そして、ドメニコが最後に銃を取り出し、リカルドの髪の毛を掴み上げた時、ようやくリカルドは薄く、愉悦に満ちた顔で笑った。
「……俺を殺すのは、こいつを見てからにしろよ」
「何?」
リカルドは指を口の奥深くへと突っ込んだ。奥歯に挟んだ糸を、決して引き千切らぬよう慎重に、そして力任せに引き抜いた。
激しい嘔吐とともに、胃液に塗れた袋が転がり落ちた。汚物に塗れ、辺りに酸っぱい匂いが立ち込める。部下たちが顔を顰める中、ドメニコだけがその袋の中の紙を凝視していた。
「汚ねえな」と嘲笑う部下を横目に、ドメニコはそれを拭うことなく、袋を手に取る。そしてそれ引き裂き、一枚の紙を広げた。
そこに書かれた自身の裏切りの計画と、上層部の幹部の名前。ドメニコはその紙に書かれた文字を一文字たりとも逃すことなく、じっくりと読み、そしてリカルドを見下ろした。
「お前これは……本当なら、とんでもないことだぞ」
リカルドは壁に寄りかかり、肩で息をしながら鼻で笑った。そして、ドメニコは紙の内容とリカルドを交互に見つける。カラブリアからわざわざ制裁の待つこの地に、紙一枚のために戻ってきたその意味を理解した。
ドメニコは目を閉じ、一瞬の空白を置いて、リカルドを睨みつけた。
「もう一度、お前をカラブリアへ連れ戻してやる。だがお前を許したわけじゃない。……お前は囮で、弾除けだ」
ドメニコは胃液の付着した紙を一瞥し、それから忌々しげに端を叩いて破り捨てた。舞い落ちる紙の中、ドメニコは歩み寄ってリカルドの金髪を掴み上げる。そして、鼻先に触れるほど顔を近付けて、威嚇するように低く唸る。
「先に地獄で俺を待ってろ」
その目は裏切りへの怒りと、全てを道連れに心中しようとする死神の目だった。
リカルドは込み上げる吐き気を飲み込み、血に染まった青い瞳に、勝利のような笑みを湛えた。
「……仰せのままに、ボス」




