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インク アライブ  作者: おーひょい
メッシーナの架け橋
65/72

裏切りの制裁-1

 ある日、指先一本も動かせないほど強烈な多幸感が、リカルドをベッドへと沈めていた。

 朦朧とする意識の端で、ハージムの部下たちが無造作につけたタバコの煙が、真っ白な部屋に灰色の煙を漂わせていた。


「……ハージムの言ってた、シチリアの連中との会合はどうなってる。「掃除」はいつ行われるんだ?」

「おい、よせ。こいつに聞かれるぞ」


 一人がリカルドを指差し声を潜めたが、もう一人は鼻で笑い、リカルドの頬を平手で数回叩いた。


「かまわねぇさ。見ろよ、こいつは骨の髄まで薬漬けの赤ん坊だ。おい、聞いてるか?」


 リカルドの目の前で確認するように手を打ち鳴らすが、瞳孔は開いたまま動かない。リカルドは僅かに残った意識の残滓を総動員し、廃人を演じながら喉の奥から掠れた声を絞り出した。


「エレナ……? お前なのか? ……どこだ、俺を、置いていかないでくれ」


 涎を垂らし、虚空に手を伸ばしては力無く落とすその姿に、男は満足げに背中を向けた。


「ほらな、すっかりイカれてやがる」


 安堵した彼らの口から溢れ出した情報を、リカルドは脳漿を打ち鳴らす雑音の隙間で掻き集めた。


 自傷行為をしないよう、この部屋にやってくる二人の見張り役。口の軽い右側の男、マッテオ。この男はいつもポケットの中へ重たい鍵束を突っ込んでいる。この男が仮眠を取るまでの三十分、それがリカルドにとって唯一の外界への窓だった。彼がもう一人の男と不満を口にし、火をつけたタバコが灰に変わるまでの時間。

 唯一の外界の情報源、リカルドは廃人のふりをして意識を研ぎ澄ませ、数日かけてそれらを集積していく。


 シルヴィオはハージムやジョヴァンニが最も信頼を置く部下であること。彼の部屋は裏切りから最も遠い二階の奥に位置すること。

 そして、明日はシチリア幹部との直接的な会合。ハージムとシルヴィオは必ずこの会合に顔を出すはずだ。


 チャンスは一度。今夜、マッテオが薬をサイドテーブルに投げ置くあの瞬間。

 離脱症状を装い、部屋で暴れる振りをして、その隙に鍵を掠め取る。そして「仕事」の時間にシルヴィオの部屋へと侵入、証拠となるものを探す。


 時間通り、マッテオたちは警戒することもなくハージムたちの不満を口にしている。タバコの火がゆっくりと燃え、床に灰が散っていく。最後の一吸いを吐き出し、灰を弾いた瞬間。リカルドは計画通り動いた。


「……あぁ! エレナ! 行かないでくれ……っ!」


 離脱症状を装い、痙攣する体で部屋を去ろうとしたマッテオの体にしがみつく。暴れるリカルドを二人が力任せに取り押さえた時、リカルドは廃人のそれではない鋭さで動く。指先が冷たい真鍮の鍵に触れる。カチャリと音が鳴りかけた音を、自らの絶叫でかき消した。


「……クソ、手のかかる赤ん坊だ。これで大人しくしてろ」


 マッテオが吐き捨て、無理やり「多幸感の塊」をリカルドの口に放り込んだ。喉を通る蜜のような甘さが、意識を強制的に楽園へと引き摺り込む。だが、すでに目的は達した。あとはこの鍵を手に、シルヴィオの部屋へと行くだけ。

 リカルドは目を閉じ、体の下に隠した鍵の手触りを確かめながら、冷たい床の上で深い眠りに落ちた。



「おい。いつもの飼い主は、どこ行った?」


 掠れた声で問いかけると、オリヴィエは少しだけ肩を揺らした。


「……今日は人と会うみたいです。昼過ぎには戻ると。何か、ありましたか?」


 時計は十一時四十分を指している。急ぎシルヴィオの部屋へ行って、証拠を探さなければ間に合わなくなる。


「……なんでもねぇ。小便行ってくる」

「僕も行きます。ついていかないと……」

「そんなに俺のブツが見てぇのか? 気色悪くて出るもんも出ねぇ」


 わざと卑俗な言葉を投げつけると、オリヴィエは一瞬、弾かれたように足が止まった。その翡翠色の瞳に宿ったのは戸惑いか、それとも廃人の隙間から覗いた本物のリカルドの気配か。リカルドはそれを確かめることもなく、冷ややかな沈黙と共にオリヴィエに背を向けた。


 廊下へ躍り出ると、その先の階段を睨む。この時間、ほとんどの人間は現場に駆り出されているか、部屋の中に篭って事務作業に追われている。死角は十分にある。


 リカルドはトイレを通りすぎ、足音を殺して階段を下りていく。誰もいない廊下を確認し、シルヴィオの部屋の前で立ち止まる。音を立てないよう、鼓動よりも静かに、慎重に鍵を回す。

 ようやく部屋へと滑り込むと、中は資料が整然と棚に並んでいた。リカルドは焦りを肺の奥へと押し込み、サイドテーブルや引き出しを覗く。決定的な証拠、それを見つけるまでは、あの地獄へ戻ることはできない。

 ふと顔を上げたその時、テーブルの上、資料が不規則に重なった紙の間にそれは挟まっていた。

 タイプライターで打ち込まれた、指先ほどの小さな紙。マフィア特有の連絡手段、「ピッツィーニ」だ。


 「会合は五日。Jと落ち合い、その後Cへ。時間は十一時──MD」

 「例の物は埠頭に。代償はNのルート」


 小さな紙片には、今来ている幹部のイニシャル、そして暗号のような簡素な伝達事項。現在行われている密談を伝えるピッツィーニの中に、不穏な文字列が書かれた一枚の紙が、リカルドの目に止まった。


 「Dの処分は十六日。Cの犬が掃除後、島の門を開ける──MD」


 Dはドメニコ、Cは恐らくカラブリアのことだろう。

 リカルドは鼻で笑った。シチリアを抱き込もうと躍起になっているハージムが、当のシチリア側には使い捨ての犬としか思われていない滑稽な事実に。


「……読んだら燃やせって教わらなかったのか?」


 その紙を丁寧に折り畳み、力任せに握りしめた。カーテンの隙間から階下を覗くと、黒塗りの車が一台滑り込んでくるのが見えた。ハージムたちが戻って来た。

 リカルドは、隠し持っていた薬物をサイドテーブルの酒のグラスに嫌がらせのように混ぜ、静かに部屋を後にした。



 見張りが居なくなった深夜二時。

 リカルドは無理やり飲まされた薬物のせいで、心臓が早鐘のように拍動を繰り返している。偽りの平穏の中に意識を引き摺り込まれそうなのを、噛みちぎらんばかりに舌を噛み、鉄の味の中で辛うじて自分を保っている。


 手のひらの中で、昼間にくすねた紙が熱を持っている。

 ハージムがシチリアの上流幹部を抱き込み、島全体の勢力図を書き換えようとしている証拠。ドメニコのような地方の小組織を整理し、内部から組織を侵食して行く計画があること。


 そして、血の誓いを立てた裏切り者の存在。


 リカルドの脳内では、急速にパズルのピースが嵌っていく。

 ドメニコの裏にある巨悪に対して、ハージムたちが不自然なほど強気な態度だった理由。政府という盾があるにはあまりにも無謀すぎるその計画。

 だが裏切り者の手立てで、シチリアを壊滅させ、計画も完遂することができれば政府にとっては一石二鳥。仮に組織同士が歪み合おうと、その手を汚さずに、因縁深いシチリアとナポリの両勢力を一掃することができる。

 謂わばこれは、政府が主催する代理戦争だ。


 裏切りに裏切りを重ねたその泥沼に、リカルドは吐き気すら覚えた。


 この話をドメニコの元へ持ち帰れば、政府の思う壺だと考えると反吐が出るが、ハージムの組織との共食いに持ち込める。

 それが、戻ればリカルドも、裏切り者として制裁される可能性のある諸刃の剣であることは百も承知だ。

 だが、もはや躊躇う理由などなかった。

 この無機質で美しいカラブリアを灰にし、オリヴィエという鎖を自らの手で破壊するには、この方法に他はなかった。


 リカルドは紙片を握りしめ、ベッドのサイドテーブルにあるゴミ袋を見つめた。それをリカルドはじっと見つめ、意を決したように手を伸ばした。


(運び屋だったことが、こんなとこで役に立つなんてな)


 と内心で自嘲気味に呟いた。千切ったゴミ袋の切れ端で紙を包み、シーツの端から解けた糸クズを一本引き抜いた。それを袋の口にキツく縛り付け、小さいとはいえないその袋を口に含み、喉の奥に流し込んだ。

 強烈な拒絶反応に胃が跳ね、何度も嘔吐えずいた。だが、リカルドはそれを無理やり水で流し込み、喉の奥へと押し込んだ。食道を通る不快な異物の感覚が、更なる吐き気を誘う。迫り上がるものを堪え、口からはみ出た糸を奥歯の間へと挟んだ。


 準備は整った。後は朝を待ち、ここを去るだけだ。

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