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インク アライブ  作者: おーひょい
メッシーナの架け橋
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烙印-2

 翌日から、オリヴィエはハージムの直属として仕事の手解きを受けることになった。

 渡されたのは、膨大な労働者のリストと、彼らが属する末端組織の一覧表。

 政府はこの不透明な労働力供給を黙認している。国家プロジェクトの完遂という大義名分の前では、人権も、法の正義も二の次だった。ハージムたちの企業は、この汚れ仕事を一手に引き受け、確実に計画を遂行する「清掃人」のような地位を確立していた。


「いいかい、オリヴィエ。このリストは下請けの下請け、要は一番下の労働者たちの名前だ。右の欄に書かれた番号は、所属を表している。下四桁を、デザインの描かれた別の資料と照らし合わせ、リカルドに彫ってもらう」

「全員に、ですか?」

「あぁ、国家プロジェクトに携わったという「誇り」を刻むのさ。……そして、そのデザインは君に任せる」


 差し出されたページを捲ると、デザイン案のページは白紙だった。

 オリヴィエは紙を握りしめ、一瞬俯いた。それが「誇り」などではなく、家畜に押される焼印を意味する図案であることは理解しながらも、ハージムの顔を見上げた。


「……わかりました」


 それから、オリヴィエは来る日も来る日もデザインを描き続けた。

 ハージムはその横から覗き込み、執拗に修正を言い渡される。線を細くしろ、モチーフを抽象化しろ、管理しやすい形にしろ……。時折、鉛筆を握るオリヴィエの指に、ハージムの右手が触れた。

 その指先は酷く冷たかった。

 リカルドがスタジオで何度も重ねるように触れたあの無骨な手の熱。インクの匂いとタバコの匂いが染み込んだ、確かな体温と脈動が、今は遠い記憶のように思えた。



 リカルドは薬物による混濁の中、必死に自分を繋ぎ止めようと足掻いていた。

 オリヴィエが持ってきたリストと、酷くシンプルで、あの祈りなど微塵も感じさせない芯のない図案を投げ捨て、喉を焼くように罵声を浴びせた。


「クソみてぇな絵だな。文字通り道端の野糞を写生した方がマシだ。お前、自分が何をしてるのかわかってんのか? お前を拾ったのは俺の人生の最大の汚点だ。……あの路地裏で、野垂れ死んでりゃよかったんだ」


 突き放す言葉を、リカルドは畳み掛けるように吠えた。だが、オリヴィエは傷つく素振りすら見せず、ただ慈愛に満ちた笑みで微笑んだ。


「それでも、僕の神様はあなただけです。さぁ次は……彼の腕にお願いします」


 リカルドは届かない言葉とその狂信的な瞳に絶望し、力無くマシンを握った。

 せめてもの抵抗として、リカルドは彫る時にわずかにラインを歪ませ、オリヴィエの指示した図案をわざと崩して彫り進める。気付かれない程度の小さな失敗の積み重ね。それが、リカルドに残された彫り師としての最後の矜持だった。

 夜になると、離脱症状で呻くリカルドへ、見張りの男が無理やり追加の薬物を詰め込まれる。頭を支配する甘ったるい蜜のような多幸感に沈み、心も、体も、縛り付けられた彼の最後の抵抗。


 だが翌日、部屋に入ってきたオリヴィエの顔を見て息を止めた。その白い頬には、隠しきれないほどの紫色に染められた痣が浮き上がっていた。


 その瞬間、リカルドの指先から体温が引いていった。自分が針を一本外すたび、その罰はオリヴィエへと下される。


 オリヴィエが次の「客」を連れてくるために部屋を出た僅かな隙間。

 ハージムは音もなくリカルドの背後に忍び寄り、微かに震える指先に、冷え切った自分の手を重ねた。


「……知っているぞ、リカルド。あのガキに気付かれないなら、俺にもバレないと本気で思っていたのか?」


 地を這うような低い声が、リカルドの鼓膜を震わせる。ハージムは逃れようとするリカルドの肩を強く掴み、耳元でさらに毒のように甘く囁いた。


「お前も見ただろう? お前が足掻くたび、あのガキの白い肌が少しずつ削られていく様を。……いいか、お前の失敗はあのガキの体で清算される。お前が守りたかったものはすべて、俺が目の前で粉々に叩き壊してやる」


 リカルドは歯を食いしばり、喉の奥で低く唸り、呻き声を上げた。だが、ハージムの言葉がリカルドの魂の最後の一枚の皮を剥ぎ取った。


「……お前が今、何を一番恐れているか。それは、あの救いを求めるガキより、俺の方が誰よりもよく知っている。お前は、自分という存在そのものが、あいつを汚泥に引き摺り込む獣であることを自覚している。……そうだろ?」


 ハージムが三日月型の笑みが、リカルドの視界の端で歪んだ。

 自分の指先が、もはやインクではなく、オリヴィエの悲鳴を吸い込んで動いているのだと悟った。


「さぁ、次の仕事だ。さっさと取り掛れ」


 ハージムにも、この狂った救済を信じ込むオリヴィエにも、生半可な抵抗など到底通用しない。

 自分が足掻けば足掻くほど、オリヴィエという鎖が自分を締め上げていく。


「……あぁ、わかった。……もう、いい……」


 リカルドは静かにマシンを握った。

 その日の夜、リカルドは自らコカインを含んだ。無理やり思考を寸断させ、彫り師としての矜持も、オリヴィエへの罪悪感も、すべて白い粉の中に埋めていく。

 薬がもたらす偽りの平穏の中、リカルドはベッドの泥濘の中へゆっくりと沈んでいった。

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