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インク アライブ  作者: おーひょい
メッシーナの架け橋
63/72

烙印-1

 砕け散ったガラスの破片の散らばる部屋に、オリヴィエは一人残されていた。

 「底なしの共依存」、その絶望を目の当たりにしたリカルドは、断末魔のように声を上げ、理性を失った咆哮とともに部屋を破壊せんと暴れ狂った。ハージムは淡々と部下を呼び、組み伏せられたリカルドは引き摺られるようにして別の部屋へと隔離されていった。

 重厚な扉の向こうでは、未だ悲痛な叫び声が響いている。廊下へ出たハージムとジョヴァンニは静かに顔を見合わせた。


「まだ諦めていないのか。部屋を壊すつもりか」

「コカインでも吸わせればいい。ヴェローナで散々嗅いできた匂いだ。……昔の女と、夢の中で踊らせておけ」


 背後の部屋の扉を一瞥するジョヴァンニへ、ハージムは目もくれずに吐き捨てた。


「あの狂信は計算外だった。だが、むしろ都合がいい。……あとは任せておけ」


 オリヴィエの待つ来賓室への廊下を歩き出す。ハージムは扉を開ける直前、その冷ややかな顔を瞬時に完璧な協力者の笑顔へと変えた。

 部屋に入ると、オリヴィエは魂が抜けたように遠く部屋の物音へと耳を澄ませていた。


「……心が痛む?」


 ハージムの声に、オリヴィエは呆然と黙ったまま俯く。


「ヴェローナを逃れてから、彼は一瞬たりとも安息を感じていなかった。ずっと、己の過去に縛られていたんだよ。……だが、君が彼の過去を、罪を、愛し続けることで、リカルドは本当の意味で解放される」


 ハージムは震えるオリヴィエの手を取り、窓際へと誘った。眼下では、更地に重機が唸りを上げ、無数の職人たちが声を張り上げて機材を運び込んでいる。


「この計画に君たちが加われば、君はずっと、君の「神様」とそばにいられる。彼もまた、誰に追われることもなく、君の隣で自由に針を動かし続けることができるんだ」


 リカルドの名が出た瞬間、オリヴィエの瞳に熱っぽく、潤んだような光が戻った。


「君を救い、技術を教えた彼は、確かに殺人者だ。……だが、その真実を共有しているのは私と君だけだ。彼の罪を肯定し、彼を本当の意味で救えるのは、世界中で君しかいないんだよ」

「僕だけが、救える……?」

「そう、君だけだ」


 オリヴィエの頬に指を沿わせ、そのまま首筋へと手を滑らせた。


「私と彼には因縁がある。だが、彼が壊れていく姿を見るのは、私も本意ではない。だからこそ、君の手で彼を、ここで「自由」にしてやってくれないか」


 唇の端に触れる、期待に満ちた指先。オリヴィエはハージムの灰色の瞳に映る自身の姿を見つめ、そして、何かに取り憑かれたように静かに口を開いた。


「……わかりました」


 ハージムは満足げにその唇をなぞると、首筋を締め上げるように強く包み込み、オリヴィエの体を抱きしめた。


「いい子だ」



 混濁した意識の中で、リカルドは目を覚ました。

 視界に飛び込んできたのは、網膜を焼くほどの無機質な白。壁にかけられた時計の秒針の刻む音が、過敏になった神経を一秒毎に逆撫でした。

 先ほどの出来事が夢であればと願ったが、扉が開く乾いた音で現実に引き戻される。


 扉を開いたのはオリヴィエだった。閉まりゆく扉の向こう側、ハージムが冷ややかな笑顔を湛えているのが見えた。

 悪態を吐こうにも、薬物の引き起こす強烈な頭痛と、脳漿を掻き回す雑音で思考が寸断される。リカルドはただ、ベッドの上で喉を鳴らすことしかできなかった。


 オリヴィエは静かな足取りでリカルドに歩み寄り、その変わり果てた姿を見つめる。口は半開きで、瞳孔が開き切ったままベッドの上でありもしない天井の闇を彷徨っている。

 オリヴィエは躊躇うことなく彼へ手を伸ばし、傷だらけになったリカルドの頬を撫でた。

 指先が触れた途端、リカルドの体がびくりと跳ねる。だが逃れる力すら残っていない彼は、やがて本能的にその温もりを求め、ゆっくりとオリヴィエの方へと視線を移す。


「オリ……ヴィエ……」


 掠れた声に答える代わりに、オリヴィエはただ黙って頬を慈しむように撫でた。それから汗ばんだ額を拭って、張り付いた金髪を丁寧に指先で解していく。


「ソフィアに聞かれたんです。リカルドさんが好きなのかって。その時はよくわからなかった。でも、あなたの心に触れた今、ようやくわかった。……僕はあなたに、これ以上過去に縛られてほしくない」


 汗ばんだ髪の毛を梳くように、何度も優しく撫で続けた。梳くたび、その細い金色の髪が指先に絡みついてくる。


「自由になれるから彫るって、言ってましたよね。ここなら、僕があなたを自由に出来る。もう……誰にも傷つけさせない」


 頬に深く刺さったままのガラス片を、オリヴィエは迷いなく取り除いた。そこから流れる鮮血を、一滴も溢さぬような手つきで指を沿わせる。


「僕はあなたが、心から好きなんだ。十二年前からずっと。……いや、好きというより、あなたを信じているんだ」


 身も心も壊れかけたリカルドは、薄れて行く視界の中でその言葉を聞いた。

 見捨てられ、絶望されるよりも心を抉る「信じている」と言うオリヴィエの声。リカルドの中にわずかに残った希望さえも粉々に打ち砕いていく。


 あぁ、十二年前に犯した罪は、まだ自分の首を締め続けるのか。


 そう絶望し、限界を迎えた瞬間、視界はセピア色に染め上げられ、リカルドは意識の底へと沈んでいった。

 静かに目を閉じるリカルドに、オリヴィエは赤子をあやすように、何度も、何度も頭を撫で続けていた。

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