道化師-2
その扉を開けた男の姿を見て、リカルドの心臓は凍りついたように指先まで固まった。
肺の中の空気が根こそぎ持っていかれ、視界が真っ赤に弾ける。白い部屋が、一瞬にして真っ赤な血で染まるような感覚に陥った。
十二年間片時も頭の中から離れることのなかった過去の亡霊が、今生身の肉体を持って目の前で立っている。
「……ハー、ジム……」
オリヴィエはただならぬ様子のリカルドに、手首の太陽を隠すように袖を引っ張った。ハージムはただ、三日月型に口を歪め、不気味な笑顔を湛えて立っていた。
そして、リカルドの視界が真っ赤に燃え上がり、握りしめた拳にエレナの最後の体温が蘇った瞬間、リカルドは咆哮とともにガラステーブルを蹴り出し、ハージムを壁へと叩きつけていた。背後ではガラスが粉々に砕け散る音が響いている。
「てめぇ……どの面下げて……! お前だけは、俺が殺してやる……今すぐに!」
「昔から血の気が多いな、お前は。何だよ、まだあの女の匂いが俺についてるか?」
挑発に理性を失ったリカルドは歯を食いしばり、思い切り殴りつけた。床に転がりながらも、ハージムはまだ笑顔を崩さなかった。リカルドは馬乗りになり、続けて胸ぐらを掴み上げる。更に拳を振り上げた時、ハージムは冷ややかな声で囁いた。
「いいのか、リカルド。あいつの前で、またあの日と同じことを繰り返すつもりか?」
一瞬の躊躇い、その隙を見逃さず、ハージムの右手がリカルドの拳を握りつぶさんと掴んだ。直後に、凄まじい頭突きがリカルドの鼻梁を砕いた。鼻頭から血が流れ、よろめいたリカルドの顎をハージムは裏拳で抉る。わずかに意識が飛び、彼はガラスの破片の中に沈んだ。
ハージムはスーツの裾を手で払いながら立ち上がり、抵抗しようとするリカルドの後頭部を靴底で踏みつけた。少しずつ体重をかけるたび、破片がリカルドの頬を突き破り、白い床に血が流れていく。
「やめてください! 何で……信じてたのに、リカルドさんを……ドメニコから自由にするって!」
駆け寄ってきたオリヴィエに、ハージムは笑みを崩さずに見下ろした。
「自由にするさ。ドメニコのような小悪党から、彼を奪い返すためにね。ただの彫り師として使うなんてナンセンスだ」
リカルドは頬から血を流しながら、痛みに顔を歪め、抵抗するように踠く。そのたび、足が動かされる不快感をハージムは顔に露わにし、うつ伏せになるリカルドの横腹を思い切り蹴り上げた。
「技術は本物なんだ、これから大量に投入される不法労働者たちに、特定の役割を持った労働者を見分けるための記号を彫ってもらう。こんなことが出来る奴は、お前以外にはあり得ない。……そして君は、リカルドの彫ったデザインを管理して、我々に報告してくれればそれでいい」
「あなたは、僕を騙したんですか……? 助けてくれるって、そういったのに」
静かに見ていたジョヴァンニは、壁に背中を預けてオリヴィエの目を見た。
「……政府は結果を、我々は効率を求めている。そして、君たちは「自由」を求めている。ここにあるのは、ドメニコという影に怯える必要のない、国家という名の巨大な盾だ。……これ以上の自由があるか?」
ジョヴァンニは肩を竦め、子供へと諭すように言った。だが、リカルドは脇腹を押さえ、血を吐きながら立ちあがって睨みつけた。
「結局……お前も、ドメニコの築いたものを横取りする、ハイエナみてぇなもんじゃねぇか……!」
「……しぶとい奴だな。まだ吠えるのか、飼い犬風情が」
「少なくとも、てめぇに飼われる気はねぇよ……!」
「喜んで尻尾振ってたろ?」
顔中から血を流しながらも、リカルドは牙を剥く獣のように睨みつけた。だが、その背後で震えるオリヴィエの気配を感じ、その眼光に切ない怯えが混じる。
「あなたは……リカルドさんと……どんな関係、ですか」
一歩後退り、掠れて振り絞るような声で問うオリヴィエに、ハージムは三日月のように口を歪めて歩み寄った。
「私にとっても過去の遺恨、彼にとっては……消し去りたい汚辱。いい機会だ、彼がどんな仕事をして、どんな罪を犯したか。彼は……」
「違う! やめろ、聞くな!」
「金のために聖職者を殺し、女と逃げようとした最低の男なんだよ」
「殺した……? 聖職者を?」
「違うだろ! お前が俺を騙して……!」
ハージムは遮ろうと吠えたリカルドの口を塞ぎ、騒ぎ立てる子供を鎮めるように微笑んだ。睨みつけるリカルドの血が流れる頬を、力任せに平手打ちした。
「ハンガリーの孤児院。君もよく知ってる場所だろ?」
その言葉が、オリヴィエの脳内で走馬灯のように駆け巡った。
隠し続けてきた過去、譫言のように呟いた女の名前、黒いインクで塗り潰された左腕。全ての出来事が、パズルのピースのように嵌っていく。
「太陽の、あの人は……。でも、あのタトゥーは、ハージムさんの腕にも……。リカルドさんは……誰を殺して、誰を、救ったんですか」
オリヴィエは、ハージムの袖の下と、リカルドの黒く覆われたインクの下にある「二つの太陽」を交互に見つめた。自分がヴェローナから追いかけてきた太陽。それは神の導きではなく、地獄から続く逃走経路だった。
リカルドは縋るような翡翠色の瞳から、逃れるように目線を落とした。白い床に滴る自らの血を見つめる。その沈黙が、全てを肯定していた。
「悲劇的で、運命的な再会だ。ロミオとジュリエットのようにはいかないがね」
ハージムはリカルドを一瞥し、絶望に立ち尽くすオリヴィエに慈しむように手を置いた。耳元で囁く声は、毒のように甘く、甘美に響いていた。
「あの日、リカルドは幼い君の目の前で教父を殺した。可哀想に。何も知らず、君は自分の親代わりを殺した男を、師匠と呼んで慕っていたわけだ。これまでのことなど、全て……
「Dimentica」」
その言葉を聞いて、オリヴィエはあの日の出来事が鮮烈にフラッシュバックした。
暖炉の火に照らされた、返り血を浴びた太陽。自分を見つめた、飢えた狼みたい目。そして、低く怯えるような声で紡がれた「忘れろ」という呪文。
違う。
忘れることなど、出来るはずがない。
神の名を騙る教父から辱めを受け、孤独に沈んだ泥の中で待っていた自分を、引き上げたのは誰だったか。
あぁ、そうだ。彼は僕の、唯一の「生きる意味」だ。
「忘れるなんて……できない」
その絶望の中から這い出してきたのは、ハージムの期待した怒りや蔑みではなかった。拒絶のような静かな言葉。ハージムは一瞬右目の端をピクリと痺れさせる。
「教父様は……あの男は僕を汚し、何度も、何度も壊した。希望なんてない、見捨てられた子供だと、毎日僕に囁いた」
自身の肩に乗せられたハージムの手を振り払い、オリヴィエは血の海へと膝をつくリカルドの元へと歩み寄った。
「やめろ、来るな……違う。俺はただ、自分のことだけを……」
「僕の「神様」は、聖衣を着た教父様じゃない。血に濡れて、僕を奪い去ってくれた……あなただったんだ」
オリヴィエは恍惚と笑みを湛え、リカルドの前に跪いた。
リカルドは砕け散ったガラスの中で絶望に息を止めた。
シチリアからカラブリアまで、彼をまともな世界に逃すために連れてきたはずだった。なのに、今目の前の青年は、あの日見逃した子供は、地獄の門を自ら叩き、それどころか地獄そのものを愛すると宣言している。
あぁ、俺は……また、選択を間違えたのか。
力無く項垂れるリカルドの頭を、オリヴィエは膝をついて抱きしめた。ガラスが皮膚を破るのも構わずに。
「リカルドさん、もう泣かないで。あの日から、僕の命はあなたのもの。あなたが人殺しでも、嘘つきでも、何でもいい。……僕を奪い去ってくれた、それだけで、十分なんです」
抱きしめられた青年の腕の温もりに、リカルドは吐き気を催した。
自分が救ったはずの翡翠色の瞳は、今、自分を永遠に地獄の底へと繋ぎ止める鎖となって、愛おしそうに締め上げている。
それはかつてハージムが望んでいた、永遠に地獄の底へと落ちること。底なしの共依存の完成だった。




