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インク アライブ  作者: おーひょい
メッシーナの架け橋
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道化師-1

 翌朝、最低限の荷物をまとめた麻袋を背負い、二人はスタジオを後にしようとしていた。

 床には、昨夜リカルドが叩きつけたユーロ札が、薄汚れた落ち葉のように木の床の上で不規則に折り重なっている。リカルドが黙って革ジャンを羽織り、オリヴィエが薄手のセーターを頭から被った時だった。


「おはよう、オリヴィエ。……あれ、どこか、行くの? リカルドさんも」


 扉を開け、ソフィアがこの重苦しいスタジオの空気とは正反対の清涼な声で入ってきた。

 リカルドは彼女の顔を見ることも、返事をすることもせず、すぐ横を通り過ぎて外へと向かった。壁に背中を預け、遠くの水平線を見つめてタバコに火をつけている。

 スタジオに一歩踏み込んだソフィアの視線が、床に散乱している金が潮風に揺れる異様な光景に止まる。


「えっ……これ、どうしたの?」


 不安げに震える彼女の歩みを遮るように、オリヴィエがその前に立った。その顔には、安心させるように笑顔を貼り付けている。


「ソフィア、僕たち少し出掛けるんだ。……リカルドさんの仕事の都合で」

「そんな……急だよ。お兄ちゃんにも……みんな知ってるの? いつ帰ってくるの?」

「大丈夫だよ、ソフィア。……必ず帰る。約束だよ」


 オリヴィエは、戸惑うソフィアを抱きしめた。

 その腕の力加減も、耳元で囁く声のトーンも、全てが彼女を納得させるために計算されているようで、血が通っていないように感じられた。

 ソフィアはその温もりに、安堵や喜びよりも、永遠に遠くへと行ってしまう気がしてならなかった。

 オリヴィエのセーターを弱々しく抱きしめる腕も、裾を握りしめる細い指を感じながら、オリヴィエはソフィアの肩越しに海を見つめるリカルドの後頭部だけを見ていた。

 体を離したオリヴィエの顔は笑顔だが、その翡翠色の瞳の奥にかつてのような澄み切った色は見えなかった。


「……せめて、これだけでも」


 ソフィアは袋に入った小さな白い花と、手作りの焼き菓子を差し出し、そっと手を握った。潮風に揺れるユーロ札の束と、優しく笑いかけるオリヴィエを交互に見つめ、やがてオリヴィエの手をそっと離した。

 彼らは振り返ることなくバイクに跨り、海沿いを走り去っていく。遠くのエンジン音がやがて波音に消されていく。

 そこに残されたのは静かなスタジオと、パタパタと潮風に揺れるユーロ札の束、愛した青年の変わり果てたような温度だけ。そして何も知らず、何もできずに立ち尽くす少女のみだった。



 カラブリアへ向かうフェリーでは、甲板の欄干に激しい風が吹き抜けている。リカルドは肘をつき、遠ざかりゆくシチリア島の影をただ無言で見送っている。吐き出されたタバコの煙が潮風に溶け、未練を残すことなく薄く消えていく。


 オリヴィエはその横顔を見つめ、麻袋を握りしめ、手のひらに吸い付く湿った感触を確かめる。

 麻袋の中には、リカルドから受け取った仮の身分証と、ハンドポークの針が入っていた。手にはソフィアから受け取った袋が、少しくしゃくしゃになっている。中を覗けば、かつて渡してくれた白いデイジーの花がそっと一輪入っている。

 香ばしい焼き菓子の匂いに混じる柔らかな花の匂いに、オリヴィエは罪悪感と、自分の愛した町の日常が遠くなるような感覚で眩暈がした。


「……ソフィアとは、何か話したのか」


 不意に話しかけられ、オリヴィエは振り向いた。


「また、戻るって。でも、ちゃんとお別れ、しました」


 リカルドはそれ以上何も言わずに、ただ最後の一服を肺に深く溜め、重く吐き出した。

 港が近付き、震わせるほど大きな汽笛が鳴り響く。その音に肩を跳ねさせ、オリヴィエは思わず振り返った時だった。

 袋から溢れたデイジーが、風に攫われひらりと飛んでいく。


「あっ」


 声を上げ、手を伸ばすよりも早く、白い花弁が青い波間の中へと消えていった。スクリューの立てる白い漣に揉まれ、やがては海の底へと飲み込まれて消えた。

 オリヴィエは消えた白い波間を見つめたまま立ち尽くす。やがて何も言わず、黙って袋を麻袋の中へと押し込んだ。


 港へ着くと、漆黒のセダン車が待ち構えていた。灰色のスーツを隙なく着こなしたジョヴァンニがその横で、笑みを湛えて立っている。


「ようこそ、長旅で疲れただろう」


 恭しく扉を開くと、中は無機質で相変わらずクラシック音楽と新車のような革の匂いに満たされている。リカルドは助手席の後ろでその長い脚を窮屈そうに折り畳み、窓の外を睨みつけている。街中へと走り出した車窓から見える道は、驚くほど平坦だった。潮騒も、オリーブ畑の青々とした匂いも、潮風に混ざる泥臭い生活の匂いもない。ただ雲ひとつない青空が酷く無機質で、陽光が白々しくガラス窓を照らしていた。


 オフィスに着くと、ジョヴァンニは三階の客室へと招いた。

 「禁煙だ」と釘を刺され、リカルドは渋々タバコを床に投げ捨てていた。相変わらず無表情で、どこか生気のない亡者のような足取りだったが、警戒を解かず長い廊下を睨み続けていた。

 通されたのは、以前オリヴィエが訪れた時と同じ部屋だった。部屋には向かい合わせのソファーと、ガラス張りのテーブル。

 人間味を排した無機質な部屋。白を基調とした部屋は、手術室のようにも思えた。


「飲み物はエスプレッソ? それともワイン?」

「……何でもいい。さっさと本題を話せ」

「そう警戒しなくてもいい。私たちは君らを、あのシチリアの魔の手から逃してやりたいと考えているんだ」

「なぜドブネズミのような俺を欲しがる」


 ジョヴァンニは手に白いカップを二つ持ちながら、優雅に肩を竦めてみせる。


「とんでもない。君と、君の弟子のオリヴィエは素晴らしい才能の持ち主だ。あのシチリアで燻るには勿体無いくらいにね。メッシーナの架橋計画は、今や国の威信をかけた巨大プロジェクトだ。それを私利私欲のために利用する連中から、君たちのような「純粋な芸術」を守りたい。……わかるだろう?」

「御託はいい。そのシチリアの奴らを、どうやって黙らせるつもりだ」

「簡単さ。連中が欲しがっているのは結局のところ金だ。私たちは政府公認という立場にあり、金の流れを支配している。連中の鼻先に別の利権をチラつかせてやれば、目が眩んで、もはや君たちには目も向けないさ」

「……おめでたい話だな。そんな簡単にいくかよ」


 リカルドの冷笑を、ジョヴァンニは余裕のある笑みで受け流す。


「資料ならいくらでも提示できる。君たちが納得できるだけの……」

「話にならねぇ」


 リカルドは隣に座る、オリヴィエを睨みつけた。


「ガキ、お前はこいつの話を、額面通りに受け取ったのか」

「ドメニコの危ない仕事も、全て知っていて、リカルドさんが巻き込まれないなら、と……」


 オリヴィエの悲痛な声に、ジョヴァンニは更に追い討ちをかけるようにNokiaの携帯を手に取った。


「まぁ、待ってくれよ。せっかくここまで来たんだ。現場の責任者を紹介しよう。彼ならもっと、実のある話が出来るはずだ」


 ジョヴァンニはNokiaの携帯で電話をすると、静寂に包まれた。室内には、外からの重機の音と重い石の砕けるような音がする。壁に掛かった時計がやけに大きく響き、そして、しばらくして背後の扉が開いた。

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