過去の亡霊-2
シエスタ後の夕方前、スタジオの扉には「chiude」と書かれた看板がぶら下がっている。
夕陽が差し込むスタジオに一人、マシンの唸り声だけが空虚に響いている。
オリヴィエが出掛けた後の静寂は、かつて当たり前だったはずの孤独を、耐え難いはどの重圧に変えていた。
リカルドはニッパーを手に、スプリングの調整を行うが、ドメニコに突きつけられた「次の仕事」が頭を支配して手が思うように動かない。
このままドメニコとの影に飲み込まれれば、コンペの栄光などどうでもよいほどに、地獄への片道切符に手を出すことになる。それも、あの無垢なオリヴィエを道連れにして。
作業台に置かれた、ドメニコから手渡された茶封筒を見つめる。その中にある身分証を、忌々しげに透かし見るように見つめた。
あの青年は、十二年前のあの夜に置いてきた忘れ形見。あの翡翠色の瞳は、罪を、孤独を、焦燥を見つめていた。
「忘れろ」と自分にも言い聞かせてきた罪が、十二年の時を経て、突き返されるようにして自分の前に再び現れた。
運命と言うにはあまりに悪趣味だ。
(あのジョヴァンニとかいう政治家や起業家のような男が、なぜドブネズミのような俺を欲しがる……だが、ドメニコよりはマシな飼い主なのか)
だが、それは別の鎖に繋がれることを意味する。
エレナとその子どもを救うこともできなかった俺が、泥のような過去を追ってわざわざシチリアまでやって来たあのガキを、再び光の中へ戻してやることなどできるのか。
だが、俺は知ってしまった。
「エレナ……何を選択すればいい。何を捨てれば、あいつだけは……」
弱々しく漏れた呟きは、窓から入り込む遠くの波音に掻き消され、潮風に流されていった。
リカルドは疼く左腕を強く撫で、窓の外に広がる海を見つめた。熱を持った皮膚に自ら爪痕をつけ、痛みを刻みつける。
深く目を瞑り、使い古されたソファーへと静かに沈み込んだ。
◇
オリヴィエがスタジオに戻った時、海辺の街は夕陽のオレンジに染まっていた。
扉にかかった看板が店じまいを告げ、中は薄暗い。何かあったのか、それともまたバールへと飲みに向かったのか、とオリヴィエは鍵を回して扉を軋ませた。
中に入れば、充満する消毒液とタバコの匂い。付けっぱなしの換気扇はカラカラと空回りし、開け放たれたままの窓から吹き込む潮風がリネンカーテンを揺らしている。
作業台にはマシンや工具が、力尽きたように無造作に放置されている。
オリヴィエは木の床を軋ませ、自室への衝立をそっと開けた。中には、紫煙と安酒の匂いが重く澱んでいる。
「ただいま、戻りました……」
小さく投げかけた声は、静寂に吸い込まれていく。
目を凝らすと、ソファーの上で横たわるリカルドが薄暗い中で浮かび上がった。
テーブルには灰に積もった灰皿と、半分残されたままのグラス。寝息に混じる強い酒の匂いが鼻を刺す。
オリヴィエは膝をつき、彼の端正な顔をじっと見つめた。長いまつ毛とくすんだ金髪が潮風に揺れ、黒いTシャツの肩が時折寒さに震えている。
「風邪、引きますよ」
ベッドからシーツを持ち出し、リカルドの上に優しくかけた。
シーツの隙間から覗く、首元から指先まで黒く塗りつぶしたポリネシアン風のタトゥー。その下に隠されたはずの太陽を思い、オリヴィエの胸が疼く。ハージムが見せた色褪せた太陽のタトゥーが頭に過ぎる。
オリヴィエは吸い寄せられるようにシーツを捲り、そっとリカルドの左腕に指を滑らせた。幾重にも重ねられた皮膚の凹凸を探り、かつてそのにあったはずの光を探すように。
だが、その時、ふとリカルドは薄く目を開けた。
叱責されるかと身構えるが、リカルドの太い腕が伸び、オリヴィエを自身の胸元へと強く抱き寄せた。
強引で、それでいて弱々しい力。オリヴィエは呆然としたまま、彼の胸元に顔を埋めた。
「あの……リカルド、さん……」
上擦った声を出すのが精一杯だった。密着した体から、自身の鼓動がリカルドに伝わるのではないかと恐ろしくなった。
「……すまない。俺が、全て間違えて……」
「リカルドさん?」
「すまない……エレナ……」
自分ではない誰かの名前。
呟かれた瞬間、リカルドの腕に更に力がこもった。手放すまいと必死に縋るような悔恨に満ちた震え。
オリヴィエはその腕に触れ、インクが重ねられたタトゥーの凹凸に指を沿わせた。表面の皮膚は冷えているのに、その下の筋肉が熱く、硬く硬直しているように思える。褪せて冷たく光っていたハージムとは違う、淡く、今にも消えてしまいそうな痛切な熱。
(でもこの人は……確かに存在する、僕の「神様」だ)
その名前を知らない。だが、リカルドが夢に見ているのは自分ではなく、自分を介して見つめているのは、決して届かない遠い過去の誰か。
(リカルドさん、僕は、ここにいますよ)
声に出すことが出来ず、複雑な彼の心情を思うと返事ができなかった。
オリヴィエは返事をする代わりに、静かに自らの手首にある小さな太陽をリカルドの黒い腕に重ねた。そして、腕に抱かれたまま静かに目を閉じた。




