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インク アライブ  作者: おーひょい
メッシーナの架け橋
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残滓-1

 翌朝、その日リカルドは先に起床していた。オリヴィエが起きた時には、すでにスタジオの奥でマシンの低く唸る音が響いていた。

 テーブルにはクロワッサンが二つ置かれている。冷え固まったチーズは罪悪感とともに喉に絡みつき、飲み込むたびに窒息しそうな錯覚を覚える。


 朝の掃除の間、箒を床がザリザリと擦る音さえも耳に刺さり、ジョヴァンニとの密会のことが頭から離れなかった。だが、しばらくして、リカルドへ意を決して出掛けることを伝えた。カターニアへ行く、と。


「何しに行く」


 リカルドの青い瞳が、逃げ場を塞ぐように真っ直ぐに射抜く。


「コンペで、出会った人と、カターニアで……」


 声は自分でもわかるほどに惨めに震えていた。リカルドは何も言わず、ただ数秒の間、オリヴィエの嘘も何もかもを暴くように見つめている。その重苦しい沈黙に、オリヴィエは逃げそうになる視線を必死に抑えた。


「……そうか。行ってこい」


 ようやくリカルドは掠れた声でそう告げると、タバコに火をつけた。深く吸い込んで吐き出された煙が、彼の顔は薄く霞んでいる。その霧の中に消えていく背中へ、オリヴィエは「はい」とだけ答え、麻袋を握りしめて逃げるようにスタジオを後にした。



 オリヴィエはバス停の文字を必死に読み、ようやく乗り込んだバスでカターニアへ向かった。黒いエトナ山の山影が近付いてくるたび、胸の奥に重くのし掛かる。

 あのカターニアの会場近く、噴水のある開けた場所に来ると、ジョヴァンニとともに汚れひとつない黒い高級車が停められていた。灰色のスーツに身を包む彼のシルエットに、オリヴィエは後戻りができない苦しさで心臓が跳ねた。


「わざわざ来てくれてありがとう、オリヴィエ。さぁ、乗ってくれ」


 助手席に促されて乗り込むと、車の中は新品の革の匂いとクラシック音楽に満たされている。マルコの車よりも広く快適なはずなのに、逃げ場がないほどに狭く苦しく感じた。二人はメッシーナを経て、そこからフェリーに乗ってカラブリアへと向かった。

 ようやく辿り着いた現場には、建設途中の剥き出しの鉄鋼を背に、場違いなほど洗練されたオフィスが佇んでいた。近くでは、建設が進む現場で重機が重苦しい音を立てて基礎を流し込んでいる。

 オリヴィエはオフィスに案内され、三階の来賓室に向かう。中は白を基調として、あの名刺のように無駄のない無機質なデザインだった。


「座りなさい。遠いから疲れたろう」


 壁に掛けられた酷くシンプルな時計は、すでに十二時を差している。ジョヴァンニに勧められ、埃一つない茶色のソファーに腰を下ろす。音もなく沈み込むその感触は、足を取られたような感覚にさえなる。


 ジョヴァンニはガラステーブルの上にコーヒーを二つ、優雅な手つきで用意すると、向かいのソファーに座った。そして眼鏡の奥、目の前のオリヴィエを観察するように見つめた。窓の外では、巨大な重機が地面を抉る地響きを立てている。


「よく来てくれたね、リカルドは今スタジオで仕事を?」

「はい。今日は、コンペで知り合った人に話を聞くと言っています」

「……そうか、それなら問題ない。ではビジネスの話をしよう。以前彼に提示したスポンサーの件だが、君はどこまで知っているかな」


 ジョヴァンニは組んだ足の上で指先を絡め、試すように目を細めた。オリヴィエの脳裏に、あの夜のバルコニーで見たドメニコの笑みが過ぎる。


「私は君たちを責めようとは思っていない。むしろ助けたいと思ってるんだ。リカルドの技術は無骨だが、確かな腕がある。それをあんな、手の汚れた連中に使い潰されるのはあまりに惜しい。……芸術は自由であるべきだ。君も、そう思うだろ?」


 その言葉は、オリヴィエが最も欲していた「正義」の形をしていた。オリヴィエは拳を握りしめ、縋るような目でジョヴァンニを見つめる。


「僕だって……リカルドさんが、あんな人たちのために針を持つのは、いやだ。あなたは、あの人をドメニコから引き離してくれますか?」


 ジョヴァンニの口角が、三日月のように滑らかに吊り上がった。


「もちろんさ。君もそう言ってくれると思ったよ。……そのために、もう一人紹介しておきたい男がいる」


 背後の扉が音もなく開き、一人の男が足を踏み入れた。

 リカルドと同じくらいの体格。オールバックに固められた天然パーマ掛かった黒髪に、真っ白な部屋の中で、濁ったように黒く光る灰色の瞳。

 その男が放つ違和感に、オリヴィエの心臓は、冷水を浴びせられたように冷えた。どこかリカルドの姿を彷彿とさせるが、何かが決定的に欠落した異様な既視感がある。


「彼はこの現場のプロジェクトの責任者だ。君たちを見つけたのも、彼なんだよ」


 オリヴィエは動揺を隠そうと男は向けて左手を差し出し、握手をしようとするが、その男は静かに右手を差し出し直した。


「すまない、左腕が少し不自由でね。右手でもいいかな」


 差し出し直した右手で手を握った瞬間、力強く、握りつぶされそうな感覚になる。それは握手というよりも、捕獲に近く、オリヴィエの目は吸い寄せられ、離れることを許さないかのようだった。

 男は更にオリヴィエの目を、覗き込むような深い眼差しで見つめた。


「はじめまして、オリヴィエ。ここを監督している、ハージムだ」

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