皺のついた罪悪感-2
市場の喧騒を抜ける潮風が、新鮮なトマトや魚の生臭い匂いを運んでくる。路地を抜けて届いた潮風の匂いを嗅ぎながら一日振りの市場を見て回った。コンペから一日経ち、昨日までの緊張や熱気が嘘のように、シチリアの日常は穏やかだった。
そこで偶然出会ったマルコの妹、ソフィアの笑顔は、今のオリヴィエにとって何よりも眩しかった。
「オリヴィエ。お兄ちゃんから聞いたよ、コンペ、すごく頑張ってたって」
「へへ、リカルドさんに助けてもらってばかりだったけど」
「怖くても、針を刺そうと勇気を出したんでしょ。あの人の心にも、届いたんじゃないかな」
──お前の祈り、誰かにも届いたらしいぜ
ステージの上で目も眩むほどのシャッターと照明の光の中で、リカルドにぶっきらぼうに言われた言葉が蘇る。
「そうだといいな」
「オリヴィエがステージですごい泣いたって聞いたよ。本当に頑張ったんだね」
「え! あ、そう……恥ずかしいな。……リカルドさんに認められたことが、何よりも、嬉しかったんだ」
少し顔を赤らめ、俯きながら熱を帯びた声で答えるオリヴィエを、ソフィアはじっと見つめた。
「……オリヴィエは、リカルドさんが好きなの?」
「え!? いや、好きっていうか……憧れ、っていうか」
「そっか。リカルドさんの話してる時、なんだか好きな人の話をしてるみたいで……少し、嫉妬しちゃうなって」
「そうかな? うん? 嫉妬、しちゃうの?」
その言葉にオリヴィエは心臓が跳ね、ソフィアは顔を真っ赤にして視線を落とす。
「それは……うん。嫉妬、するよ」
「……そ、そっか」
「うん……」
二人は赤く顔を染めながら俯き、黙る。
気まずくも甘い沈黙の中、遠くで砕ける波の音が静かに二人の間を通り抜けていく。
沈黙を切り裂いたのはソフィアだった。真っ赤な顔を上げるとオリヴィエを見つめ、手を取り、爪先立ちになって頬に軽くキスをした。
「私も見に行ったらよかった。おめでとう、オリヴィエ。また今度、スタジオにお祝い持っていくね。それじゃ!」
茶色い髪を靡かせて走り去る彼女の背中を、オリヴィエは呆然と見つめた。
キスを受けた右頬を手で押さえ、目を見開いたままその場で立ち尽くした。石鹸のような残り香、柔らかな唇が優しく触れた頬が、彫られたばかりのタトゥーのように熱く熱を持っている。
呆然と沈黙のままだったが、意図を理解した途端、一気に顔が火照った。
しかし、歩き出そうとした太ももの付け根を、あの名刺の角が現実に引き戻すように刺した。オリヴィエは赤らめた顔のまま、一度だけ深く息を吐き、それから重い足取りで市場を後にした。
◇
パンを買いに路地を抜けると、コーヒーの焦げた香りが鼻を刺した。
カルラのバールの軒先で、太陽の飾りが陽光を乱反射させている。
オリヴィエはパン屋の店主に「グラッツィ」と言うと、そのままスタジオではなくバールへと向かった。
中に入ると、カウンターに置かれた古いエスプレッソマシンは相変わらず低く唸っている。窓辺にはいつもの老人が新聞を広げて水を飲み、カウンターにカルラの吸い殻が灰皿に積もっている。壁にはサンタ・ロザリアの絵や船の絵が埃を被り、今日も店内を見下ろしている。
カターニアから戻ってまだ数日だと言うのに、見慣れたこの街の景色が酷く懐かしく感じる。
「おい、そこの受賞者! 噂は聞いてるよ!」
カルラはオリヴィエに気付くと、カウンターの奥から「oi!tu!!」とハスキーな声で呼んだ。
「お前、コンペで優勝したんだってな。マルコとアンナが自分の手柄みたいにえらく自慢してたよ」
「いや……優勝じゃなくて、特別賞で」
相変わらず街の噂が早く、大袈裟に伝わることも変わらないなと力無く苦笑する。
「賞に変わりはないだろ。で、カターニアの連中から、どんな賞金を分捕ってきたんだ?」
「賞金はなくて、重たい盾だけだった」
「ハッ! 景気の悪い話だな。いいよ、代わりにコーヒーを一杯おごってやろうか」
「……お願いします。でも、それより……電話、貸してほしいんです」
オリヴィエはカウンターへ歩み寄り、ポケットからくしゃくしゃになった名刺を取り出した。カルラから受話器を受け取ると、指先が緊張か、罪悪感のせいか震える。番号を押し、耳に当てた受話器からブザーのような呼び出し音が鳴る。やがて応答した受話器の向こうから、遠い街の喧騒が聞こえてきた。クラクションの音、そして重機が土砂を運ぶ重苦しい地響き。
「……この間の話、詳しく、話をさせてもらえませんか。……リカルドさんには、内緒で」
自分の声なのに、どこか別の場所から聞いているような錯覚に陥った。リカルドを自分の手で売り飛ばす、そんな感覚に喉が締め付けられる。
一瞬の静寂の後、ジョヴァンニは無機質な音質のまま答えた。
「賢い選択だ、オリヴィエ。明日の昼ごろ、カターニアへ来なさい。車で迎えを向かわせよう」
受話器を置いた後も、電話越しに聞いた重機の音が、胸のざわめきを抉るように、脳裏に響いて鳴り止まなかった。
スタジオに戻ると、リカルドは相変わらず作業台の前でマシンの調整に没頭していた。規則正しい「あの子」の音さえ、今や重機の重苦しい音に聞こえて、喉の奥から苦いものが迫り上がってくる。
ジョヴァンニに電話をした。その事実が、重い鉛のように吐き気が襲ってくる。
「遅かったな」
リカルドが顔も上げずに呟いた。その何気ない一言にさえ、裏切りを悟られたのではないかと肩が跳ねる。オリヴィエは絞り出すような声で「はい」とだけ答え、衝立の向こうのベッドへと崩れ落ちた。
麻袋の中から、先ほどまで握りしめていたジョヴァンニの名刺を見つめる。
くしゃくしゃに萎びた紙。彼を救うための切符であるはずの紙が、酷く頼りなく見える。
(コンペで出会った人が話をしたいと言っているから、明日カターニアへ行く……)
用意していた嘘を内心で呟く。それは吐き出されることなく、口の中でどろりと溶けていった。リカルドのあの鋭い、見透かすような青色の瞳の前で、そんな薄っぺらな嘘が通用するとは到底思えなかった。
オリヴィエは伸ばしかけた名刺を、再び手の中で握りしめた。
それから音を立てぬよう壁に掛かった革ジャンへと歩み寄る。そして、ポケットの中へ名刺をそっと戻した。
盗んだものを返しただけではない。
オリヴィエは今、リカルドの知らないところで、彼自身の人生の一部を勝手に売り払ったのだ。
革の匂いが鼻を刺す。オリヴィエはその不実と罪悪感に耐え切れず、手首に刻まれた太陽を強く、皮膚が赤くなるまで強く握りしめた。




