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インク アライブ  作者: おーひょい
メッシーナの架け橋
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皺のついた罪悪感-1

 カターニアから戻った日常は、拍子抜けするほどあっさりと再開した。

 マルコにスタジオの近くまで送られ、見慣れたスタジオの扉を開けたリカルドは、カバンに雑にしまわれた盾も、「そこらへんに適当に置いておけ」と吐き捨てた。


 オリヴィエは「はい」と返事はするものの、会場で見たドメニコの冷徹な笑みが頭にこびりついて離れない。盾を抱えたまま、オリヴィエはその場で立ち尽くした。換気扇がカラカラと回る音だけが、やけに大きく耳を刺す。

 静寂のスタジオは少し埃が溜まり、オリヴィエが窓を開け放つと、月明かりに反射して白々しく輝いている。その場違いな美しさが、自分たちの平穏がいかに危うく、脆い張りぼてであるかを突きつけているようだった。


 リカルドは二台のマシンを作業台に置き、工具の数や歪みがないかの確認作業に没頭している。オリヴィエも無言でもう一つの大きなボストンバックを漁り、スチール棚の上へインク瓶や針、ラテックスの手袋が入った箱を並べていった。

 インク瓶や針の箱が棚に触れるたび、硬い金属音が鳴っている。その音が、会場内で交わされるグラスのぶつかり合う音に重なり、ジョヴァンニという男の低い声を思い出す。


──若者に、メッシーナのような危ない橋は渡らせたくはないだろう?


 彼の話に乗れば、リカルドは本当の意味で自由になれるのではないか。

 だがリカルドは一人で全てを背負い込む男だ。あの茶封筒も、急なコンペ出場も。きっとリカルドは、オリヴィエという「不都合な存在」を守るため、本土からの救いの手を自ら振り払うだろう。


 自分の存在が、リカルドの羽を縛る鎖になっているのではないか。


 そう考えると、オリヴィエは胸の奥を焼くような無力感に襲われた。リカルドが自分を見つけ、救ってくれた。ならば今度は、自分が彼を救う番なのではないのか。


(……僕が、彼をあっち側へ追い出せばいいんだ)


 それがリカルドの意思に反すること、つまり「裏切る」ことになることは理解しているが、今のオリヴィエにとっては、唯一の希望に思えた。リカルドの技術が、このシチリアの影に飲み込まれて朽ち果てるくらいなら、汚名を被ってでも彼を突き飛ばしてやりたい。

 オリヴィエは手首に刻まれた太陽を強く握りしめ、ガラス瓶に映る自分の瞳をじっと見つめた。


 リカルドは早々にマシンの確認を切り上げると、酷く疲弊した足取りで衝立の向こう側へ消え、ソファーに身を投げ出した。オリヴィエも備品を元に戻しながらその後ろ姿を盗み見る。背凭れに隠れるように丸まったその背中は、薄い照明の灯りに照らされて小さく見える。

 その向こうには、壁に掛けられた革ジャンが風に煽られて頼りなく揺れている。

 あのポケットの奥に、ジョヴァンニから受け取って、くしゃくしゃに押し込んだ名刺があるはずだ。

 オリヴィエは激しい罪悪感に押しつぶされそうになりながらも、視界の端で揺れる黒い影を見つめ続けた。



 翌朝、オリヴィエが目を覚ました時、リカルドはまだソファーで深い寝息を立てている。

 オリヴィエは音を立てぬよう起き上がり、洗面台の鏡へと向かった。ボサボサの長髪を手櫛で整え、手首の粗末なゴムで無造作に結う。鏡に映る疲れ切った顔の自分は、共犯者を探すような湿った目をしている気がした。冷たい水で顔を洗うと、無理やり気合を入れるように頬を叩いた。


 リカルドが起きたのは、日が昇り切った七時を過ぎた頃。

 目元が黒く窪んで、無精髭を蓄えた顔は、一晩中彷徨い続けたように疲れきった様子だった。

 リカルドは、オリヴィエの用意した焦げ目の付いたスクランブルエッグを乗せたトーストを前に、一瞬探るような目線を向けた。立ち去り、洗面所からしばらくして戻ると、首筋には剃り残した鋭い緊張感が張り付いている。

 トーストを前に、リカルドは再びオリヴィエの顔を疑うように顰め、だがすぐに「しょっぺぇな」と短く毒付きながらも食べ終えた。コーヒーを啜り、読み終えた新聞を乱暴に畳むと、「散歩行く」とだけ呟き、タバコを咥えて出て行った。


 オリヴィエは食器を片付けながら、扉が閉まるのを確認して革ジャンの元へと歩み寄る。

 ポケットに手を差し込むと、指先に硬いコインの感触と、カサついたゴミクズが触れる。中からはぐしゃぐしゃの名刺が数枚出てきた。その中から切れそうなほど鋭利な白い名刺を見つけると、他の物は元に戻した。

 丸められた名刺を、丁寧に皺を伸ばしていく。埃っぽい室内で、場違いなほど白く、シンプルで洗練された紙を見つめる。


(あとは、シエスタの時に、電話するだけだ……)


 一度表面を指の腹で撫でて感触を確かめる。自分もまた、リカルドの背負い隠す影の中へと足を踏み入れたことを確信しながら、オリヴィエはズボンのポケットへとしまった。



 昼下がりの穏やかな陽光が、スタジオの床に溜まった埃を照らし出していた。


「パンとトンノ、それから赤エビも頼む。……新鮮なやつだぞ」


 背後から掛けられたリカルドのいつも通りの声に、オリヴィエは裏切りを抱えたまま胸が引き攣るのを感じた。上擦りそうになる声を抑えながら、冷静を装って返事をして逃げるように飛び出した。

 ポケットの中にある紙の感触が、その狭い空間で酷く存在感を放っている。

 オリヴィエの市場の隅にある、潮風で錆び付いた公衆電話へと駆け込んだ。透明なボックスの中、汚れに塗れたシルバーの受話器を取り上げ、震える手で十セント硬貨を入れる。

 だが壊れているのか、受話器からは電子音どころか沈黙を返すだけ。


「嘘だろ……」


 お釣りを出そうと返却レバーを何度も叩くが、コイン機械の闇に飲まれたまま二度とは戻ってこなかった。コインが機械の底に落ちる音が、自分の稚拙な決意を嘲笑っている気がした。


 オリヴィエは力無く肩を落としながら、市場へと向かった。

 馴染みの魚屋、ヴィットリオと挨拶を交わし、跳ねるような赤エビとマグロの切り身を受け取る。


「……ヴィットリオ、電話って、いつ修理されるかな」

「電話?あぁ、あれか」


 ヴィットリオは魚臭い手を、血に汚れたエプロンで乱雑に拭う。


「一年前に壊れた屋根を直しに来るのに何年も掛かるような街だぞ? 電話なんて三十年はかかるだろうよ。それまでは伝書鳩でも飛ばすんだな!」


 ヴィットリオは肩を竦めながら笑い、呆れたように手を振った。市場の喧騒が遠くに聞こえる。


「……三十年。僕、五十二歳になっちゃうな」


 的外れな呟きが、潮風に流れて溶けていった。あと三十年、この街の中でドメニコの影に怯えながら、リカルドの絶望を見つめ続けなければならないのか。手首の太陽が疼き、再び熱を帯び始めた。

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