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インク アライブ  作者: おーひょい
メッシーナの架け橋
54/72

残り火-2

 タバコに火をつけながら、リカルドは手摺りに凭れて深く吸い込んだ。吐き出した灰色の煙が、すぐさま夜空の黒に染まっていく。

 しばらくして重厚な革靴の音が近付き、ドメニコが少し離れた位置の手摺りに凭れた。ライターの蓋を弾く金属音。リカルドの吸う安物の匂いを、ドメニコの燻り出した高級な葉の香りが暴力的に塗りつぶしていく。


「あんたの部下、よっぽど俺のことが好きらしいな。コンペの間、抱かれに来る女みたいに俺を見つめてたぜ」


 リカルドは挑発するように鼻で笑った。だが、ドメニコは答えず、ただ紫炎を吐き出した。冷ややかな沈黙が、リカルドの軽口を空虚なものへと変えていく。


「受賞者は大変だな。色んな奴が営業に来るだろ」


 ドメニコは獲物を探すように冷え切った目で、会場内の喧騒を眺めている。一瞬リカルドのタバコを挟む指先が止まるが、すぐに灰を落として平静を装う。薄暗い静寂のバルコニーで、火がちりちりと燃える音だけが響く。


「おかげで、知らねぇ奴から名刺ばっか渡されてる。裏に女の番号でも書いてありゃ良かったんだがな」

「良かったじゃないか、お前の技術が認められて。これなら、お前のスポンサーになった甲斐があるってもんだ。誰も疑いようがない。……そうだろ、リカルド?」


 ドメニコの視線が、リカルドの革ジャンのポケットに収まったジョヴァンニの名刺を、皮膚の上から直接なぞるように捉えた。その不実を透かし見たような目に、リカルドは肺の奥が焼けるような、それでいえ冷えるような感覚に陥る。


「……さぁな」


 リカルドは視線を外し、手摺りに肘をついて遠くの街並みを眺めた。排気ガスに混ざった二種類の煙が、夜の闇に溶けていった。


「しかし、あの騒ぎの中よくフリーハンドで彫れたな。審査員どもも目を見開いてたぜ」

「……あいつのデザイン、単純なんだよ」

「素直じゃねぇな。ガキを表に立たせたのだって、利用価値があることを俺に示すつもりだったろ」


 紫煙を燻らせ、ドメニコは低い声で笑った。だが、リカルドは鼻で笑い、その煙を追いやるように煙を吐き出す。


「頭の悪い俺が、そこまで考えて動いてると思うか?」

「お遊びのギャングごっこでも、心理戦はお前にとって日常だったはずだ。違うか?」


 ドメニコは低く笑い、リカルドの横顔を覗き込み、肺に溜まった煙を吹きかけた。


「……何のことだか」


 リカルドは渋滞の列を眺め、一瞬の空白をおいて答えた。ドメニコの高級そうなキツい香りの煙が、リカルドの安物のタバコを飲み込んでいく。


「まぁいいさ。今回は及第点だ。箔がついて立ち回りやすくなった」

「……まだ俺に踊れって言うのかよ」


 ドメニコは灰を弾き、足裏でザリザリと踏み躙った。


「御伽話ならそれで良かったかもな。だが現実は、受賞したからめでたしって訳にはいかねぇ」


 ドメニコは消えなかった残火を足元に投げ捨てた。白く細く立ち上り、二人の間で境界線のように揺れている。


「タダで身分証を発行してやったわけじゃない。メッシーナの計画段階で膨大な金が動いてるんだ。……地元の文化復興と、労働者と地元民へのアピールのため、橋をテーマにしたデザインを彫ってほしい」

「……現場の労働者なんて、一体何人に彫るんだよ」

「全員じゃない、資金を請求するために、日に数人、いつも通りに彫れば済む」

「水増し分をお前らが自由に使うってか。動いてる金の割に、随分地味な小金稼ぎだな」

「その通り。だから、お前たちのスタジオをメッシーナへと移す。家賃も、機材も、人材も、全てこちらが出資しよう。……あの胡散臭い男の倍は出してやれるぞ?」


 ドメニコの視線が、リカルドの首元から爪先まで値踏みするように這い回り、喉の奥で乾いた音を立てた。


「……断れば?」

「断れば、あのガキの身分が「存在しない子供」に戻るだけだ。警察への匿名通報付きでな」


 リカルドは奥歯を砕けんばかりに噛み締め、聞き取れるかどうかの小さな声で「クソッ」と毒付いた。


「あいつは……関係ねぇだろ」

「おいおい、同じことを二度も言わせるな。……これからは、彫ることをやめるのも、勝手に死ぬのも許さん。ガキを逃がせば、元の「不法滞在」に戻るか、橋脚の一部として師弟共々海の底へと沈むか……好きな方を選べ」


 ドメニコの冷たい瞳が、リカルドの視線を射抜く。その冷たさに、背中が凍りつくような嫌悪感を覚えた。


「……一番胡散臭いのはアンタだよ」


 リカルドは踵を返し、足元の煙を振り払うように室内へと戻った。背後で響く乾いた笑いが、頭にこびりついて離れない。


 会場ではオリヴィエが他の参加者とともに、ぎこちなく雑談をしていたが、リカルドが強引に割って入り、驚く彼の細い手首を掴んだ。


「帰るぞ。ここは空気が不味すぎる」


 マルコが「おい、ちょっと!」と制止する声を無視し、リカルドは装飾の施された大扉を叩きつけるようにして押し開けた。



 帰りの車内は、湿った夜風と静寂に満ちていた。

 ほろ酔いのマルコは変わらず上機嫌にハンドルを叩き、助手席に座るアンナは「もう少しあそこにいてやってもよかったんだけどね」と不満げに毒付きながらも、膝の上で受賞の盾を愛おしげに撫でていた。

 後部座席では、拳一つ分の距離を離しながらリカルドとオリヴィエが座っている。リカルドは相変わらず無表情のまま、開け放たれた窓から、遠くの闇に沈むオリーブ畑と海を無言で眺めている。

 オリヴィエは、隣に座るリカルドの横顔を盗み見た。先ほど掴まれた手首が燃えるように疼く。リカルドの手から伝わってきたのは栄光の熱ではなく、全てを跳ね除けるような焦燥だった。

 オリヴィエは居た堪れなくなり、反対側の窓へと視線を逃した。遠くに聳えるエトナ山の黒い山影が、巨大な獣の背中のように見えた。


「今日はすげえ一日だったな。会場の熱気、俺たちの街とは大違いだぜ」


 マルコがラジオのボリュームを上げ、静寂の車内を切り裂くように笑った。


「あんな凄い技術があるなら、あんたももっと愛想良く彫ればいいものを。本当に可愛げのない男だよ」


 アンナも不本意ながら、リカルドの技術と今回の受賞を受けて、誇らしげに鼻を鳴らしている。

 ラジオからは陽気なカンツォーネが流れ、アンナとマルコの陽気な声が狭い車内に響く。だがその笑い声も、リカルドには壊れたレコードのノイズにしか聞こえなかった。


 窓の外、見慣れた街の灯りが見えてくる。安息の地であったはずのその灯りが、今はドメニコという飼い主の待つ檻の入り口にしか見えない。リカルドは深く息を吐き出し、そのため息を夜風にさらった。


「……あぁ、愛想の良さは、よそへ売っちまったよ」


 リカルドは掠れた声で短く答えると、再び闇の中へと視線を戻した。オリヴィエは彼の言葉の中にある「何か」を必死で探ろうとするが、夜の帳は深く、隣にいるはずのリカルドがどこか遠い国の住人のように霞んで見えた。

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