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インク アライブ  作者: おーひょい
メッシーナの架け橋
53/72

残り火-1

 コンペ閉幕後、すぐ近くの一九世紀の邸宅を改装したラウンジには、受賞者たちの栄光を祝うシャンパングラスの音が軽やかに響いていた。

 淡いクリーム色の建物の二階、開けたパーティー会場の中央、ブュッフェ形式にカラフルなデザートや軽食が整然と並べられている。一張羅のドレスを揺らすアンナはエスコート役のマルコを従え「あたしが一番のモデルだったね」と誇らしげに胸を張った。


「はいはい。アンナ婆さんが今日の主役だよ」


 今日だけで三回は言っているアンナの言葉に、マルコは呆れながら苦笑した。

 煌びやかな会場の中央、オリヴィエはステージで泣き腫らした目元を赤くし、その圧倒的な熱量の雰囲気に気圧されていた。


「君のデザイン見たよ。うちのスタジオで見習いやらない?」

「俺たちのスタジオなら、今の倍は給料払うぜ」

「見習いでも、うちは福利厚生がしっかりしていて……」

「だ、大丈夫です! 僕はリカルドさんと彫りたい、から……」


 スーツ姿の男たちに囲まれ、愛想笑いを浮かべながらも、その視線は常に隣に立つリカルドの革ジャンの袖を求めて彷徨っている。

 リカルドは相変わらず無愛想な態度で、毒々しい色のカクテルを煽り、群がるスポンサーたちをぶっきらぼうにあしらっていた。


「みんな……仕事の話ばかりですね」

「そりゃそうだ。仕事を増やすためだからな。お前みたいに出たいだけの奴の方が少ねぇ」


 リカルドがカクテルを飲み干し、ウェイターから新しいグラスを引ったくった時だった。人混みを掻き分け、一人の男が近付いてくる。


「少し時間いいかな、リカルド」


 先の尖った眼鏡をかけた、洗練されたスーツを身に纏ったオールバックで髪を固めた男。シチリアの土着の空気とは明らかに違う、都会的で知性的な眼差し。

 そして、シチリア訛りのない本土のイタリア語を話す男に、リカルドは一瞬目を細めた。


「ナポリ訛りがあるな。営業ならスタジオに直接来い」

「はは、手厳しいな。私はジョヴァンニ。本土のカラブリアで複合施設の建設に関わっている。だが、単なる営業じゃない」


 リカルドへと肩が触れ合うほど近づくと声を潜め、周りに聞かれないような小さな声で続ける。


「……君のスタジオのスポンサー、「アート文化復興基金」だったかな」


 リカルドはその名前に忌々しげに顔を顰め、差し出された名刺を乱暴に受け取ると目を落とした。白く滑らかな紙に、ジョヴァンニの名前と建設会社の名前のみが記載されたシンプルなデザイン。


「その会社、特段動きも見えないようだが。どういった経緯でスポンサーに?」

「……アンタに関係ねぇだろ」


 メガネのレンズの奥で、リカルドの様子を観察するようにじっと見つめた。そして、リカルドの目が一瞬、彷徨うように背後の壁へと逃げたのを彼は見逃さなかった。


「もしかしたらその会社、「張りぼて」なんじゃないかと心配しているんだ。……まぁ、自ら手を貸している、とは言えないだろうが」


 リカルドはジョヴァンニの言葉に心臓を掴まれたように固まった。オリヴィエは隣で不思議そうな顔をしながらも、周りの雰囲気に呑まれて視線を不規則に動かしている。

 リカルドはその様子に安堵するも、目の前の男に、ドメニコとの取引がバレているかもしれない事実に、喉の奥が渇いて言葉に詰まる。警察関係者か、あるいはドメニコと「同じ奴ら」か。だが、極めて冷静に、ジョヴァンニにも、オリヴィエにも悟られないよう平静を装った。


「……ただの地元の、「親切」なスポンサーだ。で、お前は結局何が言いてぇんだよ」


 リカルドは飲み干したグラスをテーブルに叩き、ウェイターから真っ赤な色のカクテルを引ったくるように奪った。そして、地を這うような、威嚇するような声で呟く。

 ジョヴァンニは透明な白ワインを回しながら再び背筋を伸ばし、リカルドの瞳を真っ直ぐ見つめる。


「君たちの立場は難しいものだろうと察するが、その技術は正しい使われ方をするべきだ。例えば、君の見習いのオリヴィエ君とか……若者に、メッシーナのような危ない橋は渡らせたくないだろう?」


 その瞬間、オリヴィエの中で喧騒が耳の奥で遠のいた。無意識に手首の太陽を隠すように袖を引く。


──彫ってる間は自由になれる


 以前カポナータを食べながら、リカルドがそんなことを言っていたことを思い出す。


 正式な身分証の、あのつるつると指に吸い付くような紙の感触を思い出す。

 「今のお前には関係ない」と突き放すように吐き捨てた。だがその対価として何を切り売りしたのか。ジョヴァンニの言葉は、その隠した代償の正体を正確に射抜いていた。

 本土。そこへ行けば、剥き出しのコンクリートのスタジオではなく、マシンやスタジオも新調され、今よりもずっと素晴らしい環境で仕事が出来る。


(急なコンペも、素直に本土へ行けないことも……僕がいるから? それならいっそ……)


 オリヴィエは己の無力さに喉を焼き、逃げるようにして視線をバルコニーへ向けた時だった。外の手摺りに寄りかかるようにして笑う、あのコインランドリーで出会った男、ドメニコが夜の闇に溶けるような黒いスーツを着て、シャンパンも持たず、品評会で獲物を品定めするように見つめていた。


「リッ……リカルドさん……」


 何故ここにいるのか、理由は判然としないが、オリヴィエにはあの日のバールに向かうリカルドの背中と、正式な身分証の存在がはっきりと繋がった。

 やはり、全ての事柄に、あの男が関わっていたのだ。

 不安げなオリヴィエの声とその視線の先に、リカルドは忌々しげに舌打ちをして、名刺を握りつぶすようにポケットへ突っ込んだ。


「……考えておく」


 絞り出すようなリカルドの返答に、ジョヴァンニは満足げに目を細めて立ち去った。

 オリヴィエはバルコニーを見つめたまま、金縛りにあったようにリカルドの革ジャンの裾を固く握りしめていた。その指先が白く震えているのを、リカルドは見逃さなかった。


「オリー! こっちおいで、呼んでるよ!」


 アンナの陽気な声が、重苦しい二人の沈黙の間に割って入った。オリヴィエはようやく弾かれたようにドメニコから目線を外した。

 シチリア訛りで誇らしげにオリヴィエの名前を叫ぶその隣で、マルコはグラスを片手に、あの人懐っこい笑顔で他の客とも馴染み始めている。


 高い天井に吊られるステンドグラスは、祝福の光のようだった。その輝きが眩しければ眩しいほど、二人の間には受賞の栄光よりも、濃い霧のような影が落ちていた。オリヴィエは一度振り返り、不安そうな目でリカルドを見つめる。


「……お前はあっちで遊んでろ」


 リカルドは喉を焼くような真っ赤なカクテルを一気に煽ると、空のグラスを乱暴にテーブルに置いた。血のような余韻を喉に残しながら、彼は一人、バルコニーの闇へと向かった。

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