表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
インク アライブ  作者: おーひょい
メッシーナの架け橋
58/72

残滓-2

「はじめまして、オリヴィエ。ここを監督している、ハージム・アル・アンマールだ」

「はじめまして。……イタリア人、じゃないんですね」

「出身はレバノンでね。……君と似たようなものだよ。私の時は、少々荒々しい手段を選ばざるを得ない時代だったがね」


 オリヴィエの出自を知っているかのような口振りに、少し背中を冷たく撫でられている感覚に陥いる。その間も、ハージムの手はオリヴィエの手をがっちり掴み、石のように固まったまま離そうとしなかった。


「あぁ、すまない。少し怯えさせたかな」


 ハージムはふっと力を抜き、一歩後ろへ引いた。解放された右手が、熱を持ったまま小刻みに震えている。だがその異変を一瞥もせず、ハージムはオリヴィエの隣へ歩み寄り、平面図を取り上げてテーブルの上で広げ始めた。


「ジョヴァンニから聞いていると思うが、ここはアートを核とした複合施設になる。設計段階から君たちのスタジオは……この中央の、最も陽の差す特等席に配置する予定だ」


 指し示された平面図の細い線。だがオリヴィエには、その精緻な図面がリカルドが肌に刻むステンシルのように見え、同時に未だハージムの放つ異様な既視感に意識を削がれていた。


「ドメニコとの関係が気になるかい? 問題ない。我々の企業は政府の補助金……つまり、国家のお墨付きを得ている。マフィアやそのフロント企業が、逆立ちしても届かない聖域だ。これで、私を信じてくれるかな」

「リカルドさんの……自由。それは、あなたたちに本当に、出来るんですか」


 リカルドの名前を出された時、ハージムは一瞬右目の端をぴくりと痺れさせた。だが、彼はその激情を隠すように再び三日月型に口を歪めて笑った。


「……本当に君は、純粋で健気だね。リカルドが片時も離したがらない理由が、よくわかるよ」


 オリヴィエはその含みのある言葉に少し首を傾げるが、問い返す勇気は出なかった。


「シチリアのマフィアは古臭くて狡猾だ。慈善事業を装い、水増しした工事費を支払うことで、麻薬で汚れた金を「清らかな利益」へと書き換える。君たちは、そのための洗浄機に過ぎないんだよ」

「……自分たちで払って、自分たちに戻す? なんで、そんな面倒なことを……?」

「麻薬で稼いだ金だと正直に言えば、即座に刑務所行きだからね。表面上、正式な報酬として受け取った体裁が必要なのさ」


 オリヴィエは自分の無知を突きつけられ、少し俯いて赤面した。


「あ、なるほど……」


 ハージムはその様子に、生徒に教える教師のような愛おしげな微笑みを湛えて手を広げる。


「だからこそ、このメッシーナ海峡の巨大事業は、公金を吸い上げる絶好の機会。役所にも彼らの手垢がついている。だが、我々は政府直轄の公認企業だ。我々が金の流れを支配し、彼らへの道を断てば、商品価値を失った君たちに用はなくなる。……彼らが愛しているのは金であって、君たちの芸術じゃないんだ」


 複雑な仕組みはオリヴィエには半分も理解出来なかった。だが、ハージムの確信に満ちた声と笑顔、政府という圧倒的な「光」の響きは、ドメニコという影のルールを打ち破る唯一の武器のように輝いて見えた。


「よく、わからない。……けど、リカルドさんが、自由に彫れるようになるなら」

「……約束しよう。私が彼を、救い出してみせる」


 ハージムは満足げに頷くと、オリヴィエの肩を引き寄せた。リカルドのように大きな手、初めて触れた時のような温もりを感じ始めていた。

 ふっと目を細め、オリヴィエの左手首にある太陽を見つめた。そして、不自由だと言っていた左腕を机の上に乗せ、オリヴィエの視線の先でゆっくりと捲り始める。


「自由、か。いい響きだね。君の師匠がその太陽を刻んだのも、いつか自由に飛び立てると信じていたからかな?」


 オリヴィエは心臓を掴まれたような衝撃に襲われ、無意識に左手首に刻まれた太陽を袖の奥へと隠した。その拒絶を嘲笑うかのように、ハージムは自身の左腕に刻まれたそれを曝け出した。剥き出しの肌に刻まれた、古く、色褪せたかつての太陽のタトゥー。


「っ、それ……!」


 オリヴィエの喉の奥が恐怖で迫り上がった。自分の手首にある鮮やかな太陽とは正反対の残骸のような太陽。だが、確かに十年前に見た、あの太陽の光と違わぬタトゥー。


「私の左腕が死んでいるのはね、かつての友人と交わした約束の代償さ。……オリヴィエ、君も彼を救いたいと言うなら、相応の覚悟が必要だ」


 ハージムの灰色の瞳がオリヴィエの魂を射抜いた。自身が追っていたあの太陽が目の前にある。なのに、それを口に出すのも憚れるほど朽ち果てた太陽の残骸に、オリヴィエはただ、右手で袖を握りしめたまま隠すように拳を握ることしか出来なかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ