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インク アライブ  作者: おーひょい
影には影のルールがある
50/72

協奏曲-2

「俺の見習いが勝手なことをした。アンタも悪かったな」


 リカルドは顎髭の男へ一応の謝意を示し、それからすぐに氷のような視線を向けて若者を射抜いた。


「……後の始末は俺がつけてやる。てめぇは黙って見てろ」


「なんだお前、いきなり……うぉ!」


 尚も喚き散らかす若者を力付くで押し除け、リカルドは横で立っていた女の手を引いた。驚いた表情で呆気に取られる彼女を無理矢理椅子へと座らせる。そして、オリヴィエの描いたデザインを数秒見つめた。

 傷跡も、過ちも、全てを祈りとして昇華させた彼のデザイン。その思いを掬い取るように、指でなぞって確認すると、リカルドは迷いなく新しい針をマシンに取り付けた。用意されたインクカップに浸し、下書きもせずにすぐさま女の肌へ針を落とした。


「てめぇ…! フリーハンドなんて、また失敗するに決まってる!」

「……黙って見てろって言ったろ。こいつの「祈り」が刻まれるところ、ちゃんと見てろ」


 駆動音が唸り声を上げる。リカルドの迷いのない針の運びが、女の肌に残された黒い汚れを上書きするように、見る見るうちにオリーブの蔓を描いて生命の畝りへと作り変えていく。

 喚き散らかした若者も、止めに入った顎髭の男も、そして足を止めた野次馬たちも、迷いのないリカルドの手つきに釘付けになった。

 オリヴィエは再び自分の「祈り」がリカルドの手によって肌に刻まれる様子に、瞳を熱っぽく揺らした。下書きもしない状態で、他人の過ちを完璧に調和していく神業。その技術に、改めて畏怖に近い尊敬の眼差しで見つめた。


「おい、ボサっとすんな。新しい消毒液とワセリン、用意しとけ」

「は、はい!」


 オリヴィエは肩を跳ねさせ、ペーパータオルと消毒液を手にリカルドの傍らで待機した。

 やがて、血とインクが混ざった肌を拭き取り、そこに出来上がった「祈り」を込めたデザインが完成した。一部始終を見つめていた観客の数人からは、堰を切ったように拍手と小さな歓声が沸き起こった。

 呆然と立ち尽くしていた隣のブースの若い彫り師が、震える声でリカルドに問いかける。


「た、助かったよ……フリーハンドでここまで仕上げるなんて、あんた、一体……」

「ただの田舎の彫り師だ。……それより、それ。壊れたまま放っておくのか?」


 リカルドは鼻を鳴らし、床に転がったマシンを指差した。若者が慎重に拾い上げた無惨な残骸を、リカルドはひったくるように受け取り、ぐるりと回して観察する。

 フレームは歪み、バネのテンションが壊れ、中のモーターが剥き出しになっていた。


「バネがイカれてんな。……道具の直し方も知らねぇのか?」

「新しく買ったから、まだ修理もしたことなくて……」


 呆れたように肩を竦め、それからリカルドは作業台から使い古された自身の工具を手に取った。

 指先でバネの歪みを調整し、折れ曲がった金具をニッパーでミリ単位で矯正していく。小さな金属が火花を散らすように音を立て、やがてかちりと小気味良い音を響かせた。

 リカルドはパワーサプライにコードを繋ぎ、フットスイッチを軽く踏む。最初は喚くような歪な音だったが、彼がもう一度バネを調整すると、音色は劇的に変わった。


「ほらよ。即席の応急処置だ。帰ったら修理出せよ」

「即席でも助かるよ……なぁ、あんた本当に、何者なんだ?」

「……貸しだ。次からは客の肌と、慎重に向き合えよ」


 呆然とする男の問いに返答することなく、押し返すようにマシンを返すと、リカルドは何事もなかったように席へと戻った。

 それを見ていた観客たちから再び小さな歓声が起こる。だが、その背後では二人の審査員が顔を見合わせていた。


「見たか、今の? あの速度で、他人のミスをフリーハンドで完璧にカバーするとは」

「『Inchiostro Vivo』……そういえば数年前にも、似たようなデザインを見た気がするが」


 ざわめきは波紋を立てるように静かに広がり、リカルドが隠してきた光が、意図せず会場を少しずつ侵食し始めていた。


「おい! リカルドって本当はすげぇんだな?!」


 一部始終を見てきたマルコが、興奮気味にオリヴィエの肩を叩く。観客たちの賞賛に混じって、大声で騒いでいる。


「ただ酒飲んで女漁ってるだけのオッサンじゃねぇんだ……」

「……おい、マルコ。お前が俺の頭をサッカーゴールにしてボールぶつけたこと、まだ忘れてねぇからな」


 針を止めることなく、リカルドは低く唸るような声で呟いた。マルコは「やばっ」と顔を引き攣らせ、慌てて目を逸らした。

 だがすぐに調子を取り戻すと、今度は客寄せのためにオリヴィエのスケッチと肩を掴んで過ぎ去る観客たちに向かって声を張り上げた。


「ほら、見ろよ! こいつがこのデザイン描いたんだ。こっちだって、「本物」の才能だぜ!」


 マルコに半ば矯正的に看板にされ、オリヴィエは困惑したように苦笑いを浮かべ、控えめにスケッチブックを掲げた。

 リカルドはそれらの喧騒を拒絶するように、アンナの背中と視線を落とした。彼は再び沈黙とインクの世界へと深く入り込んだ。

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