協奏曲-1
リカルドは一度眉をピクリと動かしたが、再びインクの世界に留まったが、オリヴィエの集中はそこで途切れた。弾かれたように顔を上げ、声のした方へと振り返る。
「ふざけるな! 彼女の肌を汚しやがって!」
派手な格好をした若者が、隣の若い彫り師の胸ぐらを掴み、唾を飛ばして怒鳴り散らしている。その横では、泣き出しそうな表情で腕を抑える女が立っている。紫色の下書きからはみ出した黒い線が、取り返しのつかない傷のように彼女の肌を汚していた。
「少し、ブレただけで……」
「ブレただけだと! 金返せ!! 消せねぇなら、このブースごとぶっ壊してやる!」
若者は逆上し、道具の並んだ机を力任せに蹴り倒した。消毒液の瓶が割れ、弾け飛んだインクが、リカルドたちのブースに跳ねる。若者は今にも、こちらのブースに倒れ込んできそうな勢いで暴れ続ける。
周囲のブースの彫り師たちも異変に気付き始め、壁際の一角で心配と好奇心の瞳が一斉に注がれる。
パニーニを手に戻ってきたマルコも、顔を強張らせてオリヴィエのそばへやってくる。
「……何があったんだ?」
「わからない……でも、ラインがズレたみたい。ミスしたんだと思う」
野次馬が壁のようにブースを囲み始めるが、広い会場内で警備員が到着するには時間がかかる。
この喧騒では仕事にならないと、リカルドが苛立たしげに立ちあがろうとした時だった。
「……僕なら、その線を消せます」
オリヴィエがその場に割って入り、青筋を立てる若者の前に立った。握りしめたスケッチブックは、自身でも驚くほど震えている。
「あぁ? なんだてめぇ、引っ込んでろ」
若者は、オリヴィエの首から下げられた「見習い」の文字を一瞥し、鼻で笑った。
「見習いのクソガキが、ミスを消すことなんかできんのかよ?」
「……消すことは、できない。けど、その線は、僕が描くデザインに必要な線です」
震えながらも、凛とした声で言い放つオリヴィエは即座にスケッチを捲り、女の腕にあった無惨なはみ出し線をトレースし、その歪な線を中心に、さきほどのオリーブの絵に組み込んでいく。
絡み合った蔓と陽光。単なる植物ではなく、誤ちや傷さえも抱え込んで成長する生命の畝り。
リカルドが叩き込んだ「祈り」を形にする技術が、今、オリヴィエの指先を通して具現化していく。会場の隅で起こった小さな不協和音が、オリヴィエの鉛筆の音によって鎮めていく。
オリヴィエが書き上げたスケッチを突き出すと、若者と、怯えていた女がそれを覗き込む。
「なんだよ、これ……」
「……すごい。私、元のデザインよりもこっちの方が好きかも」
「はぁ?! お前、俺のデザインに何言って……」
若者は怒りの矛先を失い、悔しげに歯を食い締めた。だが、尚も引き下がれずに床を指差した。
「……それでも、絵が描けたところでマシンは壊れてんだ! 誰が彼女の腕を仕上げんだ?! お前が責任取れんのかよ!!」
若者が先ほど自らの手で叩きつけたマシンは、フレームが歪み、金属片が無惨に散らばっている。オリヴィエは言葉に詰まり、視線を落とした。自分が持っているのは、麻袋に詰め込んだ粗末な自作のハンドポークの針のみ。周囲のプロの彫り師を前に、それを出す勇気は出なかった。
若者は行き場のないその怒りをオリヴィエに向けるように、力任せに拳を振り上げた。だが拳は振り下ろされる直前、何者かの手で遮られた。
「マシンを壊すだけじゃ飽き足らず、ガキにまで手を出したら終いだぞ、小僧」
そこに立っていたのは、先ほどオリヴィエに無理難題を依頼した顎髭の男だった。無骨なタトゥーで覆われた太い腕が、若者の腕を細く頼りなく見せる。
「離せよオッサン。あんただって、このガキを嘲笑いに来てた一人だろうが」
「……あぁ、そうだ。だがこいつのデザインは「本物」だ。今では、自分の行動を反省してるよ」
若者は腕を振り解こうともがくが、大岩を動かすかのように全く歯が立たない。その代わり、若者は精一杯の反抗として男を睨みつけた。二人の視線の間には火花が散り、膠着状態が続く。
そばで見ていたオリヴィエは狼狽え、マルコもパニーニを握りしめたまま「落ち着けって!」と声を張り上げている。
このままでは収集がつかないと察知し、リカルドはようやくマシンを止めた。重い腰を上げ、狼狽えるマルコとオリヴィエを左右にどかして歩み出た。




