カターニア・タトゥーコンベンション-2
会場の熱気を切り裂くように、一斉にマシンの音が響き渡った。
「Inchiostro Vivo」のブースの前にも観客が興味本位で足を止めるが、リカルドは一瞥もせず、アンナの肌へ最初の一針を落とした。
アンナは祈るように目を瞑り、背中を針が這う痛みに耐えている。リカルドは周囲の騒音を完全に遮断し、精緻な手付きで針を動かす。だが、その意識の端では、通り過ぎる客の中にある影を追っていた。
流行の派手な3Dタトゥーを見せびらかす若者たちに混じり、黒いスーツの男が足を止め、リカルドを鋭い視線で貫いている。審査員ではない、ドメニコの部下だった。彼らはリカルドの技術が「アート振興基金」の隠れ蓑として機能するかどうか、値踏みするように監視していた。
「……舐めやがって」
「なんだい? 今更怖気付いてんのかい?」
リカルドの低い呟きに、アンナが冗談めかして笑った。リカルドは男が人混みに消えるのを横目で確認し、鼻を鳴らした。
「……怯えてんのは婆さんの方だろ。手が震えてるぜ」
「何言ってんだい。シチリアの女を舐めるんじゃないよ!」
豪快に自身の緊張を隠すように笑い飛ばすアンナ。だが、リカルドの背中には、ドメニコたちの影に対する不本意な冷たい汗が伝った。
一方、オリヴィエはブースの端で立ち尽くし、アンナの背中を見つめていた。目の前のブースでは、ネオンのような原色の看板を掲げたイギリス人の一団が、オリヴィエの姿を指差し、何やら嘲笑するような会話が聞こえてくる。
「Hey, boy. その古臭い針は飾りか?」
聞き取れる断片的な単語と、侮蔑を含んだ笑い。オリヴィエは意味が正確に理解できず、言い返す術も持たないまま、ただ曖昧な苦笑いを浮かべてやり過ごすしかなかった。
リカルドはその様子を視界の端に捉え、さらにその人混みの背後でドメニコの部下が未だ静かに自分たちを静観していることに、苛立たしげな舌打ちをする。
「……おい、ガキ」
フットスイッチから足を離し、マシンの駆動音が止まった。血とインクを滲ませた針を握ったまま、リカルドはオリヴィエへ声をかける。
「S-sì!」
「ブースの前に立って、そこの客にスケッチブック見せろ。何か課題をもらってその場で書け」
「え?! ここで、ですか? でも、まだアンナおばあちゃんの……」
オリヴィエは、痛みに耐え、未だ祈るように目を閉じているアンナへと不安げな視線を向ける。
「見習いなら看板になれ。……いいか、お前の「祈り」を形にするには、目の前の人間が何を欲しているか、その目で見極めろ。リクエストは一つ。即興で最高の線を引け」
向かいのブースでは、相変わらずイギリス人たちが冷やかすように笑っている。リカルドは言い終えるや否や、突き放すようにアンナの背中へた意識を戻した。
逃げ場を塞がれたオリヴィエは、震える手でスケッチを握りしめ、通路の最前線へと立った。
通りかかりの観客が「何だ、見せ物か?」と冷やかしのように笑い、向かいのブースからは「That’s ridiculous《滑稽だな》.」と笑われる。
オリヴィエは無意識に手首を撫でながら、唇を強く噛んだ。そして、一度大きく深呼吸をする。
「……何か、書いて欲しいもの、ありますか?」
立ち止まる観客はいない。誰もがオリヴィエを一瞥するか、見向きもせずに通り過ぎる。時間と虚しさが募る中、顎髭を蓄えた一人の中年の男が仏頂面で近付く。
「随分ナヨついた見習いだな。即興のデザインなんて描けんのかよ」
リカルドと同じか、あるいはそれ以上はありそうな体格。見上げるオリヴィエの瞳は戸惑いに揺れるが、手首を力強く掴む。
「……出来ます。あなたの望むもの、形にします」
「へぇ、威勢がいいな。なら、俺の故郷のトスカーナのオリーブ畑を描け。ただの風景じゃない。太陽に焼かれ、瑞々しく熟れた実と、それに絡みつく蔓。それから祝福する天使と、溢れるようなワインも一緒にな。……出来るか、小僧」
あまりにも詰め込みすぎた、嫌がらせのような無理難題。周囲のブースからも「無茶言うな」と失笑が漏れる。オリヴィエは一瞬戸惑うが、目を閉じてイメージを膨らませた。
脳裏に浮かぶのは、リカルドに描かされた海辺の町の風景。彼に教わった線の引き方、力加減、祈りを描く指先の動き、そして、自分が歩んだ泥濘の記憶。
構成を、意味を、願いを、頭の中で一気に収束させた。
再び目を開いた時、オリヴィエの瞳には「祈り」を描く決意を宿していた。
「D’accordo.」
スケッチに目を落とした瞬間、オリヴィエの世界から音が消える。指先の鉛筆が、黒い線を迷いなく引く。リカルドの奏でる「あの子」のマシンの音と、オリヴィエの鉛筆が紙を削る音が混ざり合い始めた。
◇
オリヴィエが鉛筆が紙を走るたび、周囲を取り囲んでいた観客から感嘆のため息が漏れた。
白い紙の上で、枯れ果てた蔓が脈打つ血管ように命を吹き込まれていく。黒一色でありながら、そこにはイタリアの焦げ付くような太陽の熱と、ワインの滴る重厚な香りが宿っていた。
オリヴィエはただ形を描いているのではない。蔓の淵一つ一つに「苦悩」を、天使の翼に「救い」を、そして瑞々しいオリーブには「刹那の希望」を込めていく。リカルドの教えの通り、対象の奥にある「祈り」を線へと昇華させていく。
「まさか……本当に、描ききるとは」
揶揄うはずだった男は、全てを遮断し、聖職者のような敬虔さで描き続ける青年を前にして喉を鳴らした。彼自身、半分は揶揄いのつもりだった。だが本当は、強欲なまでの自らの願いを受け入れることが出来る職人を探す意図もあった。
男すらも気付かなかった願いを形にする、オリヴィエの迷いのない鉛筆の動きを食い入るようにして見つめていた。
次第に、冷やかし半分だった客も、向かいのイギリス人たちも、言葉を失い、オリヴィエたちのブースに釘付けになった。職人気質な二人の放つ異様な集中が、その空間だけを聖域に変えていた。
リカルドはその様子を視界の端で捉えていたが、人混みの中に潜むドメニコの部下が、その様子をじっと観察しているのを見つけ、ただ静かに小さな息を漏らした。
「お節介どもが……」
「オリーに嫉妬してんのかい? 相変わらず小さい男だね、あんたは」
アンナの揶揄いも無視し、リカルドはドメニコの部下を威嚇するように睨みつけた。男は笑みを浮かべるでもなく、それを一瞥して立ち去っていく男の背中を見つめた。
その時、オリヴィエの静寂を切り裂くような怒鳴り声が、隣のブースから響いた。直後に重いマシンが床に叩きつけられ、金属の破片が床に散らばる乾いた音がした。




