カターニア・タトゥーコンベンション-1
車窓から見える枯れ始めたオリーブ畑が後方へと流れる。
オリヴィエはバックミラー越しに、外を眺めるリカルドの横顔を盗み見た。相変わらずの無表情。だが不意に視線が重なりそうになると、肩を跳ねさせて前を向いた。
あの身分証を見つけて以来、リカルドを覆う影は一層濃くなった気がして、どうしても上手く言葉を交わせない。
オリヴィエは膝の上の麻袋をギュッと掴み、中にある「仮の身分証」の存在を確かめた。逃げ出したあの雨の日、リカルドが自分を見つけ、シチリアへ居ていいと肯定してくれた確かな「証」。ドメニコから渡されたでろう正式な書類よりも、この粗末な書類の方が、オリヴィエにとって自分を繋ぎ止める唯一の錨のようだった。
そんなオリヴィエの不安も吹き飛ばすように、ラジオからは陽気なイタリアンポップが流れ出し、アンナとマルコが即席のデュエットを始めている。
「「no,no,non esistono più〜!」」
「うるせぇな……大体、誰の曲なんだよ」
助手席のリカルドは、窓から肘を出して茶色い草原を貧乏揺すりと共に眺めていたが、痺れを切らしたように吠えた。
「サラなんとかって人、リカルド知らないのかよ?!」
マルコは片手をハンドルから離し、指を窄ませて詰め寄る。リカルドは鬱陶しそうにそれを避けると、マルコの天然パーマがかった頭を掴んで無理やり前へと向けさせた。
「お前も碌に覚えてねぇじゃねぇか」
「確か、ボチェッリとのデュエットでしたよね?」
「そうだよ! あんたこそ、この素晴らしい歌を聴きな! it's tine to say goodbye〜」
アンナも音程の狂った裏声で叫び始めると、リカルドは「壊れたラジオかよ」と毒づきながら、新しくタバコに火をつけた。
オリヴィエはそんな騒々しい車内の空気に、少しだけ張り詰めた心が溶けるのを感じ、小さく息をついた。
やがて車はカターニアの市街地に入る。潮風の代わりに喉を焼くような排気ガスが流れ込み、マルコとリカルドが二人して指を窄ませ、「cazzo!」と大渋滞に叫び声を上げる。
「着くのに二十年はかかるぞ。……あぁほらそこ。詰められたろ」
「無理だよ! 事故ったらどうする、親父の大事な車なんだぞ」
「元々廃車寸前だろうが。傷の一つや二つ、増えたところで分かりゃしねぇよ」
前方の二人の言い合いを聞きながら、アンナは「うるさい男どもめ」と悪態をついた。オリヴィエもつられて苦笑いをするが、ふとアンナの指が小さく震えているのに気付いた。
彼女の悪態も、これから向かう場所への不安と焦燥を隠すためなのかもしれない。
オリヴィエは何も言わず、ただ静かに微笑んで、アンナの皺だらけの温かな手を握った。
やがて、中心地から少し離れた歴史を感じる古い会場の前で車は止まった。
一行が車から降りると、そこには海辺の町にはない、異質で暴力的なまでの熱気が漂っていた。
会場入り口には、「Catania Tattoo Convention」と書かれた巨大な横断幕が貼られている。駐車場には、極彩色のタトゥーを全身に纏った人だかりが、吸い込まれるように中へと消えていく。
マルコがトランクから荷物を取り出し、オリヴィエに手渡していく。リカルドも自身の荷物を掴み上げたが、ふと、視線が遠くの路肩に停まった一台の黒塗りの高級車に釘付けになった。
「どうした? 緊張して腹でも壊したのか?」
「……何でもねぇよ」
イタズラっぽく笑うマルコに目もくれず、リカルドは忌々しげにその黒い車を睨みつけ、鋭く舌打ちをした。彼はマルコから残りの荷物を引ったくるように奪うと、肩に掛けて大股で歩き出す。
オリヴィエはその背中を不安気に見つめていたが、やがてアンナの腰を支えるようにして後に続いた。
◇
会場内に足を踏み入れた瞬間、無数のマシンが蜂の羽音のように耳を突き、重低音のロックが内臓を揺さぶった。消毒液とインク、そして数百人の人間が発する熱気と脂の匂いが、肺の奥まで充満する。
「すごい……!」
「彫り師ってリカルドしか知らなかったけど、シチリアにこんなにいたのかよ……」
マルコとオリヴィエは感嘆の声を上げる。アンナはその横で「耳が馬鹿になりそうな場所だ」と鼻を鳴らした。
「シチリアだけじゃない。欧州中から、下手すりゃアジアの連中もここに集まってんだよ」
リカルドは短くなったタバコを地面に吐き捨て、靴裏で踏み潰した。会場の熱気を懐かしむような、二度と戻りたくなかった過去を呪うような顔をしていた。
通路は網目状に白い衝立で隔てられ、すでに彫り始めている者、異国の言語で笑い合う者たちの雑音が渦巻いている。
それらを抜けた先、中央から少し離れた壁側のブースに、彼らの目的地があった。
「Inchiostro Vivo」
ゴシック体の文字のみの簡素な看板が、今回の彼らの戦場の舞台。
リカルドは荷物を置くと、無言でマシンのセッティングを始めた。
「おいガキ、ぼぅっとするな。インクの準備しろ。終わったらデザイン画を壁に貼っとけ」
ぶっきらぼうに指示に、呆気にとられたオリヴィエは跳ねたように「Sì!」と答えた。
隣では、マルコはすでに会場の熱に浮かされ、キョロキョロと辺りを見渡している。
「……いいか、邪魔だけはすんなよ」
「分かってるって! ちょっと周り見てくる!」
興奮気味に目を輝かせたマルコは、リカルドの返事も待たずに足早に人混みに紛れていった。
アンナは変わらず不機嫌そうな顔を崩さなかった。だが、膝の上で固く組まれた指先は白く強張り、かすかに震えている。
「アンナおばあちゃん……大丈夫。きっと、リカルドさんが、ちゃんと「祈り」を彫ってくれる」
「……年かね。人が多いところにくると、どうも落ち着かないよ。ありがとうね、オリー」
オリヴィエの言葉に、アンナの震えが少しだけ収まり、彼女は慈しむように柔らかく微笑んだ。
二人が準備を進め、アンナを施術用の簡素な椅子に座らせたその時、会場を震わせるような爆音の音楽が鳴り響いた。
中央ステージでは、シチリアの伝統音楽を激しくアレンジしたダンスパフォーマンスが繰り広げられている。観客もアーティストたちも、その熱狂に呑み込まれるように歓声を上げた。
だが、リカルドはブースの端に背中を預けたまま、ステージには見向きもせずタバコを燻らせていた。
いつの間にか戻ったマルコだけが、大きく声を上げ、興奮気味に隣のオリヴィエの肩を叩いて腕を振り上げている。
「……騒がしいね」
アンナが耳を塞いでぼやいた。
リカルドは無言で一度だけ、重い視線をステージへ向ける。
審査員席の向こう側、ステージの裾。そこに、黒いスーツを纏ったドメニコの姿を捉える。
ドメニコは獲物を狙うような目でリカルドのブースを睨み、視線がぶつかると、薄く不敵な笑みを浮かべた。
リカルドは忌々しげに目を伏せ、大きく舌打ちをした。
「さぁ、シチリアの才能ども! 準備はいいか?! 針を研げ! 肌を穿て! 己の腕を見せつけろ!」
極彩色の派手な照明が音楽とともに乱舞し、主催者がマイクを握って咆哮を上げる。
オリヴィエは熱狂するマルコの一歩後ろでそれを見つめていたが、弾かれたようにリカルドを振り返る。
「始めるぞ。……集中しろ」
リカルドはマシンの前に深く腰を下ろし、オリヴィエの瞳を射抜くように見つめた。彼は、会場の喧騒を切り裂くような低い声で唸る。
「カターニア・タトゥーコンベンション、開始だ!!」
主催者の宣言を合図に、数百台のマシンの駆動音が一斉に響き渡った。それは、巨大な蜂の群れが彼らに襲いかかるような、獰猛な羽音に聞こえた。




