交差-2
リカルドがコーヒーを淹れに席を外した時だった。
オリヴィエが背伸びをして、ふと視線を外した先、部屋の隅に脱ぎ捨てられた革ジャンがあった。その中から、見慣れない茶封筒が覗いている。
あの日、不穏な空気を纏い、バールへ向かったリカルドの影のある背中、不自然なほど急に決まったコンペ出場が重なる。
この茶封筒の中に、答えがあるのではないか?
勝手に見てしまう罪悪感を押し込め、確かめたい衝動に従って立ち上がった。制止するかのように、耳の隣で鼓動がうるさく跳ねている。オリヴィエは後ろを何度も確認すると、慎重に近付いて中身を盗み見た。
「っ……!」
中には、シチリアの紋章が入った正式な身分証があった。
一体いつ撮られたのか、自分の顔写真とルカーチ・オリヴィエという正式な名前、そしてハンガリーの国籍。リカルドからは時間がかかると言われていたあの身分証。
なぜ今、ここにあるのか。
(あの場所で、リカルドさんは一体何を話したんだ?)
この紙切れ一枚のために、彼は何を差し出したというのか。
疑念と、腹の底から冷えるような不安が混ざり、身分証を握る手に力が入って白く強張る。
「……そこで何してる」
低く地を這うような声。弾かれたように振り返ると、影を背負ったリカルドが立っていた。彼が手にしたマグカップからは、無機質な湯気が立ち上る。逆光で顔は見えないが、暗闇の中で瞳だけが狼のように光っている。
「それはお前が触れていいものじゃない。返せ」
リカルドの突き放すような冷たい目と言葉に心臓が跳ねる。オリヴィエは叱られた子供のように、全身を強張らせる。だがリカルドは黙って近付き、オリヴィエの手からそれを奪い取ると、引き出しの中へ押し込んで鍵をかけた。
「リカルドさん……それ、僕の、名前」
「今のお前には関係ない。触れるな」
「関係ないわけ、ない! どうして、あんなのが……時間がかかるって」
「練習に戻れ」
リカルドはオリヴィエの言葉を沈黙で遮った。
師としての熱はない、あるのは深い孤独のような冷たい目。
「お前がやることは、アンナのデザインに向き合って、ただ針の腕を磨くことだけだ。余計なことに首を突っ込む暇があるなら、針を持て」
有無を言わせぬ拒絶に、オリヴィエは何も言えなかった。喉元まで出かかった言葉を飲み込み、重い足取りで練習用の人工肌に向き合う。
スタジオからは、無機質で、規則正しい「あの子」の声だけが、薄情なほど部屋に響いていた。
それから二人の間に会話はなかった。
リカルドはさらに自分の殻に籠るようになり、オリヴィエもまた、身分証の件を胸の奥にしまったまま、取り憑かれたように練習をしていった。
◇
そして十二月、コンペ当日の朝が来た。
早朝の冷気に包まれたスタジオで、オリヴィエはインクや手袋、そして命より重い針の入った箱を鞄に詰め、必死に持ち上げた。
リカルドの持つ荷物は更に重く、中には調整された二台のマシンと工具類が、鈍い音を立てて詰め込まれている。
やがてスタジオの前に、古いフィアットパンダが止まった。
「ボンジョルノ! 準備いいか!」
運転席からマルコが快活な声を上げながら降りてくる。後部座席には、不機嫌そうな顔をして、淡いピンクの花柄の一張羅のドレスを見に纏ったアンナが鎮座している。
リカルドはトランクを開けると、オリヴィエの荷物をひったくるようにして奪い、乱暴に放り込んだ。
「グ、グラッツィ……」
リカルドは目もくれず、一言も発さないままタバコを咥え直して助手席へと乗り込む。苛立ちか、あるいは何かを隠そうとしているのか。
オリヴィエは行き場を失った言葉と共に一瞬立ち尽くしたが、マルコに促されるようにして後部座席へと乗り込んだ。
「あら、オリー。ボンジョルノ」
「ボンジョルノ。……アンナおばあちゃん、マルコ。今日は、本当にありがとう」
マルコが鍵を回すと、今にも止まりそうなエンジンが咳き込むように唸り声を上げた。マルコはバックミラー越しに、ふっとイタズラっぽく笑う。
「別に平気だよ。それに、オリヴィエに任せてたら、カターニアに着く前に婆さんの寿命が来ちまうからな」
「そ、そんなことないよ! 多分……」
アンナは「失礼な!」と吠え、自信なさげに声を落とすオリヴィエの背中をそっと摩る。
車内は、昨日までのリカルドとの沈黙に張り巡らされた緊張をほぐす様に、マルコとアンナの活気が満ちていく。
だか助手席に座るリカルドだけは、一言も発する事なく、黙って外を眺めていた。革ジャンのポケットから箱を取り出し、新しいタバコに火をつける。一気に車内が濃い灰色の煙で満たされていった。
「……行くぞ」
低く短い号令と共に、車は不規則な音を立てて発進した。
オリヴィエはアンナの隣りで、麻袋に詰め込んだ自作の針を握りしめた。もう一方の手は、無意識に手首の小さな太陽を撫でている。
車は時折、排気ガスを吐きながら、住み慣れた海辺の街は遠ざけていく。車窓から流れるのは、冬の陽光に照らされ、白く光るオリーブ畑。
窓から吹き込む冷たい風が鋭く、これから向かう会場が単なる技術を競う場ではなく、自分たちの運命を決する戦場を予感させていた。




