交差-1
オリヴィエが買い出しに出た後、静まり返ったスタジオの隅、リカルドはドメニコから渡された茶封筒を見つめていた。
中身はまだ正式な身分証ではない。だが、オリヴィエという青年の個人情報が、残酷なほど詳細に詰め込まれている。どうやって掻き集めたのか考えたくもないが、ドメニコのことだ、裏のルートを使って暴き出したのだろう。
リカルドは短くなったタバコを灰皿に押し付けると、テーブルの上の封筒を手に取った。
オリヴィエの顔写真と「Lukács ・Olivier」という、イタリアでは聞き慣れないフルネーム。
「ル……ルカー、チ? どこの名前だよ、ったく」
辿々しくその名前をなぞり、リカルドは鼻で笑った。だが、名前、現住所、性別、親の名前まで、文字列を指でなぞっていくうち、ある箇所を見て指が止まった。
「……ハンガリー?」
指先がかすかに震えた。窓から吹き込む冷たい潮風のせいではない。脳裏に、十二年前のあの夜がフラッシュバックした。
孤児院の教父の部屋、暖炉の生暖かい空気と窓の外の雪景色。
血溜まりの中、視界の端で動いた小さな黒い影。自分の罪を真っ向から見つめていた、翡翠色の瞳の少年。
あの時、ヴェローナに残したエレナと腹の中の我が子を思い、どうしても殺せなかった。あの耳障りなほど澄んだ瞳の持ち主。
「まさか……あの時のガキが」
リカルドは吐き捨てると、書類の入った封筒を机に叩きつけた。
オリヴィエの純粋な瞳に重なるのは、失ったエレナと抱けなかった我が子への思慕と罪悪感だとばかり感じていた。
だからこそ、「罪滅ぼし」のつもりで彼を拾い、今度こそは守らなければならないと言い聞かせてきた。
なのに、現実はどうだ。よりにもよって、あの日の罪そのものが、今俺を慕い、俺の目の前で笑っている。
「……クソ、何の冗談だよ」
今更現れたのは、俺を糾弾するためか、それとも自首でも促しに、あるいは罵倒でもしにきたのか?
だが、リカルドは苛立ちとともに書類に目を戻した時、ある違和感に目が止まった。
イタリアへの入国時期、一九九六年の五月。
あの日、リカルドが全てを失ってから一年と半年が経過している。
オリヴィエがあの夜の子供であることは疑いようがない。だが、オリヴィエ自身の言葉と、どうしても計算が合わないのだ。
リカルドがヴェローナを脱したのは一九九四年の十一月。だがオリヴィエは、十年前にヴェローナへやってきて、そこで自分を見たと言っていたはずだ。だからこそ、あの日のバールで「俺じゃねぇ」と拒絶した。
「……どういうことだ?」
ドメニコがわざわざ不正確なものを用意するとも思えない。オリヴィエの記憶違いか?と納得させようとするが、胸のざわめきは治らなかった。
リカルドは震える手でタバコを取り出し、紫煙で顔を覆う。
この皮肉な再会は自分にとって救いなのか、それともあの日の地獄の続きなのか。
潮風が煙をさらっていく。同時に、窓から運ばれてくる遠くの市場の喧騒を聞きながら、リカルドは左腕を強く掻きむしった。
ハージムに掴まれているように、針で抉られた傷跡が熱く疼く気がした。
◇
十一月が終わりに近づき、コンペの日が近づくにつれリカルドの指導は苛烈さを増していった。
「深さが足りねぇ。それじゃあ数年で色が抜ける」
「でも、これ以上針を入れると、皮が裂けそうで……」
「裂ける前に止めろ。指先に伝わる振動で判断しろ。……昨日教えたろ」
リカルドは背後からオリヴィエの動きをじっと観察していた。
以前なら「下手くそ」と一蹴していたが、今はオリヴィエが迷いを見せると、リカルドはその大きな手を重ね、正しい角度と深さを教えるようになった。
重なる手の温もり。
だが、その手からはタバコとインク、消毒液の匂いに混じって、血と硝煙の匂いが染み付いているようで、オリヴィエは小さく喉を鳴らした。
「……リカルドさん。そういえば、マルコが車、出してくれるって。アンナおばあちゃんも、一緒に連れていってくれるそうです」
「あのガキ、お節介だな」
リカルドは不機嫌そうに鼻を鳴らすが、その瞳には僅かに安堵の光が混じる。
「コンペは戦場だ。お前の「祈り」が本物かどうかが試される。中途半端な気持ちでいれば、アンナの人生ごと笑われると思えよ」
「……Sì.」
オリヴィエは小さく呟き、手首の太陽を無意識になぞった。
リカルドに刻まれたあの日の痛み。あれ以来、針を持つたびにその痛みを思い出す。そして、痛みに呼応するように、リカルドの指導は日を追うごとに熱を増していった。
まるで、自分がいなくなっても一人でオリヴィエが生きていけるよう、自分の技術を全て託すように。




