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インク アライブ  作者: おーひょい
影には影のルールがある
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疑念と手段-2

 スタジオに戻ってからも、リカルドの苛立ちは収まるどころか、より荒々しさを孕んでいった。貧乏ゆすりをしながら客の肌に針を刻むその手元からは、普段の静謐せいひつな集中力は消え、剥き出しの焦燥と苛立ちが漏れ出している。

 インクの底に溜まった顔料を振るカチカチという音も、今日はどこか乱暴で、狭いスタジオ内にやけに大きく響いていた。客が緊張を和らげようと叩く軽口も、リカルドは無視をするか、「うるせぇ」と鋭く遮った。客の肌を拭う手つきすら、事務的で冷淡に見えた。

 そんな荒れた空気から逃すように、リカルドはいつもの通り市場への買い出しを言いつけた。


「……さっさと行ってこい」


 追い払うような声に、オリヴィエはスタジオから飛び出した。


 十一月の冷たい風に身震いしながら、麻袋に詰めた買い出し品をキュッと抱える。肩に食い込む紐に目を細めて、海沿いの散歩道を歩くが、胸のざわめきは収まらなかった。

 アンナの協力がなければ、コンペで実力を十分に発揮することは不可能に近い。なにより、リカルドの素直に言えない性格を考えると、現地で直接依頼するなどもっと不可能だろう。


「やっと僕を、見てくれたと思ったのに。……また、振り出しだ」


 このコンペを成立させることが出来なければ、左腕を撫でながら見つめる無意識の癖も、狼みたいな目も、永遠に知る術を失うような気がしてならなかった。


「どうすれば……バスなら、一緒に、行けるかな?」


 オリヴィエは不法滞在がバレないよう、公共交通機関以外の手段でなんとかシチリアまでやってきた。だが改めて、その事実が状況を困難にしている。


「そうだ。マルコなら、バスの乗り方聞いても、大丈夫かな……」


 オリヴィエは足を止め、一度紐を肩に掛け直すと踵を返した。


 シエスタの時間は穏やかなざわめきに満ち、時折大声で呼ぶ声が聞こえる。中央の噴水を通り抜け、ロザリア像の影へ。新鮮な魚や野菜の匂いから、パチパチと脂の弾ける串焼き肉のローズマリーの香りが鼻をくすぐった。


「やぁ、マルコ。……ちょっと、いいかな」

「おう! どうした、また串焼き食べに来たのか?」


 マルコは人懐っこい笑顔を向けると、血のついた包丁を脇に置き、オリヴィエへ顔を向けた。

 オリヴィエは兎肉に顔を引き攣らせながらも、エプロンを血で汚し、兎の欠片を犬に投げながら見つめるマルコに、カターニアのコンペに行くこと、そしてリカルドがアンナを激怒させたことを、祈るような思いで話し始めた。


「そりゃリカルドが悪いな。……でもアンナ婆さんも不安なんだと思うぜ。カターニアといっても婆さんには遠い。前は息子のフランコがいたけど、一人だとな。老い先短いなんて言ってるけど、あの人は人一倍寂しがりだからな」

「そうだよね……バスなら、一時間で行けるよね?」

「バス、いいじゃん! お前も付き添って行ってやれば喜んでいくだろ。……婆さんも本当は行きたいんだと思うぜ。お前のことは孫みたいに気に入ってるみたいだし」


 マルコの提案に、オリヴィエは一瞬言葉に詰まらせた。


「それで……その、バスって一度も乗ったことなくて……」

「は?!」


 マルコは持っていた包丁の手を止め、信じられないという顔でオリヴィエを凝視した。


「マジかよ……お前、ここまでどうやって移動してきたんだ?」


 マルコの素朴な疑問が、オリヴィエの胸を刺した。脳裏に過ぎるのは、排気ガスの充満したトラックの荷台や、薄暗いコンテナ。乗せてもらう代償に要求された汚らわしい所作の数々。


「……その、ヒッチハイクとか、運転手さんの「機嫌」を取ったりして……」


 乾いた笑いを立てながら応えるオリヴィエの言葉に、マルコは絶句した。中性的な顔立ちと細いシルエット、どれほど泥濘のような道を歩いてこの島に辿り着いたのか、複雑な事情を抱えたその長い睫毛が、翡翠色の瞳に影を落としている。


「……それで、マルコに頼みたくて。僕に、バスの乗り方、教えてほしい」


 マルコは、何も知らなかった自分への苛立ちを紛らわすように包丁をまな板に叩きつけた。重い音を立てて肉を断ち切り、目の前の「友人」の、あまりに健気な願いを飲み込んだ。


「……分かったよ。でもバスはなしだ、俺が前みたいに車で送ってやる。それなら、婆さんも文句ないだろうし、膝に負担もかからないだろ」

「……え、ほ、ほんとに?!」


 オリヴィエは弾かれたように顔を上げ、身を乗り出す。その純粋な翡翠色の瞳に宿る光があまりに真っ直ぐで、マルコはたじろぎ、照れ隠しのように包丁に目を落とした。無言で刃を磨きだす。


「十二月なら観光客も少ないし、問題ない。カターニアには一度一緒に行ってるし、親父には俺から話つけとく」

「ありがとう、本当に……ありがとう」


 オリヴィエは目を伏せ、潤んだ視界の中で頭を深く何度も下げた。

 リカルドの背中を追いかけるため、初めて自分で掴んだ「手段」。かつて自分の身を削って手に入れた移動手段とは違う、温かくて確かな救いだった。

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