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インク アライブ  作者: おーひょい
影には影のルールがある
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届いた想い-1

 午後を過ぎ、会場の喧騒が波を引くように落ち着き始めていた。だが、ブースでは変わらずスピーカーからの重低音が内臓を揺さぶり、人の熱気とインクの匂いで息が詰まるほど蒸し返っている。


 先ほどの騒ぎから数時間、リカルドは大粒の汗を流しながら一度も休むことなく、アンナの背中に針を落とし続けた。精緻なグラデーションが畝るように波や船を形作り、夜空を彩る星々が瞬きそうなほど煌めいている。


 痛みに耐え続けていたアンナも、次第に呼吸が浅くなり、苦悶の表情へと変わっていった。声は出さずとも、薄目を開けてオリヴィエへ視線を向ける。

 オリヴィエはその様子を気付き「リカルドさん、アンナおばあちゃんが……」と目で縋るように訴えた。リカルドもまた、長くは彫り続けられないという焦燥感に急かされ、針を落とすペースを極限まで早めていった。


 額から流れた汗を肩口で拭い、最後の仕上げとなる「光」を入れようとした時だった。

 リカルドの右腕が、突然悲鳴を上げた。

 一度針を離し、腕を振ってもう一度針を構え直す。指先が微かに、だが確かに震えている。無理な加速の代償か、あるいはドメニコという影へのプレッシャーか。

 リカルドはフットスイッチから足を離し、忌々しげに己の五本指を見つめた。それから、視線をオリヴィエの背中へと移す。

 相変わらずうるさく声を張り上げるマルコの隣で、次々に客からのリクエストに応え、紙の上へ祈りを具現化していくオリヴィエの背中があった。


(リクエストは一つだけと言ったはずだが……相変わらず勝手な奴だ)


 リカルドはふっと自嘲気味に笑い、遠くのステージを見つめた。裾のそばで談笑するドメニコの姿が目に入る。あのバールで差し出された、オリヴィエの正式な身分証。そして、そこに記されたあの雪の日に置いてきたはずの過去の罪。

 過去の選択も、過ちも、全て抱えたまま、シチリアまでこの青年を導いてしまったのは他ならぬ自分だ。ならば最後まで、彼の「祈り」を形にすることが、自分の果たすべき役目なのではないか。


──そしてそれは、自分の手でなくても構わない。


 オリヴィエの背中に、かつて部屋の隅で震えた少年の影に重なった。


(お前は一体……何を抱えてここまで来た?)


 リカルドは深く、長く息を吐き出すと、震える右手をもう片方の手で力強く押さえつけた。


「……おい、ガキ、こっちこい」


 低く、唸るような、だが鋼鉄の意志を持った声。オリヴィエは弾かれたように振り返り、小走りで駆け寄ってきた。リカルドは黙ったまま、自分の針をオリヴィエの目の前に突き出した。


「最後の一彫りはお前が入れろ。婆さんも、文句ねぇだろ」

「でも……リカルドさん、見習いに、客の肌は任せられないって……」

「俺の腕が限界なんだよ。最後の一彫りだ、俺が支えてやる。……行け、オリヴィエ」


 初めて真っ直ぐ呼ばれた自分の名前に、オリヴィエの鼓動が激しく跳ねた。

 無意識に疼いた手首をそっとなぞり、リカルドの青い瞳を見つめ返す。その目は、あの雨の日に、シチリアに居てもいいと肯定してくれた時と同じ、真っ直ぐで俊烈な光で自分を射抜いていた。


「……わかりました」


 翡翠色の瞳に決意の火を宿し、オリヴィエは針を受け取った。リカルドの大きな、熱を持った手が、オリヴィエの震える指を包み込むように支える。

 向かいのブースのイギリス人たちも、固唾を呑むマルコも、その異様な師弟の姿を見守るように見つめている。針が肌へと近付いていく。


「こいつの音以外は全てクソだ。音を覚えろ」


 オリヴィエは一瞬まぶたを閉じ、息を長く吐き出した。

 周囲の喚き声、重低音の音楽、誰かの怒鳴り声、会場内の無数のマシンの音。そのすべてが遠のき、やがて世界には、規則正しく心地よい「あの子」の低い音だけが、唯一の音として響いた。


 リカルドの指先の微かな震えと、その奥にある確かなリズム。リカルドの鼓動をなぞるように、オリヴィエは祈りを込めて針を落とした。

 鮮やかな青が、アンナの背中に浮かぶ太陽のそばで、希望の雫のように弾ける。

 ほんの一瞬、呼吸を止めた間に引かれた、点のような僅かな線。

 だがそれは、間違いなくオリヴィエがこのシチリアで、己の存在を刻んだ証だった。


 最後の一筋の線を描き終えた時、リカルドがマシンのスイッチを切った。

 喧騒が戻るはずの会場が、ほんの一瞬だけ、深い森のような静寂に包まれる。

 そこには、アンナの人生と、オリヴィエの純粋な祈り、そしてリカルドの確かな技術が混ざり合い、唯一無二の「聖域」として浮かび上がっていた。


「あんたの意地、形になったじゃないか」


 手鏡で自分の背中を覗き込んだアンナは、誇らしげに鼻を鳴らした。

 その瞬間、静まり返っていたオリヴィエの世界に、堰を切ったように喧騒が戻り始めた。それと同時に、堪えきれなくなった涙が不意に頬を流れた。


「ありがとう、アンナおばあちゃん……僕を、信じてくれて」


 涙を拭うのも忘れ、瞳に湛えた涙を溢し続けた。その場で立ち尽くすオリヴィエの頬を、アンナは子どもを慈しむような手つきで優しく撫でた。


「シチリアの男が簡単に泣くんじゃないよ。これじゃ、綺麗な顔が台無しだよ」


 隣ではマルコももらい泣きしそうな顔で、「本当によかったな」と小さく笑って肩を叩いた。

 リカルドはそんな彼らの様子を遠い目で眺め、一息つくように、まだ微かに震える手でタバコを咥えた。だが、通りがかった警備員に「禁煙だ」と止められ、忌々しげに舌打ちして肩を竦める。それを見て、マルコがおかしそうにリカルドの脇腹を肘で小突かれた。

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