パプリカとインク-2
リカルドの設定した「二週間」を間近に控えた頃、オリヴィエは一人、部屋で人工肌に針を刺していた。ステンシルの紫色の線に、手首を傾けて針先を沈める。角度は45度、針先は2ミリ。ハンドポークをひたすらに練習するよう命じられた。
隣のスタジオからは、リカルドがいつものようにマシンを調整する音が聞こえる。
「あの子」の低く規則正しい、澄んだような唸り声。リカルドがフットスイッチを踏む音の直後、マシンの澄んだ音の中に砂でも混じったような微かなに歪が混じる。
(あ、少しだけ、コイルが緩い?)
オリヴィエが気づくのと同時に音は止み、リカルドが工具を取り出す音と、ニッパーで金属をパチンッと切る音が聞こえる。やがてフットスイッチを踏み、再び澄んだ音を響かせた。調整が終わると、衣擦れの音と、ライターをカチンッと開いて火をつける音。彼のいつものルーティン。調整に満足すると、一服して新聞を読むか、デザイン画を修正する。
(いつも通り。……今日は新聞を読むのかな)
規則正しいリカルドの仕事を聞き分けようと耳を澄ませた時だった。スタジオの扉が開く音。直後に固い靴が木の床を踏み鳴らす。
「……あぁ」
リカルドの声は低く掠れ、たった一言だけ発する。その態度に、オリヴィエはその人物が客ではないことを悟った。微かな罪悪感と共に、会話に耳を澄ませる。だが、衝立越しではよく聞こえない。
「今月……だ。……ドメニコ……」
途切れ途切れの会話の後、すぐに紙の束がテーブルにズシっと置かれる、湿ったような独特の音が重く響いた。その重さに、オリヴィエは針や道具の代金ではないことは本能的に理解した。
◇
黄金色の夕方の陽射しが影を伸ばす時間、オリヴィエはソファーの背もたれに浅く腰掛け、スケッチブックに鉛筆を滑らせる。だが、先ほどのやり取りが頭から離れなかった。以前バールで言っていた「アレ」、「ドメニコ」という名前が頭を過ぎる。この灼熱のシチリアで自身を保護するリカルドは、何か別の影がある気がしてならない。
思考を巡らせていたが、リカルドが衝立を開け放つ音に途切れた。
何も言わずキッチンへ向かう彼の左腕に、陽射しが当たって影をつくっている。覆われたインクが、陽射しの光を吸い込むように余計に黒く見える。オリヴィエは意を決して口を開いた。なるべく、何でもないというような口調を意識して。
「……さっき、お客さんの他、誰か来てましたか」
「聞くな。続けろ」
ぶっきらぼうに吐き捨てられ、会話はそれ以上続かなかった。オリヴィエはモカポットに火をかけるリカルドの背中を見る。
重々しい空気が、鉛筆を握る手を湿らせる。
このシチリアで生きる彼の平穏は、おそらく薄氷の上に立っている。その人物が、氷を割るか割らないか、安全な場所からハンマーを握って笑っているのだ。
そしてリカルドは、その薄氷の上で二人分の重さを抱えて立っている。氷が軋む音を、オリヴィエの耳に届かせないよう誰よりも強い足取りを装って。
オリヴィエは鉛筆を握り締め、喉に絡みつく言葉を飲み込み口を噤んだ。
◇
オリヴィエは昨日の出来事に何も言えないまま、朝を迎えた。朝の静けさに海鳥と波音が部屋を満たしている。いつものようにリカルドはブルスケッタを作り、二人で黙ったまま食事を続けた。
リカルドは早々に食べ終えると、片手で新聞を器用に広げ、組んだ右足に乗せて読み始める。オリヴィエは翡翠色の瞳を上げてその様子を覗き見た。相変わらず無表情で、タバコを咥える顎には微かに無精髭が生えている。何も言わない彼の落ち窪んだ青色の瞳は、朝の日差しに透き通って地中海のように澄んでいた。だが、その奥には決して届かない影があるように見える。
オリヴィエが覗き見たままブルスケッタを一口噛むと、トマトの汁が顔に跳ねて思わず声を出した。
リカルドは一度チラリと赤い飛沫を見たが、何も言わずに視線を新聞の文字へと戻す。
その沈黙が「触るな」という拒絶に思えて、オリヴィエは肩を落とした。顎に滴る赤い汁を拭い、陽射しに反射する掌を見つめる。その掌は、リカルドの左腕を覆う黒いインクに比べてあまりにも白く、何も知らないままだった。
その時だった。スタジオの扉をノックする音がして、リカルドは新聞を放り投げて立ち上がった。
衝立を開け放たれると、新鮮な野菜とオリーブの匂いが、一気に無機質なインクと消毒液の匂いに上書きされる。
「ボンジョルノ、リカルド!」
「おう、朝早くから何だ?」
スタジオの向こうから聞こえるのは、掠れ声だが大きな声で挨拶をするマリオの声。離れていてもよく聞こえるほどの豪快さだった。オリヴィエはブルスケッタの最後の一切れを口に放り込み、耳を澄ます。
「あいつの身分証だ。仮だから簡素なモンだが、まぁ当分はこれで何とかなる」
衝立の向こうで、紙をバサっと振られる音がした。オリヴィエは最後の一切れを飲み込み、胸の鼓動を抑える。そこには、オリヴィエの名前、国籍、そしてこのスタジオの住所が書かれている。リカルドと自分の運命が、たとえ偽造であっても、公的な書類で初めて結ばれた瞬間。
「……住所ここかよ」
「仕方ねえだろ、まだあいつのことはよくわからないんだ」
マリオは大袈裟に肩を竦めて見せる気配が伝わる。リカルドは忌々しそうに内容を眺めるが、やがてタバコを摘んで指先で弾いた。
「……まぁいい。金は正式なものの後でいいか。昨日保護料を渡したから、少し厳しい」
「もう来たのか? 妙に早いな」
「バスも時間通りに来やしないのに、取り立てるのだけは早い」
「確かに」と返して、マリオは紙を軽く叩いて笑う。
「それかお前がタダで彫ってくれてもいいぜ!」
「それは対等じゃない」
リカルドの声には、冗談を跳ね返す鋼のような硬度があった。施しも受けず、媚びも売らない。その頑ななまでの「対等さ」への執着が、彼をこの町の荒波の中で立たせているのかとオリヴィエは悟った。
「頑固な奴め。用はそれだけだ、Ciau!」
サンダルが砂利道を踏み締める音が遠ざかり、やがてリカルドは部屋へと戻った。手にはオリヴィエの「居場所」を持って。顔を上げ、じっと見つめるオリヴィエの前に放り投げる。海の景色が描かれたスケッチの上に、粗末な紙が置かれる。
オリヴィエは紙を見つめる。印刷された文字が少し掠れている。粗末な薄い紙切れ。指先に伝わる感触は心許ないほど軽いが、それでも、今のオリヴィエには何よりも重い「許し」だった。
「これ……僕の、名前。……僕の名前だ」
掠れた声で何度も指で文字をなぞる。目を伏せて翡翠色の瞳を濡らし、視界は見る見るうちに滲んだ。
「ありがとう……僕、ここに……この町に、いてもいいんですね」
「……」
リカルドはただ黙ってタバコを咥えた。伏せられたオリヴィエの顔をじっと見つめる青い瞳の奥は、微かに柔らかな光を帯びている。
「……とりあえず買い出し行ってこい。この間俺に使い走りさせた分だ」
ぶっきらぼうな声が、湿った空気を切り裂いた。オリヴィエは慌てて手で目元を拭う。
「あの時、逃げたのに……大丈夫かな?」
「問題ねぇ。いいからさっさと行ってこい」
リカルドはいつもの冷徹な目に戻ると、オリヴィエの背中を放り出すように小突いた。「わ!」と声を上げ、よろめいたオリヴィエだったが、やがて麻袋を肩に掛けてスタジオを飛び出した。




