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インク アライブ  作者: おーひょい
影には影のルールがある
33/72

パプリカとインク-1

 翌々日のリカルドの自室すぐ、乱雑に空き瓶が転がるキッチンにオリヴィエは鼻を鳴らして立っていた。

 黄ばみの残るカウンターに、不釣り合いなほど鮮やかな牛肉と真っ赤なパプリカパウダー、そして無造作に野菜が転がっている。


「よし。作るぞ……!」


 オリヴィエの気合いとは裏腹に、包丁がまな板を叩く音は危なっかしい。一口大とは言えないほど、大きな塊が次々と生み出されていく。

 シエスタの最中、リカルドはソファーに背中を預けながら、仕事用のデザイン画に鉛筆を走らせている。だが、実際には耳を澄ますだけで精一杯だった。

 朝起きるなり、リカルドの用意したブルスケッタを食べながら「今度は僕が作ります」と突然宣言したのだ。

 「グヤーシュ」という彼の故郷の料理らしいが、リカルドにはどこの国なのか検討もつかない。


(元ギャングの俺が、ガキの使い走りかよ……)


 わざわざ市場へパプリカパウダーを買いに行かされた屈辱を思い出し、内心で毒付いた。だが、オリヴィエの期待と自信に満ちた翡翠色の瞳を向けられれば、断る術などなかった。


「あれ、パプリカって、どれくらい入れる?」


 不穏な呟きが聞こえた時だった。

 肉の焼ける激しい音の直後、ボンッと弾ける音がして、キッチンからスパイスの刺激臭と真っ赤な煙が流れ込んだ。

 リカルドはその音と匂いに肩を一瞬跳ねさせたが、深いため息をつき、呆れと諦めが混じる顔で立ち上がった。


 むせ返るほどのパプリカと、赤い煙の中、オリヴィエは手を振りながら咳き込む。手には空になった瓶が握られている。


「全部ぶち込むバカがどこにいる」

「だって……母さん、いっぱい入れると美味しいって……ゲホッゴホッ!」

「……殺す気か、どいてろ」


 涙目で咳き込むオリヴィエを押し退け、リカルドは鍋を奪い取った。鍋の底に焦げ付いた「何か」をヘラでこそげ落とし、シンクへ放り捨てる。

 そこから迷いなくリカルドは冷蔵庫からミルクを取り出し、鍋の中へ流し込んだ。手早く塩と胡椒を振り、味を整えていく。

 そのまま冷蔵庫から萎びたレタスの束を取り、雑に千切って大皿の上へと乗せた。

 リカルドは煮立つのを待つ間、棚に背中を預けた。横目に、子犬のように肩を落とすオリヴィエを見る。


「上手くやれると、思ったのに……」

「……まぁ、致死量は防げただろ」



 食卓には、かつてグヤーシュになるはずだったものが並んでいた。パプリカの匂いは抑えられ、レタスと牛脂の匂い、鼻をくすぐる塩と胡椒。


「塩入れすぎたな」

「でも、美味しい……」


 未だしょげ返るオリヴィエをフォローする言葉を言ってみるが、効果は無いようだった。沈黙ののち、二人はスプーンで口に運んでいく。

 陶磁に金属の当たる音が静寂の部屋に響く。静寂を裂いたのはリカルドだった。


「そのピスタチオ、お前が買ったんだろ」


 リカルドの不意の問いに、オリヴィエはようやく顔を上げる。


「あ……そうです。甘いもの、好きか分からなかった。けど、何か、あげたいなって」


 リカルドは鼻を鳴らし、話題を逸らすようにカップを手に取る。


「……そうだ、タトゥーショップで、コンペのポスター見たんです」


 オリヴィエの言葉に、リカルドは眉を上げる。だがすぐに目を細め、忌々しいものを見るような顔で飲み干す。


「……あぁ、あれか」

「前に出たことあるって、聞いた。あんなにすごいタトゥーを彫るあなたが、どうして負けてしまったのかなって……。聞いても、いいですか?」

「まぁ……別に不思議なことじゃない」


 リカルドは肩を竦め、皿の淵をなぞるように視線を落とす。少しの沈黙ののち、ゆっくりと口を開く。


「……俺は準備に時間をかけるタイプだ。客の肌見て、何背負ってるのか聞いて、何度もスケッチを重ねる。で、納得したら彫る。そうやって、「逃げ場のない正解」を見つけるんだ。だが、あの場所でそんな甘えは通用しなかった」


 レタスについた赤いパプリカの残骸を見つめ、やがて隠すように口に放り投げた。萎びていて、舌に絡みつくようで不愉快そうに目を細めた。

 あの日のお題は、「自由」だった。

 皮肉なものだ、とリカルドは自嘲気味に鼻で笑った。彼にとっての自由は、誰かに与えられるものでも、三十分で捻り出せる安っぽい羽の絵なんかでも到底なかったからだ。


「納得いかないデザインを彫るくらいなら、負けた方がマシだと思った。……まぁ、不貞腐れて帰ったのは間違いない」


 リカルドは鼻で笑い、タバコに火をつける。真っ白な煙を、オリヴィエの顔に吹きかける。


「……俺みたいになるなよ。職人アルティジャーノってのは、自分のこだわりと、客の期待に折り合いをつけないとならない」


 オリヴィエは煙の中、揺れるインクの左腕を見つめた。翡翠色の瞳は、リカルドの黒いインクの下、あの太陽のタトゥーを見つめているようだった。


「それでも僕は、絶対、リカルドさんみたいになります。ただ追いかける影じゃなく、あなたの隣で……。僕は、「あの子」の音が好きなんです」


 「あの子」と呼ぶオリヴィエを、リカルドは一瞬手を止め、目を丸くして見遣る。


「あの子? ……マシンのこと言ってんのか?」

「はい。音で覚えろって言われて、ずっと聞いたら……愛着湧いて」


 少し照れながら目を伏せるオリヴィエに、リカルドは言葉を失った。やがて堪えきれないように、短く吹き出した。


「ほ、本気です! あの子と一緒に、カターニアの舞台に、立ちたい。あなたの隣で、僕の描いたデザイン、彫って欲しい。あなたの優しい針の音、僕は好きです」


 「優しい」針の音。

 オリヴィエの言葉に、エレナの優しい声が重なる気がした。

 リカルドは一瞬タバコの手を止め、窓の外の海を眺めた。その横顔に、ほんの微かな微笑が浮かぶ。


「見習いの癖に生意気言いやがって。まずは俺が納得するもん書け。話はそれからだ」


 それからの二週間、オリヴィエの生活はスタジオを隔てる衝立の内側に限定された。スタジオの奥では、朝から晩まで「あの子」の唸り声が止むことはなかった。リカルドが客に彫るマシンの音と、オリヴィエが人工肌をハンドポークで叩く静かなリズム。二つの音が重なり、溶け合い、いつしかそれは、生活の一部となっていった。

 リカルドは時折、無言でオリヴィエの背後に立ち、不器用な針運びを見つめた。


「……まだ深すぎる。客を殺す気か」


 そのぶっきらぼうな罵倒さえ、オリヴィエには確かな絆のように感じられた。

 リカルドの部屋の匂いが、いつからかシャツに染み付いてしまうほどに馴染んでいく。

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